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「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)

朝があって夕べがあるというのが私どもの常識なのに、聖書は「夕べがあって朝があった」という。一体これはどうしたことか。

聖書の一日は夕方から始まる。それはまず安息して疲労をいやされ、力を回復するところから一日を始めるようにと、神が予め配慮されたものではないだろうか。

私も時折、文章を書くにあたって、想が浮かばず、思うようにタイプが進まないことがある。そんな時思い起こすのがある人の言葉。—“何も出来ない時、どうしたらよい

か。最善の道は何もしないことである。”以前は原稿用紙を何枚も何枚も無駄にしたものである。書きつぶし、にしたからといって、満足な文章が生まれるものではない。そうしたときは心を静かにして、ただ待ち望む姿勢が大切である。

朝が来れば、露が豊かに降りて地の表を潤すように、神は必要に答えてくださるのである。

勤勉な働き者の日本人の心理から言えば、“何もしないでいる”ことは、苦痛であり、怠慢のように思われ、安息はさながら時間の空費のように見えるかも知れない。しかし、創造的な発想や爆発的なエネルギー、あるいは慰めや喜びの源泉は安息の「夕べ」の時間の中に秘められているのである。同じように、一週間もまた安息から始められる。この日を単なるレジャーの日でなく、安息の日、神の前に静まる礼拝の日としてスタートする時、真に祝福され、満ち足りた日々を経験するのである。

「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。島々よ、わたしのもとに来て静まれ。国々の民よ、力を新たにせよ。」(イザヤ書39:29~40:1)

「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(詩編30:5)

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