目 次(4)

ホームにもどる

感謝の源泉

「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 (コリント第一、5:18)

最近、「感謝」とか「ありがとう」という美しい言葉が次第に少なくなり、「すみません」、「どうも」がそれにとって変わりつつある。嘆かわしいことだと思う。あり余る時代の豊かさの影響が言葉の上にまでおよび、感謝の思いが薄らぎ、「当たりまえムード」が先行しているからだろうか。

聖書は、「どんなことにも感謝しなさい。」と教えている。これは聖書の中でも最も親しまれている言葉の一つで、クリスチャンの生活訓としてよく用いられている。しかし、この言葉だけが聖書の枠の中から飛び出して駆け回っているようである。聖書は何の理由もなしに感謝を勧めているのではない。そこには感謝せずにはおれない理由がちゃんと明記されているのである。

上に掲げたみ言葉に、「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあるが、ここにまず第一の理由がある。主イエスが私共のために何をしてくださったか。十字架上の贖罪と復活によって、私共の罪をゆるし、神の子として生まれ変わらせ、天国の市民としてくださった無限の恵みを、回顧するとき感謝せずにはおれないのである。

さらに「どんなことにも感謝する」理由は、神の行き届いた愛による摂理のゆえである。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)

この「どんなことにも」の中には、喜ばしいことばかりではなく、悲しいこと、辛いこと、苦しいことも含まれている。劇的なことと共に、取るに足りない些細なことも、また、過去に経験したことばかりでなく、未経験なことも含まれている。とにかく「どんなことも」である。神はそれらすべてのことを総動員して、私共の益となるようにしてくださるというのである。エジプトの宰相にまでなったヨセフは、このことを身をもって私共に立証している。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(創世記50:20)兄弟から嫉妬され、奴隷として売り渡され、エジプトでは嫌疑を受けて投獄され… しかし下る道はやがて上る道の準備段階として用いられたのであった。

今年も間もなく感謝祭を迎える。私共も信仰の目をもって、神の豊かな恵みの現実を認め、また、先取りして、心からなる感謝を捧げようではないか。

前の記事 ホーム 次の記事

[編集] [追加] [削除] [復元]