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神の恵みを見る

「彼(バルナバ)はそこに着いて、神の恵みを見てよろこび」(使徒11:23口語訳)「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(詩編34:9)

ある神学校の教授がことあるごとに「一番難しいことは、神に祈ることだ」というのを聞いて、その家庭で働いているお手伝いさんがこう言った。「先生、私にとって祈ることほど楽しいことはありません。なぜなら、それは一人ぼっちの私にとって神様と対話することですもの、朝、眼が覚めた時、『肉体の眼と共に心の眼を覚ましてください』と祈り、顔を洗う時、『私の心を洗いきよめてください』と祈り、食事をいただく時、『私の魂も豊かに養ってください』と祈り、そして一日を始めます。こんなに楽しいことはありません。私には祈りに明け、祈りに暮れる毎日です。どうしてそんなに祈ることが難しいのでしょうか。」

冒頭に記載した二つの聖句が示しているように、神の恵みは漠然と与えられるものではなく、だれでもが具体的に実感し、生活の中で現実に味わうことの出来るものなのである。

そのためには必須条件がある。まず何よりも長らく遠ざかっていた神様との関係が回復することである。救い主イエス・キリストを信じ、心から罪を悔い改め、神の子とされ、更に自分に対する神様の恵みと愛が分かってくると片言でも祈りたくなるものである。

昔、伝道者ムーデーは短い三つのことばがあれば誰でも祈ることが出来ると言った。その三つの言葉とは、“GOD-HELP-ME” つまり、「神様、助けてください、私を」 — このあとに願い事を加えれば立派な祈りになる。しかし言葉よりも問題は、内面、心そのものなのである。どうかこのことを切に求めていただきたい。

最後にカルヴァンのことばを引用させていただこう。「たとい、神が主であり、すべてのよきものの配分者であり、私たちに必要なものを求めれば満たして下さる、と知っていても、彼に祈り、訴えることをしないならば、ちょうど、ある人が地の中に埋められている宝を知りながら、掘り起こす労をいとって、だらしなく打ち捨てておくのと同じである。」(渡辺信夫訳『信仰の手引き』63〜64頁)

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ福音書7:7)

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