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みことばに照らして

「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。…神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。』」(マタイ福音書22:21,31)

サドカイ派というのは、主イエスの時代の祭司やレビ人など、神殿を中心として働く宗教的グループで、「復活はない」(マタイ22:23)更に「天使も霊もない」(使徒23:8)と主張し、来世や最後の審判を否定し、モーセの五書だけを信仰の拠り所として信じていた。

このサドカイ派の人たちが主イエスを詰問するつもりが、かえって自分自身の愚かさを暴露する結果となってしまったことが、マタイ福音書22章に記されている。

問題提起となっているこの結婚の掟は、申命記25章にある「順婚」(Levirate Marriage)と呼ばれているもので、死者の妻を死者の兄弟がめとって、その死者の家を継ぐべき子孫を残さねばならないという習慣である。サドカイ派の人々が持ち出したこのケースは、理論的には成り立っても、実際的にはありえない愚かな質問である。

主はきっぱりと「そんな間違いをするのは、聖書も神の力も知らないからだ。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と答えられた。

物をはっきり見るために眼鏡を必要とするように、私たちは真理を明確に把握するためには聖書が必要である。聖書をよく知っているはずの宗教家サドカイ派でさえこんな有様だったとすれば、まして私たちにおいておやである。

モーセに御自身をあらわされた神は、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われた。(創世記3:6)人々はこの言葉を、昔、アブラハム、イサク、ヤコブが信じ、礼拝した神というように解釈していたが、主イエスは「アブラハムもイサクもヤコブも神のまえに今も生きているのである。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である、とフレッシュな事実を啓示されたのである。

私たち日本人は長い間、異教的な精神土壌に育ってきた。聖書を学んでも、私たちの聖書知識は、まるで木に竹を接いだようなものではないだろうか。みことばに照らして人生のあり方をいつも吟味し、間違いに気がついたら謙虚に軌道修正したいものである。

「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩編119:130)

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