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凧 (KITE) の教訓

凧という文字は実にうまく出来ている。几は風の省略形、巾は布ぎれのこと。つまり、きれが風で舞い上がるという。文字の講釈はほどほどにして、「たこ、たこ、上がれ。天まで上がれ」だれでも子供の頃を思い出す、なつかしいあの「凧」から、いくつかのことに私の思いが導かれた。

①「たこ」は自力では高くのぼれないということ。
風という目に見えない力が上昇させるのだ。だれでも自分の力でクリスチャンになった人はいない。「また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント第一12:3)聖霊の風のお働きによって新生の恵みをいただき、上昇させていただくことをいつも心に留めていたい。

②「たこ」は一本の糸につながれて、初めて高くのぼるということ。
私どもにとって糸のようなものとは、神の言葉、聖書である。神の言葉どおり、聖書的に生活しようとすれば、鮮明に霊的なことが理解されるようになり、霊性がぐんぐん高められる。これと反対に自分本位に生活しようとすれば、糸の切れた「たこ」のようになり、信仰から逸脱する。

③「たこ」の糸はだれかの手によって操作されているということ。
しかも上手な人の手によらなければうまくいかない。世界一「たこ」上げ名人は「信仰の創始者また完成者であるイエス」このお方以外にいない。(ヘブライ12:2)

④「たこ」にはいろいろと意表を凝らしたものがある。「やっこだこ」「とんびだこ」など。
私どもの「たこ」は「キリストだこ」で自分が高く上げられるのが目的ではない。「私たちには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のはかに、誇るものがあってはなりません。」(ガラテヤ6:14)「われは誇らん、ただ十字架を、あまつ憩いに入るときまで」(讃美歌495:折り返し)と讃美するようにキリストを高く掲げ、広く証するものである。紙と竹に過ぎない小さい私どもであるが、ペンテコステの日の弟子たちのように聖霊に満たされ、導かれる時、すばらしいキリストの証し人の一人にしていただけるとは、何と幸いなことであろうか。

「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49) 

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