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最小者への特権

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)

マタイ福音書18章は、小さい者への福音書と言われている。この中には「小さい子供」「迷いだした一匹の羊」、「罪を犯した一人の兄弟」、「ふたりで祈る祈り」-が登場する。王の王であられる偉大な主イエスが、いかにこまやかな愛と配慮を持っておられるかがうかがえる一章である。その中でも特に20節は、私どもに勇気と励ましを与える。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 

市民権取得のクラスでも最低15人集まらないとクラスは成り立たないとか。しかし、主イエスは「二人または三人でも、わたしを思い出して集まる所には、わたしもそこにいるのだよ」と臨在を約束された。私たちも集まるたびごと思いを新たにして、主を礼拝しようではないか。

少数者のもつ固定概念に、マイノリテイ・コンプレクッスというのがある。何かにつけて「ない」ことが心を支配するようになり、自分たちは無力な人間だと思うようになる。

主の弟子たちは確かに少数であったが、しかし、「わたしもその中にいる」と仰せられた主の臨在のゆえに力づけられ、あらゆる困難を克服することができた。

美しい門の前で、乞食から施しを求められたときペトロは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言って、右手を取って彼を立ち上がらせた。あの出来事を思い起こそう。すべてを捨てて主イエスに従った弟子たちは、無一物であり、確かに経済的には貧しかった。しかし、彼らは、金銀以上に価値あるすばらしいものを所有していた。イエス・キリストである。

二人、三人だけを見ていたら、さびしくなるだろう。金銀に恵まれない自分を見ていたら悲しくもなるだろう。しかし、いつまでも変わることのない主イエスの臨在を仰ぐとき、

雲の切れ目から太陽が輝くように、問題は雲散霧消。問題は視線にある。私たちが何を見ているかである。

「恐れるな。小さい群れよ。御国をくださることは、あなたがたの父のみこころなのである。」(ルカ12:32口語訳)

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