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光の子として歩みなさい

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」(エフェソ5:8-10)

アイアンサイド博士がある時、シャツを着ようとして、まだ着られるかどうかと、汚れ加減を見ていたところ、ミセスがそばで見ていて「疑わしいようだったら、新しいのに着替えなさい」と忠告したという話がある。"DOUBTFUL, DO NOT!"

聖書は私どもの信仰と生活の唯一のガイドブックである。宗教改革者ジャン・カルヴァンは「聖書によるならば危険はない」と明言し、私どもはどのような時代の推移、文化の変遷の中でも、聖書は変わらない真理の羅針盤と信頼している。

ところが聖書に明確に記されていないことはどうなるのか。例えば、聖書は「喫煙してはいけない」とはどこにも書いていない。なぜかといえば、聖書の記された時代には煙草は存在しなかったから。

有名な英国の説教者 C.H.スポルジョンは大の喫煙家であった。「あなたは食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても神の栄光を現わすためにしなさい」の聖句から説教した時に、「私は神の栄光を現わすために、煙草も吸います」とつけ加えた。大いに喜んだのはシガレット・カンパニーで、早速、広告をすり直させた。「C. H. スポルジョン愛用の‥‥‥」

これをみて彼は大いに反省し、以後この生活習慣を慎むようになったと言われている。

飲酒はどうか、賭け事はどうか、あれはどうかこれはどうか…?? と言い出したらきりがない。しかし、その答えは問うその人の心に既に与えられている。"Doubtful, do not!”

疑わしいことはしないことである。

私どもは光の子どもとされたのだから、光の子どもとして歩むのが自然なのである。光の子供にとって暗闇は不自然である。目に微小な塵が入って痛みを感じない人がいないように、罪を不自然な異物と感じないクリスチャンはいないはず。本当に新生を経験したクリスチャンであるなら、罪を罪と認め、罪を悔い、悲しみ、更にそれと戦うはずではなかろうか。

「光の子として歩みなさい。」「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」

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