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救いは十字架に

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(コリント第一1:22,23)

ずいぶん前の話である。コロラド州デンバーに住む一人の女性が、ある宝石店で十字架のネックレスを買おうとした。好みのものを選んでいると、店のセールスマンが言うのに「ミセス、十字架にも二種類ありまして、プレーンの(平たい)ものと小さい人がくっ付いているものとありますが、どちらにいたしますか。」この言葉に女性は大きなショックを感じたそうである。キリスト教国アメリカに生まれ育ちながらも、まだイエス・キリストを知らない人がいると言う事実に!

信仰がいつしか形骸化され、教会通いが習慣化されて、肝心要の中身が失われつつあることは何とも悲しいことである。その反面、いろいろな似て非なるもの、異端や東洋の擬似宗教が盛んに活動し、満たされない心の空洞をまがいものでひきつけている。

使徒パウロが伝道した時代は今日よりもっと困難な、しかも偏見に満ちた時代であった。「ユダヤ人はしるしを求め」と記しているように、聖書の知識が誰よりも豊かであるはずのユダヤ人は心を頑なにして福音を受け入れず、目に見えるしるしや奇跡を求めていた。

「論語読みの論語知らず」があるように、ユダヤ人はまさに「聖書読みの聖書知らず」であった。パウロはしるしや奇跡を求めるユダヤ人に妥協せず、旧約聖書の預言とその成就である十字架と復活を語った。ここに彼らの必要とする救いがあったからである。

十字架の贖罪なしに罪からの救いはなく、復活の事実なしに永遠の希望の希望はないのである。ギリシャ人は知恵を探します。昔ギリシャ人がそうであった様に、現代の知識人は科学万能主義で科学で実証されなければ受け入れようとしない。理屈に合わないものは信じないのである。パウロが当時の文化の中心アテネで福音を語った時、知識人たちは「ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒言行録17:32)。確かに十字架の宣教は彼らにとっても現代人にとっても愚かに見えるだろう。しかし、パウロは力を込めて叫ぶ。「十字架のことばは、滅んで行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」(コリント第一1:18・口語訳)

大胆に十字架を掲げて進もう!

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