“あれもこれも”と接待のことで心を取り乱しているマルタに、主は優しく仰せになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカによる福音書10:41~42 *前後を理解するため38節からお読みください。)
事情はさまざま違っていても、決断を求められている点に於いては昔も今も変わらない。今日、私共もマルタのようにあれも、これもと手を出し過ぎて、主が“一つだけ”と言われた第一のものを見失ってはいないだろうか。
昔、一人の人が俳句を志して師匠のもとにやって来た。「よろしい。それでは早速、『海鼠』という題で一句ものにしてごらん。」海鼠(なまこ)はご存知のように頭も尻尾もない冬の海産物。[注:英語は sea cumcumber] 彼はさがって一句を作った。
“まな板に下女取り落とすなまこかな。”
「うん。出来たね。でも余計なものが着き過ぎている。それを全部捨てなさい。」
“まな板に取り落としたるなまこかな。”
「まだまだ。もっと捨てなさい。俳句にムダは禁物。」とうとう夜まで考え抜いたあげく、
“取り落とし、取り落としたるなまこかな。”
やっと合格!「これでよろしい」と弟子入りが許されたとか。
これは何が重要であるか、中心点であるかを強調するための例話に過ぎない。マルタの妹、マリアにとって必要な、唯一つのこととは何であったか。それは主イエスの側にいること、彼のお言葉に聞き入ることであった。これこそ私共の信仰生活の要点であり、欠くことは出来ない。主日礼拝で一番重要なことはこのことではないか。礼拝中できるかぎり私語を慎み、みことばを通して主のみ声を聞き、豊かに恵まれ祝福されて家路に着くものでありたいと切に祈って止まない。
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(詩編27:4)