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スピリット対スピリット

「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ちすもとです。むしろ、霊に満たされて」(エフェソ5:18)

「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」とペンテコステの日に聖霊に満たされた弟子たちは悪評された。(使徒言行録2:13)これに対してペトロは、「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」と前置きして、聖霊の注ぎについて語っている。確かに人の目には聖霊に満たされた弟子たちの姿は、酔っているかのように見えたに違いない。

英語では酒も”spirit”、聖霊も”Spirit”、しかもどちらも人間をコントロールする力をもっている。はじめは人が酒を飲み、次は酒が酒を飲み、最後は酒が人を飲むとか。酒の勢いを借りると気弱な人でも、雄弁になり、あるいは、泣かせたり、笑わせたり、怒らせたりする。酒はまったく不思議な魔力をもっている。百薬の長などと言っても,酒によって人が善良になった例を見たことがない。聖書は「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ちすもとなのです。」と戒めている。

しかし、その反対に天来の酒である聖霊は、人を新しく生まれ変わらせ、心に豊かな喜びを与え、うるわしい品性の実を実らせ、決断力のある意志の人にする。

ガラテヤの信徒への手紙5章22節以下を見ると聖霊に支配され、導かれる人の品性の果実が列挙されている。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」「実」と言うものは生命が生み出すものであって、手の業の作り出すものではない。

使徒言行録を読むと、いかにキリストの弟子たちが聖霊によって変革されたか、その実例を見ることが出来る。ペトロは主イエスを三度も否んだ臆病な人であったが、大胆に主を証する忠実な使徒に変えられていった。ステファノは自分を殺そうとしている人々のために神に罪の赦しを祈る愛の人に変えられていった。キリスト教の迫害者であったパウロは聖霊によって方向転換させられ、命がけで福音を宣教する者に変えられていった。今日の私たちもそうしていただくために大事なことがひとつある。―――

「あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」(ルカ福音書11:13)

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