目 次(4)

ホームにもどる

キリスト御自身

「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る』」。 (ヨハネによる福音書4:13,14)

昼の12時頃、人目を避けてこっそりと井戸の水を汲みに来たこのサマリアの女にとって、「泉となってわき出る」という主イエスのお言葉は、心をときめかした。だから時を移さず、「その水を私にください」と求めたのであった。私たちキリスト者に、このサマリアの女のように井戸水に依存した生き方と、内にわき出る豊かな泉を持った生き方が見られるのではないだろうか。久しぶりにA.B.シンプソン博士の「キリスト御自身」を味読した。わずか20頁ほどの小冊子ながら、こんな大きな感動をキリスト教界に及ばしたものはない。その中から数節を抜粋してみよう。

「集会で恵まれたとき、人々はその喜びについて『うれしい』とか『恵まれた』とか語っているのをよく聞きます。私はかって喜びを持っていると思っていました。しかし、私はその喜びを長く持ち続けることが出来ませんでした。何故かと言いますと主御自身を私の喜びとして持っていなかったからです。このような失敗を重ねた後、主はねんごろに語り給いました。『わが子よ、わたしを受けよ。私自身を、あなたのすべての必要の絶えない供給者とせよ』と。このようにして遂に、私のとその体験から目を離して、内におられるキリストに目を向けたとき、自分の貧しい経験にかえて私どもの一時的な必要を満たして、更に余りある偉大なキリスト御自身を得たのであります。」

かつては、われ良きものを、求めて主を忘れたり。
賜物よりいやしより、与え主ぞ、更によき。
わがすべてのすべてなる、主をば崇めん。とこしえに。
A.B.シンプソン作詞(聖歌598、1節)

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7:37,38)

前の記事 ホーム 次の記事

[編集] [追加] [削除] [復元]