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文字と霊

「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。」

これは英国での話である。ひとりの有名な声優が社交パーティに名誉会員として招待され、みんなのリクエストに応えて文学作品を朗読することになっていた。たまたまその席に居合わせたひとりの老説教者は、この声優に詩編23篇を朗読することを依頼したところ 一つの条件付きで承諾してくれた。そのひとつの条件とは、声優が朗読したあとで老説教者も同じように朗読するということであった。

さすが一流の声優だけあってその朗読は大したもので、抑揚は美しく、韻を踏んで感動的な迫りをもっていた。次は老説教者の番になった。この人の声は長年の説教による、しゃがれ声で、元気もなく、語調は上品どころではなかった。ところが、全部読み終わったときに、そこに集まっていた人々の目には涙があった。

ひとりの人が声優に何がそうさせたのか、質問したところ、彼は言った。「私は詩編23編を知っています。しかし、彼は牧者を知っています」と。私どもは、聖書を読むことによって与えられる祝福を経験してきた。しかし、ここでもう一歩進めて聖書の文字の背後から語りかけておられるお方、つまり、聖書の原著者であるお方を個人的に知ることほどすばらしいということを経験したい。

最初に掲げたみことばは、ペトロの最後の言葉、遺言である。「わたしたちの主、また救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」口語訳では「ますます豊かになりなさい」と訳されていた。宗教改革者マルティン・ルターは、「もしわたしがペトロの肖像を描くなら、彼の髪の毛一本一本に『罪の赦し』と記すだろう」と言っている。そのごとくペトロは多くの罪、失敗を赦され感泣し、それゆえに今あることを知っていた。使徒パウロも「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。」と言う。(コリント第一、15:9,10)

聖書知識は主を知る知識に到達すべきであり、そのための手段であり、道程であるべきである。祈って聖書を読み、聖書を読んではまた祈ろう。もっともっと主を知るために!

「なおもみ恵みを、なおもみ救いを、なおもわがために見失せし主を知らん
 なお深く主を、なお深く主を、なおもわがために見失せし主を知らん」(新聖歌344)

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