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教会の死と復活

「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」(ローマの信徒への手紙6:5)

ある牧師が活気のない教会に招かれた。「あの教会は死んだも同然だ」と聞かされていたが彼はそれを承知の上で赴任した。何の計画性もなく、ビジョンもなく、努力もなく、牧師の説教に対しても、何の興味も応答も示さなかった。

彼は礼拝に集まった会員に、この教会は本当に死んでしまっていると語り、教会の葬式をするように呼びかけた。その日取りが決まり、お棺が運び入れられ、教会の周囲は花輪が飾られた。 葬りを知らせる弔鐘が鳴らされ、長年教会から離れていた人々が集まってきた。牧師はいつものように葬儀を執り行い、最後にいよいよ告別することになって、人々は一列に棺の方に進んで行った。

開かれた棺の中をのぞいた人々は、はっとした。棺は空っぽであった。その底に鏡が置かれていた。死んだ教会とは!! ほかならぬそこに見た自分たちの顔だったからである。

これは本当にあった話かどうか私は知らない。しかし、この突飛な話を読んで二つのことを学ぶことが出来た。

それは、事実を事実と判断した勇敢さである。医師にとって誤診ほど名誉を失墜させるものはない。同じように教会の霊的状態の判断を誤る牧師ほど、神の栄光を傷つけるものはない。これがもし本当の話だとすれば、この「教会の死亡宣告」をした牧師は実に偉いと思う。ヨハネの黙示録にも「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」という主イエスの厳しい叱責の言葉が記されている(黙示録3:1)。

しかし、話は死亡宣告で終わってはならない。本当に死んでいたのなら、復活が約束されているからである。聖書のメッセージは常に〈破壊〉と共に〈建設〉を語り、〈死〉の後に〈よみがえり〉が続くのである。つまり神の業は 1 からではなく 0 から始まるのだ。

預言者エゼキエルに、神は枯れた骨に満ちた谷を示され、「人の子よ、これらの骨は生き返ることが出来るか」と言われた。死人を生かす奇跡は人間には不可能、絶望である。

キリスト教会を揺り動かし、生命を与え希望を与え、リヴァイブするお方は、昔も今も変わらない神の御霊である。『御霊よ、くだりて昔のごとく!』(讃美歌21-499)         

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