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小さく見えることにも

さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。(ヨハネによる福音書6:11,12)

よく知られているパンの奇跡の記事である。弟子の一人が「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と言って差し上げた小さな五つのパン、ささやかな二匹の魚を主は感謝し、祝福されたのである。恐らく群衆の中にいた一人の少年がイエス様のためにと、けなげな心でプレゼントしたものではなかったか。大麦のパンというのは当時、貧しい人々の糧であり、魚も小魚であったと言われている。

人の親切を大きいとか小さいとか、スケールで測れるものではない。むしろ小さいと見えることの中に、言葉で表せない尊いものをしばしば発見するものである。

ある人が道を歩いていると、庭でだれか大声で祈っている声が聞こえてきた。「神様、こんなつまらない私に、すばらしい贈り物をいつも下さり感謝します」と。どんなにすばらしい贈り物だろうかと、そっとのぞいて見ると、ひとりの農夫が仕事を終えてコップ一杯の水をおいしそうに飲んでいたという。この人のようにコップ一杯の水の中にも無限の神の恵みを味わうことが出来たら、どんなに幸せであろうか。

さらに教えられることは、人々が満腹したとき、主が言われた言葉である。「少しも無駄にならないように、残ったパン屑を集めなさい」。 私たち日本人は昔から物を大切にするよう教えられてきた。「ありがたい」とか「もったいない」という言葉がそれである。「ありがたい」とは、元来「存在がまれである。むずかしい。なかなかありそうもない。めったにない。」(国語大辞典)ということで、感謝の気持ちを表す言葉であり、さらに、「もったいない」とは、「物の本体を失するの意味で、その物の値打ちが生かされず、無駄になるのが惜しい」(広辞苑)ということである。

今日のような消費時代、あまりにも物が豊かであるために、それがつい「あたりまえ」と思いやすいのではないだろうか。もっともっと物を大切にしたいものである。

今年も感謝祭を迎えるにあたり、日頃の小さいと見えることの中に豊かな恵みを認めて感謝を神に捧げよう。健康であること、病床にも信仰の慰めと良き看護のあることを、時間のあること、家族や友人のあること、クリスチャンであることを、主イエスが私の救い主であられることを、教会の交わりを、天のみ国の栄光の希望を…。ああ、感謝の種は尽きない。

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