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Philip の 続・ちょっといい話

恵みとまこと

聖書に「イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる。この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。」(旧約聖書・ホセア書4:1)ということばがあります。これは、古代のイスラエルが、道徳的に乱れたとき、神が預言者を通して語られたことばです。けれども、「真実」と「誠実」が無いのは、古代のイスラエル社会ばかりでなく、現代はもっとそうかもしれません。「偽り」や「ごまかし」が社会に満ちています。一所懸命働き、貯金をして、やっと手に入れたマンションが耐震偽装で建てられたもので安心して住むことができない。食べ物でさえ、パッケージの表示を信頼して口に入れることができない。そんな時代になりました。「真実」という言葉は、「信頼できる」「信頼して裏切られない」という意味ですが、世の中は信頼できないものばかりになり、人と人とが信頼しあえない、悲しい現実があります。

最初に引用した聖書のことばに「誠実」とありましたが、この言葉は他のところでは「愛」、「親切」、「あわれみ」、「ゆるし」、「寛容」、「恵み」などと訳されています。私たちが、他の人を信頼するのは、その人が完璧だからではありません。誰もが、世の中に完璧な人がいないことを知っています。不完全な人間同士がともに生きていくためには、自分に対しては「誠実」、他の人には「恵み深くある」ことが必要なのです。私たちは、人から頼まれたことを忘れてしまったり、いろんなことで約束を守れないことが多くあります。そんなときは、相手に約束を守れなかったことをお詫びし、それを埋め合わせ、同じことを繰り返さないよう努力します。これが「誠実」な態度です。そして、自分に「誠実」な人は、相手に対しても「親切」であり、「寛容」です。相手の失敗を責めたりしないで、それをゆるし、やり直すチャンスを与えます。それが「恵み」です。聖書が「誠実」も「恵み」も同じひとつの言葉で表わしているのは、とても意味深いことだと思います。

ところが、人は、自分の不誠実は棚に上げて、他の人の足らないところを責めます。自分の不真実を認め、悔い改めて、誠実な者になろうと努力するよりは、「世の中は、正直者が馬鹿を見るところさ。真面目に生きるより、うまくやればいいんだよ。」と、この世の「知恵」で立ち回っています。それは、神が、「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもないからだ。」と言われたように、人が、ほんとうの意味で神を知らないからです。

さまざまな調査や統計によれば、アメリカでは90パーセントの人々が、なんらかの意味で「神」の存在を信じています。半数以上の人々が、愛と恵みに満ちた神がこの世界と人間を、目的を持って造られたと信じています。しかし、神のことばである聖書を学び、祈りによって神とまじわりを持ち、神に従って生きている人、つまり、ほんとうの意味で「神を知っている」人は数少ないのです。

子どもが間違った方向に行ったとき、親は子どものことで嘆き、悲しみます。「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもない」というのは、人間のたましいの親である、神の嘆きと悲しみのことばです。しかし、神は、人間のために嘆き、悲しんでおられただけでなく、人間に真実と誠実、恵みとまことを示し、それを与えてくださったのです。それが、イエス・キリストです。聖書は、イエス・キリストについて、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(新約聖書・ヨハネの福音書1:14)と言っています。神は、真実も誠実もないこの世界に、真実(まこと)と誠実(恵み)に満ちたお方、イエス・キリストを送ってくださいました。イエス・キリストのうちに、神の真実と恵みが、形をとって現れています。イエス・キリストは信頼して裏切られることの無いお方、私たちがどんなに足らなくても、あわれみを求めて近づくなら、決して斥けられないお方です。「恵みとまことに満ちた」イエス・キリストによって、私たちも「恵みとまこと」に満たされ、この世界を「恵みとまこと」で満たしていこうではありませんか。

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