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Philip の 続・ちょっといい話

女性のモデル

今では、アメリカにあるほとんどのものが日本にあります。日本からおみやげに買ってくるめずらしいものはたくさんあるのですが、アメリカから日本に持っていくおみやげには、いつも「何にしようか。」と考えてしまいます。「日本に無くて、アメリカにあるものは何だろうか。」と考えてみたら、「クリスマス切手」を思いつきました。アメリカでは毎年、母マリヤとおなさな子イエスのクリスマス切手が発行されますが、こればかりは日本には無いと思います。私は、このクリスマス切手が好きで、今年の「マドンナと眠るおさな子」の切手もとても美しいと思います。

母マリヤはクリスマス切手だけでなく、世界中の女性のモデルとして慕われてきました。「モデル」といっても、マリヤは雑誌の表紙を飾ったり、テレビのコマーシャルに出てくる、華やかな容姿の女性たちのことを指しているのではありません。もっと内面的、精神的、人格的な模範としての「モデル」です。

マリヤは、クリスチャンの間で「神の母」、「聖母」として尊敬されてきましたので、私たちが見習うにはあまりにもきよく、神々しい存在と思われています。しかし、聖書に登場するマリヤは、結婚前のまだ未熟な一少女であり、行方不明になった息子を案じてオロオロするごく普通の母親でした。女性の目、また母親の目で聖書を読んでみると、マリヤのしたことや言ったことばがよく理解でき、マリヤを身近に感じることでしょう。そして、それと同時に母マリヤの中に、彼女を模範とし、見習うべきものがたくさんあることが分かってくると思います。

マリヤに見習うことは数多くありますが、その中でも、神のことばを思い巡らしたマリヤに習うことはとても大切なことだと思います。マリヤは、イエスを宿す前に、天使ガブリエルから「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言われ、そのとき「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」 (ルカの福音書1:29)と聖書にあります。

マリヤは、神からのメッセージを聞き流すだけでも、分かったつもになってしまうだけでもなく、深く心に受け止めて考えることができる女性でした。生まれたばかりのイエスさまを羊飼いたちが礼拝しに来たときも、マリヤは、その夜に起こったさまざまなできごとを「心に納めて、思い巡らして」(ルカの福音書2:19)いました。

イエスが12歳になったとき、ヨセフとマリヤは過越(すぎこし)の祭を祝うため、ナザレの村からエルサレムに行き、神殿に詣でました。少年イエスさまも一緒でした。ユダヤの国では男の子は13歳になると「バル・ミツバー」といって、宗教上の成人式をしますので、ヨセフとマリヤは翌年の「バル・ミツバー」の儀式に備えさせるためイエスを連れていったのでしょう。

当時、エルサレムに巡礼する人たちは、男女別々のグループに分かれて旅行しました。成人未満の男の子は、父親といっしょに男性のグループにいることもできれば、母親と一緒に女性のグループにいることもできました。それで、ヨセフは、「イエスはマリヤといっしょにいるに違いない。」と思い、マリヤは「イエスはヨセフと一緒だわ。」と思い込んでいたのでしょう。

ところが、イエスが一行の親族や友人とも一緒ではないことが分かりました。ふたりがエルサレムまで引き返してみると、なんとイエスは、神殿で律法の教師たちとディスカッションをしていたのです。マリヤは、イエスに「あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」と言いました。するとイエスは、「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」と答えました。これは、イエスが、ご自分が神の御子であると宣言されたことばでしたが、ヨセフもマリヤもすぐにはこのことばの意味がわかりませんでした。しかし、マリヤは「これらのことをみな、心に留めておいた。」(ルカの福音書 2:51)のです。

男性は、どちらかと言えば、聞いたことをすぐ実行に移します。しばしば性急にそれをしてしまうので、とんでもない結果を生み出すことがあります。一方、女性には、さまざまなことを心配し過ぎて、なかなか決断し実行できないという傾向があります。だからといって男性のように、女性が何も考えないで次々に物事を実行していったら、そこからは真実なものをいつくしんだり、弱い人々を思いやったりするやさしさは生まれてこないでしょう。

聖書は「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを思い巡らす。」(詩篇1:1-2、別訳)と言っています。

神は、私たちに「思い煩う」ことを戒めておられますが、それは何も考えないで「ケ・セラ・セラー。なるようになる。」と言って行動することではありません。神は私たちに「思い煩う」かわりに「思い巡らす」ことを勧めておられます。女性のからだがこどもを宿すものとしてつくられているように、女性のたましいには、真理をとりこんでそれを育み、時いたって真理の実を生み出す能力が備えられていると思います。母マリヤに倣って神のことばを深く心に留めるなら、現代の女性も、マリヤが神の御子を生んだように、素晴らしいものを生み出していくことができるようになるのではないでしょうか。

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