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Philip の 続・ちょっといい話

無償の贈り物

私たちは「良い天候に恵まれた。」「三人の子どもに恵まれた。」などと言います。この場合、「恵み」は、人間の能力や努力以上のもの、神から与えられる特別な顧みをさしています。人間には、他の動物にはない知恵と能力が、与えられているのですが、人間は、そのことで神に感謝するどころか、傲慢になり、あたかも自分の力で存在し、自分の力でものごとを成し遂げているかのように考えるようになりました。しかし実際は、私たちは神によって造られ、神によって生かされ、神によって支えられているのです。だれひとり自分の意志で生まれてきた人はなく、また、自分で生まれる国と時代を選んだ人はありません。人間の赤ちゃんは「未熟児」の状態で生まれてきます。他の動物のように生まれてすぐに歩くことも立つこともできず、自分で食べ物をとることもできません。親や世話をしてくれる人がなければ、生まれてきても生きていくことができないのです。自分で生活の糧を得ることができるまでに、すくなくても二十年、人生の四分の一から三分の一を費やし、他の人々の支えなしには生きてはこれなかったのです。自分の力だけで生きていると考えるのは、悲しいことですが、人間の思い上がりにすぎないのです。

神は、聖書の中で、「わたしは有って有る者」("I am that I am")と自己紹介しておられます。そこから「主」(ヤーウェ)という名前が生まれました。このお名前は、神が他の何ものにも依存しないで存在しておられるお方だということを教えています。私たち、人間は、この神によってはじめて存在する者となったのです。「神は存在しているのですか。どうしたら、それが分かるのですか。」という質問を受けることがありますが、そんなとき、私はこう答えてきました。「神は存在しておられます。神は存在の根源ですから、神が存在しなければ、あなたも存在していません。したがって、『神は存在するのか』と問うているあなたが存在することが、神が存在されることを証明しています。」神は、ただひとり、本来の意味での存在者であり、他のすべてのものは、この地球も、太陽系も、銀河系も、大宇宙も、すべて神によって造られ、存在を与えられているに過ぎません。大宇宙の星という星も、神のみこころひとつで、箒で掃いて捨てられるように、消え去るのです。神は「有って有る者」ですが、私たちは「有って無きがごとき者」と言ってもよいほどです。なのに、神はそんな私たち、人間に、特別な顧み、「恵み」を与えてくださるのです。聖書の詩篇は、このことを次のように歌っています。

あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
(詩篇8:3-4)

大きな業績をなしとげた人びとの多くが「私にこのことができたのは、神の恵みです。私がどんなに努力しても、機会や人々のサポートに恵まれなかったら、私の能力だけでは、このようなことはできませんでした。」と言っています。人間の能力に大差はありません。人が何事かを成し遂げたとしても、それは、その人の能力によってだけではなく、その能力を発展させ、発揮させる機会に恵まれたからです。私たちの人生のほとんどの部分は神からの無償の贈り物、神の「恵み」によって成り立っています。聖書に、「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(コリント第一 4:7)ということばがあります。神の「恵み」に目を留め、それを考えるとき、私たちは、私たちの幸いが、じつは、神に依存していることを教えられます。それによって私たちは、神の前に謙虚になることができます。そして、その謙虚さが神への感謝になり、神への信頼となり、人生を希望をもって生きる力となっていきます。神の「恵み」が私たちに語りかける、こうしたメッセージに、耳を傾けようではありませんか。

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