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Philip の 続・ちょっといい話

目が開かれたクレオパ

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカの福音書24:13~32)

クレオパは、エルサレムから西に8マイル行ったところにあるエマオというちいさな村の人でした。ユダヤでは、どんな小さな村にも「会堂」(シナゴグ)があって聖書を教えていました。クレオパも、子どものころから聖書を学んでおり、聖書を良く知っていました。エマオはエルサレムに近いこともあって、毎年エルサレム詣でを欠かしたこともありませんでした。

しかし、エルサレムに行くたびに、クレオパの心を曇らせるものがありました。聖なるエルサレムにローマ総督の官邸があり、ローマの兵隊が馬に乗ってエルサレム中を駆け巡っているということでした。神の都が異邦人、異教徒のローマ人の支配のもとにあるのは、クレオパにとって、どうしても我慢のならないことでした。

そんな時、クレオパは、イエスという人を知ったのです。ナザレから来たこのイエスは、イスラエルの全土を巡って説教をしました。それは、今まで会堂で聞いてきた教師たちの説教とはまるで違っていました。イエスの説教は神のことばそのものでした。イエスの説教を聞いて、クレオパは「今、神はイエスによって語っておられる。この人こそ神の預言者だ。」と思いました。クレオパは、もしかしたら、このイエスが、イエスラエルをローマから解放してくれるのではという期待を持ち、イエスの弟子となりました。この「過越の祭」にイエスがエルサレムに来られるということを聞いた時には、「今こそ、ローマ兵がエルサレムから追い払われる時だ。」と心を躍らせ、同じ村のもうひとりの弟子といっしょにエルサレムに駆けつけ、その目で、イエスがイスラエルを解放してくれるのを見ようとしたのです。ところが、こともあろうに、イエスはエルサレムの祭司長や指導者たちに捕まえられ、ローマ総督が彼を十字架につけてしまったのです。

クレオパは、イエスにかけていた望みをくじかれ、今、失意のうちに、自分の村、エマオに、もうひとりの弟子とともに戻る途中でした。ふたりが話すことといえば、「イエスが王となるのを見届けるはずだったのに…。イエスの死を見届けるようになるとは…。残念だ。イエスのような預言者は二度と現れないだろう。」ということばかりでした。

そうこうしているうちに、クレオパともうひとりのふたり連れに、見知らぬ旅人が加わりました。その人は、クレオパに「何を話しているのですか。」と質問して来ましたので、クレオパは、数日前エルサレムで起こったことを一部始終その人に説明しました。

クレオパが語り終えると、今まで黙って聞いていたその旅人は、「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」と言って口を開きました。それから、聖書のことばによってキリストがどのようなお方か、キリストがなぜ苦しみを受けなければならなかったのか、そして、その苦難の後、どのように栄光をお受けになるのかを次々と説明していきました。クレオパは聖書の話は子どものころから嫌というほど聞いてきました。どれも自分が知っている聖書の箇所ばかりでした。しかし、そうした聖書の箇所が、今は、新しい意味をもって自分の心に響いてくるのを感じました。

クレオパは、キリストはローマ帝国に隷属されているイスラエルを救い出してくださるお方だと思っていましたが、そうではなく、罪と死の奴隷となっている者たちをそこから救い出してくださるということが分かってきました。そして、キリストが、私たちの身代わりとなって苦しみ、その苦しみの後に復活の栄光に入るということが理解できるようになりました。見知らぬ旅人の話を聞きながら、クレオパも、もうひとりの弟子も心に熱いものを感じました。

旅人の話を聞いているうちに、エマオの村にやってきました。旅人は道を急ごうとしていましたが、クレオパは旅人を部屋に招き入れ、食事を共にしました。旅人がテーブルをはさんでふたりの正面に座り、夕食を祝福し、ふたりにパンを渡した時、クレオパはその顔を見て驚きました。それはなんとイエスだったのです。イエスは十字架の死の後、聖書の預言のとおりに復活し、クレオパと共に旅し、クレオパに聖書を教え、クレオパの前に座っておられたのです。クレオパともうひとりの弟子は顔を見合わせました。そして、もう一度テーブルの前に座っているイエスを見ようとしましたが、もう、そこにはイエスの姿は見えませんでした。イエスはご自分が生きておられることを示すために他の弟子たちのところに行かれたのです。いままで、クレオパといっしょに歩いて、道々、聖書を解き明かしておられたのはイエスご自身だったのに、クレオパの目はまだ開かれていなかったのです。しかし、聖書が分かり心が燃えたとき、クレオパは目が開かれてイエスを見ることができました。

聖書が分からないとイエス・キリストがともにおられてもそれが分かりません。しかし、聖書が分かると、どんな失望や悲しみの中でも、イエスがそこにおられるのが見えてきます。聖書は人間の知恵や知識をこえた不思議な書物、神のことばです。ですから、聖書は「分かってやろう」という高慢な態度ではなく、「分からせてください」という謙虚な心でなければ理解することができません。そうするとき、私たちもクレオパと同じように「心が燃え」「目が開かれ」てイエスを見ることができるのです。今から二千年前にクレオパと共に歩んでくださった復活の主イエス・キリストは、このイースターにも、あなたと共に歩んでくださるのです。

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