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Philip の 続・ちょっといい話

その友のために

Mychal Judge はニューヨークでアイルランドからの移民の子供として1933年5月11日に生まれました。アイルランドはカソリックの国でしたので Mychal は両親からカソリックのクリスチャンとして育てられ、フランシスコ会に入り、1986年からニューヨークのフランシスコ会の修道院で働くようになりました。Mychal神父は「ニューヨーカー」らしいユーモアに満ちた人で、ホームレス、アルコール依存症、AIDS患者たちのために精力的に働きました。彼は町で出会うどの人たちのためにも働きましたので「ストリート・プリースト」と呼ばれるようになりました。Mychal 神父は1992年にニューヨーク消防署のチャプレン(所属の牧師)となって以来、忙しい日々が続き、一日16時間働く時もありましたが、彼はこの仕事を愛しました。

2001年9月11日、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、ほぼ同時にハイジャックされました。ボストンのローガンから発った二機の旅客機のうちサンフランシスコ行きのアメリカン11便が8時46分、ワールドトレードセンター北棟にぶつかり、ロサンゼルス行きのユナイテッド175便が9時3分南棟にぶつかりました。ダレスを発ったロサンゼルス行きアメリカン77便が国防総省にぶつかり、国防総省で125人が亡くなりました。ニューアークを発ったサンフランシスコ行きユナイテッド93便はシャンクスヴィルに墜落しました。ハイジャックされた飛行機の乗客、乗員246人はすべて亡くなりました。

ワールドトレードセンターがテロリストにより攻撃され、消防署員が動員されたとき、 Mychal 神父もジュリアーニ市長の要請をうけて北棟にかけつけ、亡くなった人たちのために祈り、負傷者を慰め、消防士を励ましました。ワールドトレードセンターが炎上したとき窓から飛び降りた人たちがいましたが、Mychal神父はその人たちのためにも最後の祈りをささげていました。その間に9時59分南棟が先にくずれ、その後10時28分北棟もくずれました。ひとりの女性のための最後の祈りをささげ終わった Mychal 神父にくずれた建物の残骸が直撃し、彼は命を落としました。彼の遺体は、小さなパイプ椅子に乗せられ、現場から運び出されました。消防士たちが自分たちの愛するチャプレンのなきがらを抱えている写真は、母マリヤが十字架から降ろされたイエスの遺体を抱いている絵画「ピエタ」に通じるものがあり、「アメリカン・ピエタ」と呼ばれました。Mychal 神父の遺体は袋に入れられ、その袋には「Victim #0001」という番号がつけられました。彼は、ワールドトレードセンターで亡くなった2,602人、テロ全体で2,973人の最初の犠牲者として覚えられました。Mychal Judge 神父の物語は「Saint of 9/11」という映画になりました。「Let's Roll」と同じく2006年の作品です。

Mychal Judge 神父以外にも世界貿易センタービルでは、ニューヨーク市消防署の消防士343人、ニューヨーク市警察の警察官23人、ニューヨーク港湾管理委員会の職員 37人が亡くなりました。これらの人々はみな他の人々を助けようとして殉職した人々です。他の人を生かすために、自分の命を差し出したのです。聖書に「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)とあります。これはイエス・キリストのことばで、キリストはこのことばのとおり、人類の罪を背負って十字架で死なれました。ご自分の命を投げ出すことによって私たちに永遠の命を与えるためでした。キリストの死のゆえに私たちは生かされているのです。私たちも自分のためだけに生きるのでなく、他の人のために生きる人生を送りたいと思います。他の人のために死ぬことができるほどの愛を持ちたいと願います。「9・11」から8年目のこの日、これよりも大きな愛はないという「キリストの愛」を受け入れ、思い見ることができたら、私たちもそのような愛に一歩でも近づくことができるのではないかと思います。

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