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Philip の 続・ちょっといい話

パンだけでなく

良く知られた聖書のことばに、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイによる福音書四章四節)というのがあります。ある人が、これを茶化して、「パンだけでなく、バターもジャムもあるものな!」と言いましたが、イエスが言おうとしておられるのは、もちろん、そんなことではありません。

「神のことば」、それは、聖書のことです。聖書は千数百年という期間に、四十名以上のひとびとによって、書かれました。モーセは聖書の最初の五つの書物をシナイ半島の荒野で書き、イスラエルのダビデ王やソロモン王は詩や格言を数多く書き、それは「詩篇」や「箴言」という書物にまとめられました。イザヤやエレミヤなどの預言者たちはイスラエルで、ダニエルやエゼキエルはペルシャで、預言の書物を書きました。これらは、紀元前にまとめられ、旧約聖書となりました。

イエス・キリストが来られてから、四人の弟子たちがイエスの生涯と教えを書きました。それは「福音書」と呼ばれ、新約聖書の最初に置かれました。新約聖書には、ほかに初代教会の歴史と使徒たちの手紙が収められており、最後に世の終わりの預言を記した「ヨハネの黙示録」があります。新約聖書は紀元一世紀の間に成立しました。

聖書は確かに人の手によって書かれましたが、神は、その著者や編纂者に特別な方法で働きかけ、聖書を神のことばとされました。聖書が神のことばであることは、聖書自体が主張しているばかりでなく、聖書の歴史的正確さ、内容の独自性と統一性、預言の成就、殉教者や歴史家たちの証言など、数多くの証拠があります。そして、なによりも、世界中の数多くの人々が聖書によって人生の意味と目的を発見し、生きる力を受けていること、また、社会を変える力となってきたことが、聖書が神のことばであることを証明しています。

聖書だけでなく、聖書にもとづいて語られる説教も「神のことば」と呼ばれます。また、聖書のメッセージの中心であるイエス・キリストの十字架をあらわす「聖餐」もまた、「見える神のことば」と呼ばれています。

神のことばは「パン」です。なくてならない主食という意味です。「主の祈り」では、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」と祈りますが、この「糧」には「パン」という言葉が使われています。神のことばは、私たちにとって毎日必要な「パン」です。神のことばは、副食でも、デザートでも、スナックでも、ましてや調味料でもない、私たちが生きていくのに必要不可欠なものなのです。

よく、「聖書が分かれば、英語が分かる。アメリカの文化が分かる。」と言われます。それは本当です。しかし、私がみなさんに「聖書を学びませんか。」と呼びかけているのは、聖書を学べば、英語がわかり、アメリカでの生活に役立つという理由からではありません。聖書は、教養として身につけていれば、何かいいことがあるからというのでなく、私たちのたましいが生きていくのに不可欠なものです。

「聖書のことばはビタミンだ。」と言う人もあります。ビタミン剤をとって元気になるように、「聖書のことばに慰められた。元気が出た。」という体験を持っている人も多いでしょう。しかし、イエス・キリストは、神のことばはビタミン剤以上のもの、基本の栄養素だと教えておられます。私が「聖書を学びましょう。」と呼びかけているのは、それが、私たちのたましいの命のパンだからです。

毎日食事をとるように、毎日神のことばである聖書を読みましょう。神のことばが語られる礼拝に参加し、神のことばを学びましょう。クリスチャンであれば、聖餐にあずかり、神のことばによって養われましょう。そのようにして、神のことばを「パン」とし、主食とするとき、私たちのたましいは、命を得、成長し、救いに至るのです。

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