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Philip の 続・ちょっといい話

飼葉おけのみどりご

 私の娘がまだ小さかった頃のことです。クリスマスが近づいたある日のこと、こんな会話をしました。

娘「お父さん、イエスさまって、ずいぶん変わった赤ちゃんだったんだね。」
私「イエスさまは、私たちと違って神の御子だから、私たちと違ったところはあったかもしれないけど、赤ちゃんになって生まれた時は、私たちとちっとも変わらなかったと思うよ。」
娘「赤ちゃんって、ふつう赤いでしょ。なのに、イエスさまは緑色をしていたんでしょ。」
私「??」
娘「だって、聖書に『あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられる<みどりご>を見つけます。』って書いてあるんだもの!」

娘は、「みどりご」という言葉の意味が分からず、「緑色をした子ども」だと思いこんでいたのです。「みどりご」と言うのは、生まれたばかりの赤ちゃん、「嬰児」、"baby" という意味ですね。

 私の娘が読んだのは、クリスマスの夜、天使が羊飼いたちに語ったことばの一部でした。聖書にこう書いてあります。

 「恐れることはありません。
  今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
  きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
  この方こそ主キリストです。
  あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
  これが、あなたがたのためのしるしです。」     (ルカの福音書2:10-12)

 聖書は「主キリスト」が「みどりご」となって人間の世界に来られたと言っています。クリスマスには「飼葉おけの赤ちゃん」がつきものなので、キリストが赤ちゃんになって来られたことが当たりまえのように思われていますが、主であるキリストが人間の赤ちゃんになって、この世に来てくださったというのは、本当はすごいことなのです。キリストが赤ちゃんになって来てくださったのは、私たちのためでした。何のためでしょうか。

 第一に、それは、私たちが恐れなくキリストに近づくことができるためでした。キリストは、王宮や神殿に生まれてもよかったほど尊いお方です。しかし、キリストが王宮や神殿に生まれたなら、身分の低い、貧しい羊飼いたちは、キリストを礼拝することはできませんでした。いいえ、キリストは、赤ん坊にならなくても、天から栄光に輝く姿で降りてこられても良かったのです。しかし、それなら、羊飼いはなおのこと恐れおののいて、キリストに近づくことは出来なかったでしょう。赤ん坊を恐がる人は誰もいません。どんなに恐ろしい猛獣でも、その赤ちゃんはかわいいものです。キリストは、誰であっても、キリストのもとに恐れなく近づくことができるために、赤ん坊となってこの世に来てくださったのです。

 第二に、それは、私たちが神とその救いを知ることができるためでした。神はご人格を持ったお方ですから、「神を知る」といっても、それは、私たちが思索をこらしたり、悟りを開いたりしてできるものではありません。私たちは、誰かを知るという場合、一緒に勉強したり、遊んだり、仕事をしたりして知っていきます。私たちが誰かを知るためには、その人は、私たちの生活の中に入ってきてくれなくてはならないのです。もし、神が神のままでおられたなら、私たちは永遠に神を知ることはなかったでしょう。しかし、神が人となって人類の歴史の中に入って来られ、人間の生活の中に生きてくださったのです。それがイエス・キリストです。キリストは、私たちと変わらず、赤ちゃんとなって生まれ、誰もが歩む人生の道を歩まれました。それで、私たちはイエス・キリストによって神の愛を知り、神の恵みを知り、神のお心を知ることができるのです。

 第三に、それは、私たちが永遠のいのちを得るためでした。動物の赤ちゃんは、生まれてすぐに歩いたり、自分で餌を見つけたり出来ます。ところが、人間の赤ちゃんは一人前になるまで、何年もかかります。ある人が「人間はみな未熟児で生まれてくる。」と言いましたが、その通りですね。人間の赤ちゃんほど弱い者はありません。キリストは、その弱くて小さな赤ん坊になったのです。全能の神が、最も弱い者になるというのは、人間には考えもつかないことですが、これは同時にとても危険なことでした。キリストは生まれた時から命の危険にさらされていたのです。実際、キリストは、当時ユダヤの国を治めていたヘロデ大王に命を狙われ、エジプトに避難しなければなりませんでした。キリストが、そうまでしてこの世に来られたのは、私たちのためにご自分のいのちを与えるためでした。キリストは十字架でそのいのちを投げ出し、私たちが罪と死から救われ、永遠のいのちを持つことができるようにしてくださったのです。

 キリストがなぜ、この世に来られたのか。しかも、赤ん坊となって生まれてくださったのか。そのことを静かに思い見る、今年のクリスマスでありますように!

(2004年12月)

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