目 次(3)

最新記事を見る

ホームにもどる

Philip の 続・ちょっといい話

ムリ、ムラ、ムダ

 日本の経済が高度成長を遂げていたころ、生産性を上げるため、職場から三つの「ム」をなくそうと言われていました。三つの「ム」とは「ムリ」、「ムラ」、「ムダ」のことです。日本の企業は、品質管理の方法をアメリカから学びましたが、本家本元のアメリカよりもみごとにそれを実行して、それまで「安かし、悪かし」と言われてきた日本の製品を、どこの国の製品よりも信頼できるものにしました。

 「ムリ、ムラ、ムダ」ーこうしたものは、職場ばかりでなく、私たちの人生や生活の中にもたくさんあります。できるだけ減らすことができたら良いのでしょうが、まったく無くしてしまうわけにもいかないでしょう。人生では、少々の無理をしなければならないことがあります。ちょっと大変かなと思えることでも、がんばってやってみると、大丈夫なこともあります。いつも、楽な道だけを選んでいると、ストレスに弱くなってしまい、ほんの小さな困難にぶつかっただけですぐだめになってしまいます。骨も、筋肉も、運動をしてストレスを加えてやらないと強くならないように、私たちの精神にも、ある程度の「無理」は必要かもしれません。特に、何かを成し遂げようとする時には、「無理をしてでも」しなければならないこともあるでしょう。「これは無理かな?」と思えることでも、自分をそれに慣らせていくことによって、やがて楽にできるようになってくることもあります。「無理をしない」ということが自分を甘やかすことにならないよう注意したいものです。

 「無理」は時と場合によっては必要かもしれませんが、「ムラ」はどうでしょうか。「ムラ」があっては、ものごとをきちんと成し遂げることができません。どんなことでも、毎日コツコツ努力することにまさるものはありません。確かに偉大なことを成し遂げるには、「突然のひらめき」が必要かもしれませんが、多くのことは、汗をかきかき働くことによって成し遂げられるものです。「天才は1パ−セントの "inspire" と 99パ−セントの "perspire" から成り立つ。」ということばの通り、日々のたゆまない努力にまさるものはありません。しかし、なんの変化もない単調な生活は、創造性や意欲を無くしてしまいます。「ムラ」は決して良いものではありませんが、思い切って部屋を模様替えしてみるとか、バケーションをとって普段と違うことをやってみるという「変化」は必要です。

 さて、「無駄」についてですが、私の子どものころは、食べるものを無駄にすると随分叱られました。「米粒ひとつにも、お百姓さんの大変な苦労がこもっているんだ。」と聞かされました。資源の乏しい日本では、どんなことでも無駄が出ないように工夫してきました。日本の着物は、その典型です。洋服と違ってそれは、布を四角に切って作ります。はぎれがほとんど出ないのです。それに折り畳むと平面になって、場所を取らずにしまっておくことができます。私が子どものころ着せてもらった着物は、すそも、そでも最初から折り畳んで作ってありました。背が伸びたらそれをほどいて、着るのです。洋服のように成長にあわせてサイズを大きくしていかなくても良いのです。"One size fits for all." というわけで、とても合理的です。着古した着物はおむつになり再利用されました。無駄を出さない工夫があったのです。しかし、今は、無駄だらけで、まだまだ着れる服でも、流行遅れだからというので捨ててしまったり、食べ物も平気で捨ててしまいます。「もったいない」という言葉は、もはや死語になってしまいました。日本では不景気だといいながら、ブランド物に何十万円というお金をかける人もまだまだ多いそうです。私たちはモノも、お金も随分無駄に使っているように思います。

 では、全く「無駄」がいらないかと言えば、そうでもないようです。たとえばギフトのラッピングですが、どうせ捨ててしまうものなのですから、お金をかけるのは「もったいない」ように思えます。けれども、きれいに包まれたギフトには、贈り主の心を伝えるという役割りがあって、まったくの無駄というわけでもありません。部屋を飾るちょっとしたものも、機能という面からみれば無駄なのかもしれませんが、私たちのこころをなごませてくれるという面からは、大切なものです。

 聖書に出て来るラザロの妹、マリヤは、イエスが最後の一週間をエルサレムで過ごす前に、ナルドの香油をとって、イエスの足に注ぎました。マリヤは、イエスがエルサレムでその最期を遂げるだろうことを予感し、これが、イエスと共にいることのできる最期の機会になるかもしれないと悟ったのです。それで、彼女は自分の持っている一番良いものをイエスにささげたのです。ところが、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダは「何のために、こんなむだなことをするのか。なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(マタイ26:8、ヨハネ12:5)とマリヤを批難しました。しかし、イエスは、マリヤのしたことをほめ、それを「無駄ではない」と言われました。私たちは時として、「こんなことをしても無駄ではないか。」「私ひとりが頑張っても役に立たないのではないか。」と考えてしまうことがあります。そういうふうに他の人から言われて、がっかりしてしまうこともあるでしょう。私たちは、意味のあること、意義を感じられることのためなら、少々の苦労があっても励むことができますが、それが役に立たないとか、無駄であると言われると、努力する気持を無くしてしまいます。しかし、無駄に見えるものの中に価値あるものがあり、人の目に重んじられていても、神の目には無価値なものもあります。ほんとうに価値あることと、無駄とを見分ける知恵を、聖書から見つけ出しましょう。「ムリ」が無理にならず、「ムラ」がムラにならず、「ムダ」が無駄で終らない人生の秘訣を発見しましょう。

(2003年1月)

前の記事 ホーム 次の記事

[編集] [追加] [削除] [復元]