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Philip の 続・ちょっといい話

キリストの復活

 今年は4月20日が「イースター」です。「イースター」とは、キリストの復活を祝う日ですが、みなさんは、キリストが復活されたということをどのように受けとめておられますか。

 「いわしの頭も信心から」ということばがあります。これは、節分の日に鰯の頭を軒下に吊しておくと、その臭気で悪鬼が退散するという言い伝えから生まれたことばだとされています。「いわしの頭」にほんとうにそのような効果があるかどうかはどうでも良く、それに力があると「信じる」こころが、人々を不安から救い出すというのです。英語圏にもいくつも迷信があります。13日の金曜日は縁起が悪い、黒猫が人の前を横切ると不吉なことが起こると言われています。塩をこぼすと、こぼれた方向の人に災難がふりかかるが、こぼした塩を左の肩越しに投げると、不幸をまぬかれるとも言われています。こうした「迷信」には、根拠がなく、誤解にもとづいているものも多いのです。

 それでは、聖書が教え、世界中のクリスチャンが信じている「キリストの復活」も、何の根拠もないもので、「迷信」まではいかなくても、長い時間をかけてつくられた「伝説」や「神話」のひとつなのでしょうか。いいえ、クリスチャンは「いわしの頭」を信じるように「キリストの復活」を信じているのではありません。「キリストの復活」には、それが歴史の事実であるという証拠が数多くあるのです。

 まず、第一に、キリストの復活を信じる信仰は、教会がはじまって何世代かたって生まれた「伝説」や「神話」ではありません。キリストの復活を信じる信仰は初代教会が最初から持っていた信仰でした。使徒パウロは、コリント人への手紙第一、15章に「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」と書いています。復活の信仰はすべての使徒たちに共通しており、しかも、彼らは復活されたキリストに出会っており、復活されたキリストを目撃した人たちは五百人以上もあり、キリストの復活の「生き証人」が生存していたのです。それは「伝説」などではなく、「最新ニュース」でした。復活の信仰は教会のはじまった時にすでにありました。そして、その信仰は復活の事実から来たとした言う他ないのです。

 復活の信仰は初代教会がはじめから持っていた信仰ですが、もっと正確には、教会は復活の信仰によってはじまったと言うことができます。弟子たちは、キリストが十字架にかけられた時、全く意気消沈し、ユダヤ人を恐れて逃げ隠れしていました。そのような弟子たちが、ユダヤの指導者の本拠地、エルサレムの真中で、キリストの復活を宣べ伝え、「神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒の働き2: 36)と人々に悔い改めを迫っているのです。このような弟子たちの変化はキリストの復活なしには説明がつきません。教会は、キリストの復活がなければ誕生しなかったのです。教会の存在は、キリストの復活をあかししています。

 ユダヤの指導者たちは、弟子たちがキリストの復活を宣べ伝えているのに手を焼いていました。それなら、イエスのなきがらを人々に示せば良かったのです。それだけで、教会を潰してしまうことができたのです。しかし、彼らにそれをすることはできませんでした。ユダヤの指導者は、イエスのおさめられた墓を大きな石でふさぎ、それを封印し、ローマの兵士たちに厳重に守らせたのですが、キリストの復活をはばむことはできませんでした。ユダヤの指導者たちはローマ兵士に金をやって「弟子たちがやって来て、イエスを盗んでいった」と言わせましたが(マタイ28:11-15)、弟子たちがイエスのからだを盗んでいったのなら、ユダヤの指導者たちは絶大な権力を持っていたのですから、なぜ、それを取り返さなかったのでしょう。イエスの墓が空っぽで、イエスのからだがどこにもないことを知っていたのは、実は、ユダヤの指導者たちだったのです。

 私は、イスラエルを旅行した時、イエスが葬られたとされる墓に行ったことがあります。当時の墓は、岩山をくりぬいて、その中に死体を置く、くぼみを作るのですが、その寸法は、そこに納められる人の背丈にあわせてつくられました。ところが、イエスが納められたとされる場所は、最初につくったくぼみをさらに削ってあったのです。イエスはアリマタヤのヨセフという人が自分のために作った墓に納められましたが、イエスはヨセフよりも長身だったので、急いで、くぼみが掘られたのでしょう。偉人たちの墓は、すべて大切に保存され、その遺骨は大切にされるのですが、イエスの墓には何もありません。今も、空っぽなのです。しかし、この空っぽの墓が私たちの人生を満たしてくれるのです。キリストは死者の中におられるのでなく、今も生きて、私たちの人生の中にいてくださるのです。

 イスラエルにあるその墓を出る時、その墓の扉を見ますと、そこにこうありました。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカの福音書24:5-6) 今年のイースターが、生きておられ、わたしたちの人生を共に歩んでくださるキリストを祝うイースターでありますように!

(2003年4月)

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