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Philip の 続・ちょっといい話

わたしから学びなさい

 私が、新年になって、いつも思うことは、「私はこの一年でどれほど成長できただろうか。」ということです。もちろん、ここで言う「成長」とは、身長や体重のことではありません。身長の成長はとうの昔にストップしてしまいました。体重ばかり「成長」して困っている人がいるかもしれませんが、私の場合は、幸い、体重だけは20代のときから少しも変わっていません。

 学歴や業績を積み重ねたりすることを「成長」と考えている人もいるようですが、私の場合はそうではありません。学位や肩書きにあまり興味はありません。財産を増やすことを目標にしている人もいますが、私が貯めているのは、「ステート・クォータ」ぐらいのものです。それも、まだ三分の一も集まっていません。全部集めても、25セント×50 ですから、12ドル50セントにしかなりません。

 私が求めている成長は、私自身の成長、内面の成長です。

 私は、人は生涯学ぶもの、探求するものだと思っています。ガンジーは「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ。」と教えました。人々に尊敬されている人は、皆、学び続ける人でした。キリストの使徒パウロは殉教を覚悟した手紙の中で「書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。」と言っています。パウロも死ぬまぎわまで、学び続けた人でした。

 今年、私たちの教会では「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイの福音書11:29)というイエス・キリストのことばを「今年の標語」として選びました。このことばに従って、私もイエス・キリストから学び、少しでも、成長したいと願っています。そして、キリストのことばに従うために私は、次の三つのことを心がけたいと思いました。

 私がまだ若かったころですが、私が教えていた学校で、外部から講師を招いて特別講座をしたことがありました。その時、私は、主催者側にいて事務的な仕事をしていて、その講義に遅れてしまったのですが、同時に、私の心の中には「あの先生の話は前に聞いたことがあるから、いいや。」という安易な考えがあったのです。先生から学ぼう、この講義で神から教えていただこうという気持ちがなかったのです。「自分はもう知っている。分かっている。」という高慢な思いがありました。その時、先生のお話を聞きながら、私は、「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」という聖書のことばによって、自分の高慢を示されました。

 作者は不明ですが、こんなことばがあります。

  私は学んだ…年寄りの足元は最も学ぶ場所であることを。
  私は学んだ…恋愛している心を隠せないことを。
  私は学んだ…あなたの手に抱かれている赤ん坊を通して深い平和を。
  私は学んだ…人を助ける方法がなくても、人のために祈ることができるということを。
  私は学んだ…神が一日ですべての被造物をお造りになったのでなければ、私にも一日でできるはずがないことを。
  私は学んだ…親が亡くなる前に、「愛している」と言うべきだったことを。
  私は学んだ…まだまだ、学ぶことがたくさんあることを。

 私も、自分の足りなさを素直に認めて、教えられやすいものとなりたいと思います。

 どんなことでも、人と比べるのは愚かなことです。比べた相手が自分よりも優れていたら劣等感を持ち、比べた相手が自分よりも劣っていたら優越感を持つようになることでしょう。劣等感も優越感も、非生産的で、そこからは何の努力も生まれてきません。自分はだめだと悲観したり、自分は大丈夫と安心して成長が止まってしまいます。成長が止まるどころか、自分より優れた人をねたんだり、自分より劣った人をさげすんだりすることによって、その人の成長は「後退」してしまうのです。

 成長のペースは人によって皆違います。こどものころから優れた能力を発揮する人もいれば、中年になってから、特別な才能が芽生えてくることもあります。人と比べて、遅れていると卑下したり、自分は進んでいると誇ったりするのでなく、去年の自分と、今年の自分とをくらべて、少しでも成長があれば、それを喜んでいけばいいと思うのです。自分の知識や能力、また過去の業績を誇ってはいても、今という時に停滞しているか、後退しているような人は、ゆっくりでも前進している人にかならず追い抜かれてしまいます。

 私は、家内が作った次の詩が好きです。

     「山」

  人より先に
  その頂上に着いたと言って
  慢心するのはどうだろう
  世界には高い山が沢山ある
  最も高い山の上にも
  無限に高い空がある

 イエスが「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われた「くびき」とは何でしょう。これは動物の首にかけ、そこに鋤などをつけて田畑を耕すために使うものです。くびきは重く、それをかけられる動物にはとんだ迷惑ですが、くびきを嫌がってばかりいると、それはますます重いものになってしまいます。動物が田畑を耕すことを学ぶには、かけられたくびきを受け入れ、それをかけた主人の指示に従わなければなりません。

 私も、「イエスから学ぶ」ためには、つらいこと、苦しいことから逃げ出さないで、イエスを私の「主」として従う従順が必要です。聖書(哀歌3:27〜32)に

  人が、若い時に、くびきを負うのは良い。
  それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
  口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。
  自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
  主は、いつまでも見放してはおられない。
  たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。

とあります。イエスがそのご生涯を通して示されたように、従順の中に自由があり、服従の中に喜びがあります。

 私は、私が負うくびきの片方は、イエスご自身が背負ってくださると信じています。イエスは「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われただけでなく、「そうすればたましいに安らぎが来ます。」と約束してくださり、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と宣言してくださいました(マタイ11:29〜30)。人生において安易な道、軽い荷を選ぶと、後になってそれが大きな重荷になってしまうことがあります。しかし、キリストがくださるくびきを選ぶなら、それはかならず、私をほんとうの成長に導き、私にたましいの安息と変わらない平安を与えてくれると信じています。

(2007年1月)

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