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Philip の 続・ちょっといい話

健全なセルフイメージ(3)

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ人への手紙2:10)

前回は「自分を知る」ということで、旧約聖書の詩篇139篇を学びました。私たちは自分で自分のことを知っているつもりでも、本当は自分のことが一番わかっていないのだということを学びました。「私」を最も良く知っていてくださるのは、神です。139篇の1節には「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。」とありました。

なぜ、神は私を最も良く知っておられるのでしょう。それは、神が私の造り主だからです。詩篇139篇の14節から16節にこう書かれています。「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」このことばによれば、神は最初の人間をおつくりになり、後は、最初の夫婦から私たち子孫が「自動的に」生み出されてきたというのでなく、私たちひとりびとりが神の手によって造られたのです。神は、人間とこの世界をお造りになって、あとは放っておかれているのではなく、今も、私たちを愛し、この世界に関わりあってくださっていることが分かります。

ですから、聖書を学んでいる私たちは、いわゆる「理神論(りしんろん)」という考え方に賛成しません。理神論では、神が世界をお造りになったことを認めます。しかし、神は世界を造った後、世界とは関わりを持たないでおられると言うのです。時刻が来るとベルを鳴らすよう目覚まし時計をセットしておくように、神は世界「プログラム」を与え、世界はそれに従って自動的に動いていると考えています。この説によれば、神は世界に存在を与えた「第一原因」ではあるが、それ以上、それ以外のものではないのです。しかし、聖書が教えている神は、力も知恵も、心も感情もお持ちのお方であり、私たちを造り、守り、導き、愛していてくださるお方です。神が、私を造ってくださったということを知ることは、すべての知恵、知識の基礎であると、私は思います。

しかし、残念ながら、多くの人は、神が私たちと、この世界を造ってくださったということについて確信を持てないでいます。私たちが受けた学校教育のせいでしょうか、「進化論」という思想が、とりわけ日本人の間に広まっているからです。私たちの多くは進化論というのは証明された理論であり、科学であると思い込んでいますが、実は、進化論は科学でも、理論でもありません。それは、ひとつの「仮説」にすぎません。私は、それは一つの思想だと思っています。進化論は、神なしで世界の起源、生命のはじまりを解き明かそうとしたものです。進化論では、神でなく、物質が永遠の存在です。その物質が長い時間をかけて、現在の宇宙を形づくり、そこから地球環境ができあがり、そしてそこに生命がはじまったというのです。その背後には、神の意志も、計画もありません。すべては偶然に出来上がったということになります。もしそうなら、この世界に起こることには、何の意味も、目的も、善悪も、優劣もないということになります。物事に何らかの価値を与えるのは、人間の勝手な判断なのです。

そうであるなら「進化」という概念は、進化論と矛盾します。「進化」「退化」という時、それは何かを基準として「進化」と「退化」をわけているのですが、進化論によれば、そうした基準を持つことができないはずです。なのに進化論では、今日見られる人種は、それぞれ、人間が進化していく段階の差によって生じたなどと言うのです。たとえば、白色人種は最も進化した人種で優秀で、有色人種はまだ進化していない段階の人類であって劣っているなどと言うのです。これは、科学的に何の根拠もないことで、人種差別の温床となる危険な思想です。私たちは、知らず知らずのうち、このような科学でない、ある時代の思想としての「進化論」に影響され、そこから非科学的な世界観、運命論的な人生観を持つようになってしまったのです。

いままで、聖書の教える世界の起源や古代の歴史は、おとぎばなしのようなもので、信頼できない、それは単なる文学的表現で、事実の記述ではないとされてきました。しかし、今日、聖書の記述が、現代の宇宙物理学、生命科学、また、地質学や考古学に見事に一致していることが科学者たちによって再発見されつつあります。かって神を信じた、ケプラー、ニュートン、パスカル、メンデルなどの科学者たちは、信仰と科学とが矛盾するものではなく、むしろ、科学の発見がいよいよ信仰を強め、信仰が科学の発達に寄与するという態度を持っていましたが、近年、多くの科学者たちがそのような立場に立っています。こうした科学者たちは自分たちの立場を、進化論に対して「創造論」と呼んでいます。

私は、サンディエゴの「創造科学博物館」を何度か訪ねたことがあります。小さな施設ですが、とても興味深いものでした。この博物館の出口近くには、進化論が何をもたらし、創造論がどんな実を結ぶかが比較されていました。私も、それにならって、次のような比較のリストを作ってみました。

聖書の教え(創造論) | 現代思想の教え(進化論)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
人間は神の作品 | 人間は進化の産物
世界には目的がある | 世界には目的がない
人生には意味がある | 人生には意味がない
人間はみな平等 | 人種によって優劣がある
人間は霊的な存在 | 人間は物質的な存在
神の定めた道徳がある | 道徳は人間のきめごと
愛によって共存する社会 | 生存競争の社会

今日、進化論は根拠をうしなっています。しかし、進化論が否定されても、それにかわる理論を知らない人たちは、進化論にしがみつくしか他なく、根拠の乏しい、有害な思想を選び続けてきたのです。あなたはどちらを選びますか。どちらを選ぶかは、あなたの自由です。しかし、選んだ結果については、私たちに自由はありません。その結果は引き受けなければなりません。あなたが進化論を選ばれるなら、私たちは「神の作品」ではなく、あなたのセルフイメージは根拠を失います。進化論を選んで失うものは多いのです。しかし、創造論を選んで失うものは何一つありません。

クリスチャンであるなしにかかわらず、私たちは「神の作品」であり、自分が神に造られたものであることを知ってはじめて、自分の価値を見出すことができるようになります。ある人が言いました。「私たちは<製品>ではなく<作品>だ。」そうなのです、私たちは大量生産によって造り出されたものでなく、ひとりびとりが神によって丹精込めてつくられた「マスターピース」なのです。これこそ、正しいセルフイメージを持つ基盤です。

(2001年5月)

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