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Philip の 続・ちょっといい話

どこに行くにも

 新年に、多くの人は聖書の中から、その一年の指針となるようなことばを探します。聖書は、私たちを創造されたお方が、私たちに与えてくださった「ユーザーズ・マニュアル」ですから、私たちの人生に対する指針や励ましで満ちています。人間は、創造主が造られたものの中で最高の傑作ですが、同時に取り扱いの難しいもので、「マニュアル」どおりに扱わないと、本来の性能が発揮しないばかりか、危険なものにさえなるのです。

 ところで、聖書は「ユーザーズ・マニュアル」であって、「オーナーズ・マニュアル」ではありませんので、ご注意ください。私たちは、私たち自身の「オーナー」ではなく、「ユーザー」に過ぎません。本当のオーナーは、創造主です。私たちが、本当に意義深い一年を、また生涯を送るためには、私たちが創造主のものであることを認めることが大切であり、「ユーザーズ・マニュアル」である聖書を学ぶ必要があります。

さて、一年の指針となる聖書のことばですが、多くの人は、それを「箴言」から見つけるようです。「箴言」には、人生のさまざまなことがらに対する具体的なインストラクションが集められているからです。「箴言」は今から三千年も前に書かれた書物ですが、これを読むと、まるで21世紀の私たちのために、つい最近書かれたように感じて、きっと驚かれることでしょう。創造主によって立てられた自然界の法則が何千年たっても変わることがないように、人生の基本的な法則も時代が変わったからといって変わるものではないのです。

それで私も、「箴言」の中から次のことばを選びました。3章5節、6節に次のように書かれています。

  心を尽くして主に拠り頼め  自分の悟りにたよるな
  あなたの行く所どこにおいても 主を認めよ
  そうすれば主はあなたの道を まっすぐにされる

「箴言」は、私たちに「知恵」を得るように、「悟り」を持つように勧めています。しかし、「箴言」で言う知恵や悟りは、決して人間の側からだけ出た知恵や悟りではありません。「創造主を教えない教育は賢い悪魔をつくるだけだ」という言葉があるように、創造主を忘れた人間は自分たちの知恵を過信し、知恵、知識を蓄えれば創造主を乗り越えることができるのだと考えるようになりました。確かに人は多くの知恵、知識を持つようになりました。しかし、それは、主に科学、技術の面だけであって、「人とは何者か」「われわれはどこから来てどこへ行くのか」ということについては、まったく何も知らないのです。

それで、人々は人生の奥義を究めようと、さまざまな宗教をつくり出し、悟りを得ようとしてきました。しかし、それらの悟りは、きわめて主観的で真理の一部を含んではいても、完全ではなく、普遍的なものではありませんでした。本当の知恵、悟りは創造主から来ます。箴言1章7節には「主を恐れることは知識の初めである」と教えています。この世界を造られたお方、私たちを造られたお方だけが、この世界と私たちについての正しい知恵、知識をお与えになることができるのです。

ですから「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」とは、私たちの物の考え方の中に、創造主の存在を受け入れるということを意味します。私たちは、何か重大な決断をするときは、自分ひとりで決めないで、家族や専門家の意見を聞きますが、そのように、創造主をあなたの決断の中にお迎えするのです。重大な決断でなくても、私たちは、日常の生活をなんらかの決断をしながら歩んでいます。生活の一瞬、一瞬の決断が創造主のお心にかなったものとなるよう祈ることも大切なことです。試練に苦しむ時、失望や落胆に沈む時も、創造主の愛や恵み、あわれみを忘れないで歩んでいきましょう。それが「どこにおいても」ということばが意味していることなのです。

聖書のすべての命令には約束が伴っています。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」という主の言葉にも、それに従う者には「そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」という約束があります。私たちは正しい道を踏み外しやすいものです。横道にそれたり、遠回りをしたりしてしまうことがしばしばです。しかし、私たちが私たちの歩みの中に主を認めていくなら、主もまた私たちの道をまっすぐにしてくださるのです。私たちの人生の目的に向けて、永遠の幸せに向けて、家族と回りの人々の祝福に向けて、私たちの歩む道を整えてくださるのです。この聖書のおことばが、みなさんの一年の導きのことばとなれば幸いです。

(2001年1月)

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