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Philip の 続・ちょっといい話

健全なセルフイメージ(2)

 私たちは「自分のことは自分が一番良く知っている」と考えがちですが、案外そうではなく、自分を一番知らないのが自分なのです。「なくて七癖」と言いますが、話し方の癖やしぐさの癖は、人に言われるまでは自分では気がつかないものです。ある人が「あなたは話すときに、いつも『ネ』をつけますよ」と言われて、「私、そんな言い方しますかネ。そんなことないですよネ」と答えていましたが、そのように自分のことが一番分からないのが自分なのです。

 心理学で「ジョハリの窓」という図があります。次のような図です。

自分は知っていて | 自分は知っていて
他の人も知っている | 他の人は知らない
部分(1) | 部分(2)
ーーーーーーーーーー|ーーーーーーーーーー
自分は知らなくて | 自分は知らなくて
他の人が知っている | 他の人も知らない
部分(3) | 部分(4)

 (1)の窓は「明るい窓」と言われます。自分の姿がほぼ見えてきます。しかし、普通はこの部分は全体から見てとても小さく、多くの場合は(2)の部分が大きいのです。自分の本当の気持ち、姿を他の人に、できるだけ多く見せることによって、他の人からの助言を受けやすくすることができます。(3)の窓も、自分を知るためには必要で、他の人からのアドバイスを受けることによって、この窓から、自分を照らす光を得ることができます。しかし、どんなにしても(4)の窓は残ります。この窓は「暗い窓」と言われますが、私たちは、自分でもわからない、人にも知られていない大きな部分を持っています。

 どうしたら、この「暗い窓」を「明るい窓」に変えることができるのでしょうか。詩篇139:1 に「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」と書かれているように、神が私を一番良く知っておられるのです。神が私たちの造り主だからです。詩篇139篇には続いて、

「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇139:13-16)

と書かれているとおりです。「ジョハリの窓」の「自分も知らない、他の人も知らない部分」も、神は知っておられるのです。

 私たちは、私のすべてを知っておられる神によってはじめて自分の姿を正しく見つめなおすことができるようになります。神は、私たちが自分を正しく知ることができるようにと、私たちに神のことば、聖書をくださいました。聖書は鏡のようなものです。私たちが聖書に向かう時、私たちはそこに自分の姿を映し出してもらうことができるのです。では、聖書によれば、私たちはどのような姿をしているのでしょうか。聖書は、人間は神の創造の最高傑作であると教えています。

 聖書には、神が動物・植物をお造りになった時、それらは「種類にしたがって」造られたとあります。「種類にしたがって」というのは、神のお心の中に犬は犬、猫は猫としての設計モデルがあって、彼らはそのパターンにしたがって造り出されたという意味です。ところが人間の場合は、「種類にしたがって」とは言われていないのです。神は「人間」という独立したパターンを用意されなかったのです。それは、神が、他の動物とは違って人間にはもっと素晴らしいことをしようと考えておられたからです。神は人間を「神のかたち」にしたがって造られました(創世記1:27)。この場合の「かたち」とは、もちろん人間の肉体のことでなく、私たちのものを考える力、目に見えない人のよろこびや悲しみを感じ取ることができる能力、正義やあわれみなどの性質、自然を治める権威などをさしています。人間は決して神ではないし、神になることもありません。しかし、人間は最も神に近い存在であり、神を知り、神を愛することのできる存在として造られたのです。

 しかし、多くの人は、人間が神のかたちにつくられたことを認めず、進化の過程で偶然に出来上がったものと考えるようになりました。そして、肌の色が薄い人種ほど進化の進んだ人種で、優秀なのだという、なんの科学的根拠もない「神話」が造りだされ、それをもとに人種差別や民族虐殺などが行われてきたのです。人間が「神のかたち」であることを否定した結果、人間は動物以下に成り下がり、互いに傷つけ合うようになってしまいました。

 ですから、聖書は、人間の素晴らしさを映し出すと共に、神から離れてしまった惨めな姿をも映し出しています。私たちは、そのどちらをも正直に認めなければなりません。アルコール依存症の人たちが、よく「おれは酒は呑むが酒には呑まれていない」とうそぶくのですが、自分の本当の姿を認めるまでは、依存症は治らないと言われます。ところが私たちは「自分には問題がない」と否定したり、「それはやむをえなかったのだ」と理屈で正当化したり、「彼が私を怒らせたのよ」と人のせいにしたりして、なかなか真実な自分の姿を認めようとしないのです。しかし、自分の問題を問題として認めないかぎり、その解決はやってきません。神が聖書によって、私たちには問題があると言う時、それは、意地悪く私たちを責め立てておられるのではないのです。医者が私たちの病気を指摘すると共に、その治療をしてくれるように、神は、私たちの問題への処方箋をすでにお持ちなのです。聖書は私たちの心の汚れを映し出すかもしれませんが、同時にそれが洗いきよめられる道も示しているのです。私たちは、私のすべてを知っておられる神の前に謙虚になりたいものです。

 神が私のすべてを知っておられるということは、恐ろしいことでもあり、また心強いことでもあります。自分の罪深さを見ると、神がすべてをお見通しであるというのは恐ろしいことですが、神が、私の罪深さも、弱さも、醜さもすべて知っておいでの上で、私を大きな愛のこころで見ていてくださるというのは、心強いことです。ですから、詩篇139篇は、このように締めくくられています。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(23-24)

理屈だけを言えば、神はすべてをご存知なのですから、「神よ。私を探り、私の心を知ってください」などと祈る必要はないのですが、私たちは「神よ。私を探り、私の心を知ってください」との祈りによって、より自分を知ることができるようになるのです。おひとりびとりがこの祈りに導かれるよう願っています。

(2001年3月)

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