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Philip の 続・ちょっといい話

そして、ペテロに

 イエスが十字架につけられ、死に、墓に葬られたのは、金曜日のことでした。金曜日の日没から土曜日の日没までは「安息日」で、ユダヤの人々はいっさいの仕事を休まなければなりませんでした。イエスを亡くした三人の女性たちは大きな悲しみに暮れていました。彼女たちは、せめてイエスのからだに香油を塗ってイエスを葬りたかったのですが、それも許されませんでした。彼女たちにはそれが心残りでした。「イエスのからだが墓に納められたあとでも遅くはない。」と彼女たちは考えました。そして、安息日が開けた日曜日の朝早く、まだ日がのぼらないとき、三人の女性たちは手に手に香油を持って、イエスの葬られた墓に向かいました。

 それは、アリマタヤのヨセフが自分のために作った新しい墓でした。本来なら、十字架につけられた犯罪人の遺体はゲ・ヒノムの谷に投げ捨てられるはずだったのですが、ひそかにイエスに心を寄せていたヨセフがイエスの遺体を引き受け、葬ったのです。その場所は、金曜日にしっかりと確かめてありますから、間違うわけはありません。しかし、彼女たちには心配なことがひとつありました。それは墓の入り口をふさいであるあの大きな石です。女性が三人いてもそれはびくとも動かないほどのものでした。彼女たちは、「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」と道々話しながら墓に向かっていました。

 彼女たちが墓に着くと同時に日が上りました。それまで薄暗かったあたりは、日の光に照らされ、緑に包まれた墓地がくっきりと浮かび上がってきました。そして、彼女たちの目の前に現れたのは、入り口の大きな石がころがって、ぽかんと開いた墓でした。急いでそこに入ってみると真っ白な長い衣をまとった青年が墓の中に座っていました。驚き、恐れている彼女たちに、この青年は言いました。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」

 この青年は天使だったのです。三人の女性は、空っぽの墓を見、天使を見、その声を聞いたことばかりでなく、「イエスはよみがえられました。ここにはおられません。」という天使のメッセージに驚き、震え上がり、気も転倒してしまい、そこから逃げ去ろうとしました。その時です。天使は女性たちに言いました。「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いでします。』とそう言いなさい。」

 天使は「行って、弟子たちとペテロに、告げなさい。」と女性たちに言いました。「弟子たちに、そして、ペテロに。」なぜ、わざわざ「そして、ペテロに。」と言われているのでしょうか。それは、「イエスはよみがえられた。」というメッセージが、ペテロにいちばん必要だったからだと思います。

 ペテロはイエスの十二弟子の中で、常にリーダシップを発揮していました。「イエスの一番弟子だ。」という自負がありました。ところが、その彼が、三度もイエスを否認したのです。イエスは十字架につけられる前、ユダヤの指導者たちによって裁判にかけられましたが、ペテロは、イエスの後を追って、勇敢にも、その裁判が行われた場所まで行きました。ところが、そこにいた人たちから、「あなたもガリラヤの人ね?」「あなたはイエスといっしょにいたでしょう?」「あなたも弟子のひとりでしょう?」と言われたとき、「おれはそんな者じゃない。イエスなんて知らない。」と、イエスを否認したのです。ペテロがイエスに、「私は、たとえ死ぬことがあっても、どこまでもあなたに従います。」と誓ったのはまごころからの誓いでした。しかし、人間は弱いのです。ペテロはイエスを否んだ自分の弱さに、男泣きに泣きました。イエスの十字架ののち、一番意気消沈したのは、おそらくペテロだったでしょう。

 イエスの復活のニュースが、「そして、ペテロに。」と、ペテロに名指しで届けられる必要があったのは、そのためだと思います。「イエスは復活された!今も生きておられる!」このニュースが一番必要だったのは、イエスの弟子として大きな失敗を犯したペテロだったのです。ペテロは、この後、復活されたイエスに出会い、イエスから「わたしを愛するか。」と三度尋ねられます。それは、ペテロが三度、イエスを知らないと言ったことと関係があります。イエスは、ペテロをかつての失敗から立ち上がらせるために、ペテロのイエスへの愛を確認されたのです。イエスはペテロに「わたしの羊を牧しなさい。」と言って、ペテロを教会の最初の監督者とされました。

 これらのことは、マルコの福音書16章やヨハネの福音書21章に書かれています。聖書は、私たちがどんなに過去に失敗したとしても、イエスの復活によって、私たちもまたその失敗からよみがえることができると教えています。「この結婚は失敗だった。」「わたしの子育ては失敗だった。」「この仕事についたのは失敗だった。」そんなふうに思えるさまざまなことも、私たちがイエスの復活のニュースを本気で信じるなら、イエスは、私たちをその失敗から引き上げてくださり、失敗と思えたことも、素晴らしい祝福に変えてくださるのです。「そして、ペテロに。」「そして、あなたに。」復活のニュースは、あなたにも、名指しで届けられているのです。

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