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Philip の 続・ちょっといい話

千利休とキリスト教

 千利休(1522-1591年)は、私の故郷、堺の人で、信長と秀吉に仕え、茶人としての頂点に登りつめましたが、秀吉の怒りを買い1591年(天正19 年)2月28日、自刃しました。この利休がキリスト教に触れており、茶道の中にキリスト教の儀式を取り入れたことは、案外知られていません。

 当時の堺には、バテレン(宣教師)たちが多く訪ねています。フランシスコ・ザビエルも1550年に堺に来ています。私の出身校は、もとは与謝野晶子が通った女学校で、泉陽高校と言いますが、そこに通う「花田口」という路面電車の停留所の前にある公園は「ザビエル公園」と呼ばれています。利休の屋敷からわずか200メートルのところに居を構えていた茶人仲間の日比屋了慶は、キリシタンで、ザビエル他、多くの宣教師の世話をし、彼の家が教会堂(南蛮寺)となったほどです。「利休七哲」と言われる、利休の七人の高弟のうち、蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、牧村兵部、古田織部の五人までもがキリシタン大名でした。当時のキリシタン人口は15万とも22万とも言われ、キリシタン大名が三割に達していました。利休が、そのような環境の中でキリスト教に接したとしても不思議ではありません。

 それに、三浦綾子の小説『利休とその妻たち』(上・下、新潮文庫)に描かれているように、利休の後妻おりきや娘はキリシタンでしたから、利休がキリスト教についてかなりの知識があり、教会で行なわれるミサ(聖餐)にも参列しただろうと思われます。濃茶の「回し飲み」は利休が考案したものですが、これはミサのおり、ぶどう酒のカップを、司祭と助祭とで回し飲みすることからヒントを得たものでしょう。他にも、茶道のしぐさの多くはミサのしぐさと共通したものが多くあります。利休は、茶室を世のものから分離された静かな場所、身分に関わらず誰もが平等で、互いを尊敬しあうところにしようとしましたが、それはキリスト教の精神に基づいてのことでした。

 次の文章は今日の裏千家の茶道仲間の「心得」です。

「茶道の真の相(すがた)を学び、それを実践にうつして、たえず己れの心をかえりみて、一盌(わん)を手にしては多くの恩愛に感謝をさゝげ、お互いに人々によって生きていることを知る茶道のよさをみんなに伝えるよう努力しましょう
一、他人をあなどることなく、いつも思いやりが先にたつように
一、家元は親、同門は兄弟で、共に一体であるから誰にあっても合掌する心を忘れぬように
一、道を修めなほ励みつゝも、初心を忘れぬように
一、豊かな心で、人々に交わり世の中が明るく暮らせるように」

 聖書では「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」(ローマ12:10)とありますが、茶道でも「他人をあなどることなく、いつも思いやりが先にたつように」と教えられています。聖書は「キリストを信じる者は互いに兄弟姉妹」であり、「神の家族」であり、「キリストのからだ」として「一体」であると教えていますが、茶道でも「同門は兄弟で、共に一体」と言われているのには驚かされます。

 喫茶の習慣は、もともとは日本にはなく、中国から入ってきたもので、座禅の修業中の「眠気覚まし」から来ていると言われています。それがやがて禅宗の中で儀式化されていったようです。利休も、禅寺で修業し、禅宗から「宗易」という「法名(ほうみょう)」を受け、その上に「利休」という「居士(こじ)」号まで受けたのですが、彼の茶道にはキリスト教の影響が色濃く残っています。茶道ばかりでなく、「葬式」「檀家制度」「夫婦同姓」「神前結婚」など、日本古来のものと思われているものの多くが、実は、キリスト教の影響によって、500年足らずの間に、また、明治や明治の後期になってから始まったものなのです。

 日本人がキリスト教に対して受容的で、それによって日本の文化も形作られたと言うことができます。身近なものの中にあるキリスト教の影響を発見してみるのも楽しいかもしれません。私も、帰郷のおりには、堺市宿院町西にある利休の屋敷跡を訪ねてみたいと思っています。

(2006年3月)

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