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Philip の ちょっといい話

世界の中心に何がある?

 「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。」(コロサイ1:16)

 こどもは「なぞなぞ」が大好きです。この間、"Why didn't the skeleton go to the party?" という「なぞなぞ」を目にしました。「なぜ、骸骨はパーティに行かなかったか?」というのですが、その答えは "He had no body to go with." でした。「一緒に行ってくれる人が誰もいなかったから。」というのです。骸骨には身体がありませんから、"no body" と "nobody" とをひっかけているのですね。

 こんな「なぞなぞ」もあります。「世界の真ん中には何がいる?」何がいるのでしょうね。そんなに大きなものではありません。カリフォルニアにはあまりいないかもしれません。分かりましたか?答えは「蚊」です。「せ・か・い」の真ん中は「か」ですから。私は、この「なぞなぞ」を思い出すたびに、人間の世界の中心には「蚊」でなく「蛾」がいるのではないかと思うのです。虫の「蛾」ではなく自我の「我」です。世界が混乱しているのは、世界中の誰もが、みんな自分が世界の中心にいると思っているからではないでしょうか。

 ずいぶん以前の歌ですが、「ふたりのために世界はあるの」という流行歌がありました。「愛するふたりを、世界のすべてが祝福している」といった意味なのでしょうが、この歌詞を文字通りに受けとめたら、これ以上に傲慢不遜な歌はありません。なぜなら、世界は「ふたり」のためでも、「私ひとり」のためにでもあるのではなく、「ふたり」が世界のためにあり、「私」は、この世界を造られた神のために存在しているからです。

 聖書は、「世界は神の御子イエス・キリストのために造られた。」と宣言しています。決して、自分が、世界の中心でも、世界の頂点にいるのでもないのです。ところが、私たちは、この事実を忘れがちです。そして、自分を中心に物事を考え、自分を頂点に置いて他の人を見るのです。たとえ「神を信じている」と言っても、その神は、自分の都合のよいように、自分にかしづいてくれる「私のための神」であり、万物の主権者である神ではない場合もあります。私たちの世界観や人生観が、「私のための神」から「神のための私」へと変えられていく時、自我と自我とがぶつかり合う世界も変えられて、愛と平和の支配するところとなっていくでしょう。「世界の中心は、私ではない。」このことから、人生の目的への旅を始める人はさいわいです。

(2006年1月)

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