ピリピ人への手紙からのメッセージ

このページには、2000年9月から2001年7月まで、サンタクララ教会の礼拝でお話ししたピリピ人への手紙からのメッセージをそのまま載せてあります。皆さんのコメントをお待ちします。

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ピリピ人への手紙第四章


人は一致できるか

ピリピ4:1-3

4:1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
4:2 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
4:3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。

 ピリピ人への手紙も、いよいよ最後の章、第四章まで来ました。皆さんは、ピリピ人への手紙を読んでこられて、この手紙のどんな特徴に気が付きましたか。いくつかあるでしょうが、その一つは、他の手紙にくらべてプライベートな部分が多いというでしょうね。四章は特にそうです。四章にはピリピのクリスチャンへの個人的な勧め、励まし、また感謝がしるされています。パウロは、二章でピリピのクリスチャンが良く知り、親しんでいたテモテのこと、ピリピの教会からパウロを助けるためにローマにやってきたエパフロデトのことを、名前を挙げて書いていましたが、四章では、ユウオデヤとスントケというふたりの婦人の名前を挙げています。テモテ、エパフロデトは、その信仰や奉仕が誉められていますが、ユウオデヤ、スントケの場合は誉められることで名前を記されたわけではありませんね。ふたりの間に、何かのいさかいがあり、うまく行かなかったことがあったようです。それで、パウロはふたりに「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください」(4:2)と書き送ったのです。ユウオデヤ、スントケは実名まであげられて手紙に書かれたわけですから、嫌な気持ちになったかもしれません。けれども、クリスチャンの一致は、実名をあげてまでも解決しなければならないほどに大切なことだったのです。もちろん、いつも、どんな場合でも実名をあげなければならないということではありませんし、そのような必要のないようにしたいものです。今朝、私たちは、ユウオデヤ、スントケが痛い思いをしてまでも学ばなければならなかったクリスチャンの一致ということを、真剣に学んでおきたいと思います。

 一、キリストにある一致

 ユウオデヤ、スントケの間にどんな問題があったのか、聖書は何も書いていませんので、私たちには詳しいことはわかりません。ある人は、ユウオデヤ、スントケのふたりは共に女性であったので、二人の間に女性特有の感情のもつれがあったのだと推測しています。ピリピの教会は、紫布のビジネスをしていたルデヤという女性が中心になって始まった教会でしたから、おそらく多くの婦人たちがいたのでしょう。そして、ご婦人方の集まるところには、感情的なトラブルが発生しやすいというのも一理ありますね。最近、日本の本屋さんで『地図の読めない女、妻の話を聞かない男』というタイトルの本を見て、家内と二人で笑ってしまったのですが、(それというのも、この本屋さんに来るまで、お互いにそんな話をしていたからです)このタイトルのように、女性が抽象的、論理的なことに弱く、男性が人の感情を理解するのが難しいと言うのも「当たらずとはいえ遠からじ」でしょう。しかし、女性同士だからすぐに感情の問題だったと推測するのは、早合点かもしれません。ユウオデヤ、スントケのふたりには、女性としての弱さはあったでしょう。しかしふたりはその弱さを克服して、パウロと一緒に伝道し、教会のリーダとなって働いたのです。

 ですから、二人の間にあったことを、なにもかも感情の問題として片付けてしまうのには無理があるような気がします。そうであれば、パウロは二人に一致を勧めるよりは、悔い改めを教えただろうと思います。もし、この二人が、それぞれ自分の方に人々をひきつけようとして張り合ったり、競いあったりしていたのなら、パウロはそうした自己中心的な思い、党派心をまず諌めたことでしょう。罪を悔い改めないでいる二人に一致を勧めるのは、安易な妥協を勧めるのと同じで、かえって問題を覆い隠してしまうことになるからです。今日でも、ただ波風を立てないことだけを考えて安易な妥協をしてしまうとか、本当の問題の解決でなく、問題を覆い隠すだけのことを、一致と考えてしまうことがありますが、そうしたことは本当の一致ではありませんね。

 ユウオデヤ、スントケの二人の間の問題は、個人的な問題というよりは、おそらくは伝道の方法や、組織のことなど、教会の運営に関しての意見の違いだったのではないかと思われます。しかし、それがどんな問題であれ、聖書は、「キリストにあって」解決できると言っています。パウロは言いました。「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、<主にあって>一致してください。」そうなのです。クリスチャンの一致は「主にあって」「キリストにあって」可能になるのです。

 もちろん、光と闇、真理と偽り、善と悪には一致はありません。聖書は、そういうものと一緒になることを、決して勧めてはいません。しかし、お互いがキリストにあって闇から光に入れられているなら、偽りを捨て真理に立っているなら、悪を離れ善を追い求めているなら、たとえ、意見は違っても、お互いがキリストにあるものだということを認めあって、一致を求めていくべきなのです。1節で、パウロはピリピのクリスチャンに「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。私の愛する人たち」と呼びかけていますね。パウロは、ユウオデヤ、スントケを名指して「一致しなさい」と勧めていますが、その時、パウロは決して彼女たちを辱めようとしてでなく、彼女たちを「愛する人々」「同労者」として扱い、彼女たちへの愛情と、信頼に基づいてその名を呼んだのです。3節の後半に「この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです」とありますね。クレメンスという人のことも良く知られていませんが、「いのちの書に名のしるされている」と表現されているように、先に天に召されていった人なのでしょう。パウロはユウオデヤ、スントケの名も「いのちの書」にしるされている、彼女たちは、解決しなければならない問題を持っていたとしても、救われた本物のクリスチャンであると言っているのです。私たちクリスチャンがお互いをキリストを通して、共に神から生まれた「兄弟姉妹」であること、共に天の「いのちの書」に名をしるさた者であること、お互いがキリストにあって共通したものに立っているということを認め合うことができれば、自ずと一致に向かっていくことができるのです。

 二、キリストに向かう一致

 クリスチャンの一致は、キリストから始まります。そして、それはキリストに向かっていきます。クリスチャンの一致は、お互いがキリストによって救われ、赦され、愛されているという共通の基盤からスタートします。そして、キリストのために、キリストの福音のために働くということに向かっていきます。一致にはスタートラインとともに、ゴール、目的、目標が必要なのです。そして、お互いが一つのゴールを目指していく時、そこに一致が育っていくのです。

 私は、時々、結婚式で「夫婦はお互いを見つめあうだけでは一致できない、お互いがおひとりの神を見上げ、ともに神に近づいていく時に、夫婦の間の距離も近づいていくのだ」とお話ししますが、クリスチャンの一致も同じですね。クリスチャンが互いに他のクリスチャンだけを見て、人と比べあっていても何も生まれてきません。互いがキリストのために一つの目的、目標、ゴールに目を向けていく時、一致が可能になるのです。実は、ユウオデヤもスントケも、かってはそのような一致を持っていたのです。3節の後半に「この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです」と書かれていました。ふたりは、パウロ、テモテ、クレメンスたち、また他の多くの人々と共に伝道のため、教会のため、心を合わせ、同じ目的のために、十年以上も共に働いてきたのです。しかし、パウロがピリピを去り、クレメンスが天に召されなどしていくうちにユウオデヤ、スントケの間の意見の違いが大きくなっていったのでしょう。それで、パウロは、ユウオデヤ、スントケに、伝道の方法や教会の運営については意見は違っても、福音をピリピの町に、マケドニア地方に満たすという大きな目的のために一致してほしい、自分たちに与えられた目的に目を向けるなら、一致できるのではないだろうかと、語りかけているのです。私たちも、キリストの教会を建て上げていくという、私たちに与えられた使命、目標を共に見上げて、心を一つにして励んでいきたく思います。

 三、協力者を通しての一致

 クリスチャンはキリストにあって一致し、キリストのために一致します。ユウオデヤもスントケもそのことは良く分かっていたでしょう。しかし、彼女たちがキリストにあっての一致、キリストのための一致に立ち返るためには、キリストの恵みと共に、彼女たちを取り囲む兄弟姉妹のサポートが必要でした。

 3節の始めに「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください」とあります。ユウオデヤとスントケの間に入って、二人が理解しあい、受け入れあうのを助ける人物が必要でした。ここで「真の協力者」と言われている人が、誰のことかは、分かっていません。ピリピ教会の創設にかかわったルデヤかもしれませんし、「協力者」と訳されているギリシャ語は「スズゴス」で、その「協力者」というのは実は「スズゴス」という名前の人かもしれません。スズゴスというのは、日本の名前で「鈴子さん」のように聞こえますね。この「協力者」が誰であるかは、ここでは大きな問題ではありません。クリスチャンの一致のためには、自分の名を隠して「ビハンド・ザ・シーン」で働く人が必要なのだということが大切なのです。もしかしたら、ユウオデヤ、スントケの二人の間にはさして問題がなくても、二人の意見の違いを煽り立てている取り巻きがいたのかもしれません。そういうことは世の中で良くあることですが、私たちは「Aさんはこう言っていた」「Bさんはこうだった」と人のことを騒ぎたてないで、静かに祈る知恵が必要です。私たちお互いは、一致を壊す側に回るのでなく、争いのあるところに一致を願い、そのために努力する者たちでありたいものです。

 「協力者」スズゴスということばは、直訳すれば「くびきを共にする者」という意味です。普通、これは、夫婦や肉親を呼ぶ時に使いますが、パウロはこのことばをピリピ教会のあるクリスチャンに対し使っています。この人は、パウロと同じ重荷をもって教会を愛していた人に違いありません。使徒として、伝道者として、牧師として、パウロは大きな重荷を負っていました。遠くローマにいてもパウロはピリピの教会を忘れることがありませんでした。自分自身が獄中にいても、パウロは、自分のことよりも、人々のことを心配し、人々のために祈りました。そんなパウロにとって、ユウオデヤ、スントケのことは、彼の重荷に、またもうひとつの新しい重荷を加えることだったでしょう。しかし、幸いなことに、パウロには、この重荷を一緒に背負ってくれる人がいたのです。そういう人がいたからこそ、パウロのミニストリーはサクセスフルだったと思います。

 主は、いつの時代も、ご自分の教会のためにこのような「協力者」を求めていらっしゃいます。あなたにも「鈴子さん」、いいえ、スズゴスになってほしいのです。地上の教会は、どんなに長い歴史のある教会でも、完成されたところはありません。どこもまだ建設途上にあります。完成を目指して工事中なのです。工事現場が散らかっているように、私たちの教会にも、さまざまな点で欠けたところがあるでしょう。しかし、教会の欠けたところだけを見てステイ・アゥエィするのでなく、これから完成を目指して建てあげられていく姿を見つめて、共に重荷を負っていただきたいのです。4月2日からの連鎖祈祷にも、大勢の方々が加わってくださいました。祈りのスズゴスたちですね。この連鎖祈祷に男性の方々の参加も願っています。職場の休み時間に祈ることができます。帰りがけに車の中で祈ることもできます。(もちろん車を止めてですが。)また、パームサンデーには、三名の姉妹方がバプテスマを受けて、スズゴスたちの中に加わってくださいます。あとに続く方々のために祈っています。5月の臨時総会では新しい執事、理事が選出され、力強いスズゴスたちが与えられようとしています。今まで他の教会員であった方が、サンタクララ教会の会員になって、6月から始まる新年度を共に始め、スズゴスの働きをしてくださるなら、うれしいですね。私も祈っています。皆さんもそのために祈ってください。

 キリストにある一致、キリストのための一致、そして、一致を助ける協力者たちで満たされた私たちの教会でありたく願います。

 (祈り)

 父なる神様、あなたがイエス・キリストによって、私たちに与えてくださった一致を心から感謝いたします。その一致を保っていくために、お互いがキリストにある者たちであること、お互いがキリストのために生き、働く者たちであることを深く覚えさせてください。そして、あなたが望んでおられる教会の一致のために、私たちをあなたの良き協力者としてくださいますように。主イエス・キリストの御名で祈ります。


祈りの力

ピリピ4:4-7

4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 明日からいよいよ連鎖祈祷「祈りの花束」が始まります。今、礼拝ではピリピ人への手紙を学んでいますが、今朝の聖書の個所が、ちょうど祈りについて教えていますので、神様が、連鎖祈祷「祈りの花束」を祝福してくださるように願い、ここから「祈りの力」と題してお話しをすることにしました。

 一、心を守る祈り

 祈りの力、それは、何でしょうか。それは私たちの心を守る力です。どんなに健康でも、どんなにお金があっても、どんなに頭が良くても、もし、私たちの心がくじけてしまったら、私たちは生きる力を失います。希望を持って、正しく生きることができなくなってしまいます。ですから、聖書は箴4:23で「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」と言っているのです。ところが、私たちの心はいつも、いろんなことで揺れ動き、傷つきます。衣食住のすべてが満ち足りて、他の人から見たら何も心配することの無いような生活をしていても、絶えず襲ってくる不安につきまとわれて暮らしている人も多いのです。万全のセキュリティ・ガードを張り巡らしても、それで心まで守られるわけではありません。どんなにしても、私たちの心には疑いや不安、焦りや落胆が入りこんできます。現代は科学が万能であるかのように思われている時代ですが、どんなに科学技術が発達しても、それは人の心に消えることのない本物の平安をあたえることができないのです。しかし、祈る時、私たちはそうしたものから自由になることができます。祈りは私たちの心を守るのです。

 ピリピ人への手紙には2:14に「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」という言葉がありましたね。つぶやき、疑いは、私たちの心を乱す敵です。私は、多くのクリスチャンが「私はこのことをするのがとても嫌でした。それで『神様、どうしてあなたは私にこんなことをさせるのですか。私にはこんな難しいことはできません』とつぶやいてばかりいました。しかし、いやいやながらでも神様に従ったら、神様は私を祝福してくださって、そのことが良くできるようになり、今はとても楽しく、喜びで一杯です。こんなことなら、不平不満を言わないで、もっと早く神様に従えば良かったと思っています」とあかしをしているのを聞いてきました。神様からするように言われた奉仕、悔い改め、人との和解は、最初は誰もおっくうなもので、ついつい後回しにしてしまいがちなものです。しかし、そうしたことは、いつかはしなければならないことです。そうであるなら何事でも、「つぶやかず、疑わず」出来るといいですね。そのためにも、私たちは、神の語りかけを聞いた時は、まず祈りましょう。祈りによって、私たちは、神のみこころに素直に従うことができるようになります。

 4:6には「何も思い煩わないで」とあります。思い煩いも、私たちの心の敵です。思い煩う人は、何もしないうちから「こうなったらどうしょう」「ああなったらどうしょう」と先のことを心配してエネルギーを使い果たし、疲れきって何もできなくなってしまうのです。地球環境はどんどん悪くなっていきます。アメリカにも不景気の波が押し寄せてきました。人々の心はどんどん冷たくなっています。これからの世の中はどうなっていくのでしょうか。そんな中で子供たちは正しく生きていくことができるのでしょうか。私たちの回りには、心配の種、思い煩いの原因は世の中にあふれています。思い煩いは天国が来る時まで地上に残るでしょう。しかし、神は、思い煩いに対処する方法をすでに与えくださっているのです。それもまた、祈りです。私たちは祈りによって思い煩いから解放されるのです。

 二、平安を与える祈り

 4:6はこう続きます。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」この世に生きている間は心配ごとがなくなることはないでしょう。ピリピ人への手紙には、テモテやパウロがピリピの人々のことを心配し、ピリピの人々もパウロのことを心配していると書いてあります。(2:20、2:28、4:10)誰かに愛を注げば心配も生まれ、心配が思い煩いになるかもしれません。しかし、ここには「心配が思い煩いになる前に神に持っていきなさい」と教えられているのです。それを他の誰かに持っていっても、解決にならないことが多いですね。また、もし、やけになって所かまわず撒き散らしたら、みんなが迷惑します。心配ごとを、祈りによって主のもとに持っていきましょう。4:6は口語訳では「何事も思い煩ってはならない。ただ、<事ごとに>、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」となっています。私たちの心が思い煩いで押しつぶされない秘訣は、「事ごと」に、ひとつづつ、祈りによって神に任せていくことです。「心配ごとは、貯めておいてから一度に解決しよう」などと考えてはいけません。その時々にひとつづつ、祈りによって神にお任せしていくのです。

 私たちが祈る時、どんなことが起こるでしょうか?7節に「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と書かれています。このことばのとおりに神の平安が私たちの心と思いを守るのです。「どうして、そんなことが」と不思議に思いますか?それが祈りの力なのです。ともかくも理屈抜きで祈ってみてください。そうすれば、私たちは神の平安にとりかこまれるのです。その平安は「人のすべての考えにまさる神の平安」です。それは、神の論理にはかなったことですが、人間の理屈で極めることのできるようなものではありません。この平安は自己暗示でも、人の与える慰めでもありません。それは神が与えてくださる平安であって、私たちがどんな状況にあっても、私たちの心を守るものなのです。

 つぶやきが出てくる時、祈りましょう。疑いが起こる時、祈りましょう。思い煩いがやってくる時、祈りましょう。落胆した時、祈りましょう。心が騒ぐ時、祈りましょう。平安を失った時、祈りましょう。祈りはあなたの心をガードしてくれます。誰も自分で自分の心を守ることはできません。私たちは神の力で守られなければなりません。そして、祈りによって私たちはその力を自分のものにするのです。私たちは祈りの時、ひざまずき、手を組み、目を閉じます。それは、「私は自分の力では立ち上がれません。歩けません。何も出来ません。何も分かりません」と、自分の無力を言い表す姿勢なのです。昔、イスラエルの男性たちは手を上げて祈りました。それは天にむかって祈りを差し出すという意味があったのでしょうが、日本的に受け取れば、「私はお手上げです」という意味かもしれません。実際、祈りにおいて、私たちは、「私はお手上げです。神様、あなたがしてください」と叫ぶのです。私たちは、そのようにして、祈りに答えてくださる神の力を求め、受け取るのです。祈りの力は神の力です。

 三、キリストにある祈り

 祈りの力を考える時、見逃してはならないことがもう一つあります。それは「キリストにあって」ということです。7節に「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いを<キリスト・イエスにあって>守ってくれます」とありました。「キリストにあって」とは、神はその平安をキリストを通して、キリストを信じる者たちに与えてくださるという意味です。イエスは私たちに約束してくださいました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)神の平安は、具体的には、キリストが十字架の救いによって勝ち取り、私たちに残してくださった平安です。神の平安をいただくためには、私たちと神との間に平和がなければなりません。罪の悔い改めと罪の赦しが、イエス・キリストの十字架によってはっきりとしたものになっていなければなりません。私たちは祈りの時、「イエス・キリストの名によって祈ります」と言いますが、それには「イエス・キリストを信じます。イエス・キリストを通して祈ります。神がイエス・キリストを通して、この祈りに答えてくださることを感謝します」という意味が込められているのです。祈りは、どの人の心にもあります。クリスチャンでない方も手紙に「ご病気が回復されますようお祈りいたします」などと書くことがありますが、実際には誰に、どのように祈っていいかわからずにいるのです。その祈りの心を、神に向けていきましょう。「イエス・キリストによって」と祈っていきましょう。そうすれば、「イエス・キリストにあって」祈りの答えを持つことができるのです。

 「イエス・キリストにあって」祈るというのには、イエス・キリストを信じる者たちが、お互いに他の人々のために祈ることができるという意味もあります。ひとりびとりがイエス・キリストにつながっているなら、お互いもイエス・キリストによってつながっているのです。そして、お互いがお互いのために祈る祈りは、イエス・キリストを介して、互いに影響を与え合うのです。私たちが、大変な状況の中で不思議と落ち着きを与えられ、困難を乗り越えることができた時、かならずと言っていいほど、誰かがどこかで私たちのために祈っていてくれています。

 こんな実際の話があります。ある宣教師がアフリカの小さな診療所で働いていたのですが、彼は、二週間おきに町まで二日かけて、生活物資や診療所で使う薬の買出しにいっていました。途中、野宿をしなければなりませんでした。この宣教師がいつも決まって町に買出しに行くのを知っていた町のならず者たちが、野宿して寝入っている宣教師を襲って、金品を奪おうとしたのですが、なんと、彼の周りに二十六人の護衛がいたので、彼らは勝ち目がないと思って逃げ出してしまいました。この宣教師は、町に行った時、そのならず者のひとりがけんかをして怪我をしているのを、手当てをしてやって、そのことを聞いたのです。宣教師は、その時、この不思議な出来事はきっと神の守りに違いないと確信して、神に感謝しました。

 このことがあって、しばらして宣教師は帰国して、ミシガンの自分の教会で、この話をしました。すると、ある男性が興奮して「それはいつ起きたのですか」と尋ねました。すると、その男性は、その時間をアメリカの時間に換算して、「あなたがならず者に襲われたちょうどその時間に、私たちはあなたのために祈っていました」と言いました。そして、彼は皆に向かって言いました。「その時、一緒に祈っていた人は、皆ここに来ているはずです。立ってください」と言いました。宣教師が立ち上がった人を数えたら、なんと二十六人でした。宣教師をガードしていた二十六人の護衛の数と同じだったので、一同は、神が人々の祈りを用いて宣教師を守ってくださったことを確信することができました。キリストにある祈りは、遠くアフリカにまで届いて、宣教師の命を守ったのです。

 神は、今も、私たちの祈りに答えて、私たちの生活を、私たちの心を必ず守ってくださいます。ですから、私たちも自分のため、他の人のため、祈り続けていこうではありませんか。

 (祈り)

 天の父よ、私たちの主イエスは、私たちの悲しみを喜びに、恐れを平安に変えるため、十字架の道を歩んでくださいました。そして主は、私たちに、私たちの心を守る、主の平安を残してくださいました。ですから、思い煩いがやってくるたびに、それを祈りによってあなたのもとに携えていくことを教えつづけてください。明日から始まる連鎖祈祷「祈りの花束」を祝福し、私たちに祈りの力を見せ、祈ることをもっともっと喜ぶものとしてください。主イエスの御名で祈ります。


人生の秘訣

ピリピ4:8-13

4:8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
4:9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。
4:10 私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。
4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。
4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 一、秘訣を求めて

 私の子どもの頃には「職人さん」と言われる人が大勢いました。建具屋さん、鍛冶屋さん、桶屋さんというのがありました。こうしたお店はほとんど道から中が見えて、職人さんが働いているのが見えました。また、道ばたで鍋や傘の修理をしている人も良く見かけました。私はそういった人の仕事を見るのが大好きでした。桶屋さんの店先で、小さな木切れにかんなをかけながら桶を作っていくのをじっと眺めて、そのみごとさに感心していました。でも、いわゆるプロフェッショナルな仕事を見るのが好きです。テレビ番組に「料理の鉄人」というのがあります。二人のシェフが制限時間以内におなじ材料で料理を作り、審査員に食べてもらってどちらがおいしいかを競うという番組です。一流のシェフたちの包丁さばきや料理の仕方を見ていると「さすがにプロだな」と感動します。テレビでは料理を見ているだけで食べられないのが残念です。鉄人の料理を味わえたら、もっと感動するだろうなと思いますが…。

 しかし、プロフェッショナルとしてどんなに優れたものを持っており、仕事の面で業績をあげていても、もし、その人に人格的な問題があり、その家庭が惨めだったら、果たして、その人は本当の意味で「プロフェッショナル」、優れた人、成功した人と言えるでしょうか。残念ながら、多くの優れた力を持つ人が、社会的には成功していても、家庭では暴力をふるったり、わがまま勝手だったりして、愛も喜びもない家庭生活を送っている、そしてその果ては、離婚や家庭崩壊に至るということがよくありますね。また、プロフェッショナルとしてどんなに腕を磨いても、自分自身をコントロールできないために、ギャンブルやアルコール、ドラッグなどに手を出し、犯罪にかかわり、そのために自分自身と社会的業績までも台無しにしてしまうこともあるのです。かって、相撲の横綱までなった人は、百年に一人出るか出ないかという恵まれた体と技を持っており、多くの人に、彼は「名横綱」になって記録を塗りかえるに違いないと期待されていました。しかし、この人は、いろんなスキャンダルを起こし、その才能を惜しまれながら引退してしまいました。普通、横綱まで登ったら、親方になることができるのですが、彼は、親方にもなれず、相撲の世界から去って行ったのです。その時、彼を育てた親方は「相撲取りには、心・技・体の三つが必要だが、一番大切なのは、心だ。彼は心の稽古をしなかった」と口惜しがっていました。私たちは、自分の専門分野では自分を鍛錬すると共に、「人生」という道場でも自分自身を鍛えることを忘れてはならないと思います。そうでないと、せっかくの能力も、努力も無駄になってしまいます。

 社会的に成功するかどうかは、人それぞれです。素質があり、精いっぱい努力した人でも、チャンスに恵まれずに、望んでいた地位を得られない場合もあります。どんなに優れたものを持っていても、その時代の人には理解されず、あとになってやっと人々から評価されることもあります。私たちクリスチャンは、結果を神にまかせて、自分の最善を尽くすしかありません。社会的な成功は、結果として与えられるもので、それだけが私たちの目指すところではありません。私たちは、自分の人生をどう生きるかということをしっかりと心に留めておかなくてはなりません。自分の人生をどう生きるかについては、その人ひとりびとりに責任があります。どんな人生を生きるにしても、私たちはその人生に、意味や目的、満足や喜び、そして、知恵や力が必要です。そして、生きる目的、生きる喜び、生きる知恵や力はすべての人に平等に与えられるのです。みんなが職業や技能においてプロフェッショナルに、専門家になれるわけではありません。しかし、私たちは、自分の人生を生きるということにおいてはプロフェッショナルでなければなりません。「人生の達人」になること、「人生」という道場で免許皆伝をいただくことを目標にしていきたいと思います。

 二、秘訣を得た人

 今私は「免許皆伝」という言葉を使いましたが、実は、同じ言葉を聖書が使っているのです。ピリピ4:12がそれです。「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」「秘訣を心得ている」というギリシャ語は「免許皆伝」と訳すことのできることばなのです。

 では、パウロが得た免許皆伝、人生の秘訣とは何なのでしょうか。それは、一言で言えば、環境に左右されないものを得たということです。私たちは、皆、環境に左右されます。心地よい環境にいる時は大丈夫でも、暑かったり、寒かったりするだけで、「今日はなんて暑いんだ」と不機嫌になり、「なぜ、いまごろこんなに寒いんだ」と怒ったりしてしまいます。あとで冷静になってふりかえって見ると、何でもないことだったのに、小さなことで、騒いだり、ふさぎこんだりしてしまいます。そんな自分を顧みる時、「私はまだ、人生の達人にはほど遠いな」と痛感させられますね。しかし、パウロは環境に左右されないものを持っていました。そして、彼は11節に「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言い切っています。

 パウロのこの言葉は、単なる痩せ我慢からでも、若いときの勢いで語ったものでもありまん。パウロは、本当に満ち足りた心をもって、そう言ったのです。彼がそう言ったのは、もうすでに老境に入ってからでした。彼がこう言ったのは、太陽の光もろくに入らない冷たい石畳の牢獄の中でした。「どんな境遇にも」と言いましたが、そこには当然、牢獄という最悪の環境、囚人となるという最も惨めな境遇も含まれていたのです。パウロは「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」と言っていますが、これは、単にことばだけのことでなく、パウロは、こうしたことを実際に経験してきたのです。「豊かさ、飽くこと、富むこと」と言われていますが、パウロはキリストの使徒になるまでは、物質的には豊かな生活をしてきたと思われます。パウロは外国生まれのユダヤ人ですが、エルサレムのガマリエルという学者のもとで学んでいます。当時ガマリエルといえば、ユダヤ人の中で最高の学者として尊敬されていました。パウロはいわばエルサレムに留学生として来ることができたわけですから、彼の家がもし、貧しかったら、そんなことはできなかったでしょう。それに、パウロはユダヤ人でありながらローマの市民権を持っていました。多くの場合、ユダヤ人は、ローマの市民権をお金で買い取りましたから、彼の家が裕福な家であったことは間違いないでしょう。

 しかし、キリストの使徒となってから、パウロは文字通り「貧しさ、飢えること、乏しいこと」を体験してきました。パウロはコリント人への手紙第二の11章にこんなふうに書いています。「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(コリント第二11:24-27)パウロは、人間として耐えられないほどの極限状態を何度も何度もくぐりぬけてきた人です。その彼が「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言うのです。貧しいからといって卑しくならない、金持ちになったからといって奢らない、満ち足りたからといって怠けない、飢えたからといって不満をもたないというのです。いったいそんなことが可能なのでしょうか。パウロがこう言うことができたのは、なぜでしょうか。その答えを次に見ましょう。

 三、秘訣はキリスト

 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(13節)ここに、パウロが「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言うことのできた秘訣があります。「私を強くしてくださる方」とは、誰のことですか?もちろん、それはイエス・キリストのことですね。パウロは「私は、どんなことでもできる!」と言い切っています。しかし、その力は、彼の力でなく、イエス・キリストの力なのです。イエス・キリストは信じる者の心の中に住んでいてくださいます。キリストを信じる者は、自分の内にいてくださるお方の力によって、どんな境遇の中でも、満ち足りることができるようになるのです。

 昔の偉いお坊さんは、お寺に火をかけられ、焼き殺される時「心頭滅却すれば火もまた涼し」(みなさん、意味がおわかりですね。「悟りの境地に立てば、燃える火も熱くはない」ということです。)と言って死んでいったといわれていますが、それほどの悟りを持つことのできる人はめったにいません。また、ある武将は「天よ、我に七難八苦を与えたまえ」と言って、修業にはげみましたが、自分の力だけで頑張りとおせる人もまれなのです。私たちが正直に自分をふりかえってみると「自分でできる。自分の力でやって来た」と思っていたことも、自分だけの力ではない、家族や友人、また先輩、指導者たちの助けがあったことが分かるでしょう。私たちの人生には、自分の力、人の力、社会の力などいったもの以上の、もっと大きな力が必要なのです。

 パウロは、知恵、知識においては、その当時の誰にもひけをとらないものを持っていました。彼はユダヤ人らしい強靭な精神を持っていました。彼は自分の力だけでもいろんなことができた人でした。しかし、パウロは、あのダマスコへの途上で、栄光の主、イエス・キリストに出会った時、盲目となり、いやというほど自分の無力を知らされたのでした。彼は、主イエスの前に、徹底して弱くなり、イエス・キリストを信じました。そして、そのことによって、彼は、今までの彼の力以上の力を体験したのです。ですから、パウロは、聖書の中で「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。…なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(コリント第二12:9ー10)と言っているのです。パウロがどんな困難や苦しみの中でも神を信じ、正しく生きることができたのは、彼の力や強さによってでなく、イエス・キリストの力によってだったのです。パウロは、イエス・キリストの無限大の力によって神のために偉大な働きをすることができたのです。私たちも、自分の力に頼らず、イエス・キリストに頼る時、パウロと同じように「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。…私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と言うことができるのです。私たちの人生の秘訣は「イエス・キリスト」ご自身です。

 ある人が、世の中には、サーモメータ(温度計)のような人と、サーモスタット(温度調節器)のような人がいると言いました。サーモメータは、温度が上がれば目盛りが上り、温度が下がれば目盛りが下がる、ただ環境に左右されているだけです。しかし、サーモスタットは、温度が下がれば暖房を動かし、温度が下がれば冷房を動かし、環境を一定にします。私たちはどちらでしょうか。いつでも外側のものに左右され、上がったり下がったりの人生を送るのでしょうか。それとも、内側に持っている力によって、私たちの回りを暖めたり、さわやかな風を送ったりすることのできる人生を送るのでしょうか。

 私たちの心に、イエス・キリストを迎えましょう。その時、私たちは、回りのものに左右されずに生きる、人生の秘訣を得ることができるのです。

 (祈り)

 父なる神様、私たちにも、パウロが得たのと同じ人生の秘訣を与えてください。私たちをとり囲む環境に左右されるのでなく、むしろ私たちの回りを変えていくような力を与えてください。聖フランシスコが祈りましたように、私たちを「憎しみのあるところに愛を、傷のあるところに赦しを、疑いのあるところに信仰を、失望のあるところに希望を、暗やみのあるところに光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすもの」としてください。私を強くしてくださるイエス・キリストの御名によって祈ります。


必要は満たされる

ピリピ4:14-19

4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。
4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。
4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。
4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。
4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。
4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

 新約聖書の中には、アカウンティング、会計に関する用語が数多く出てきます。「銀行」「デポジット」「利益」「損失」「利息」「収支」「勘定」「借金」「返済」「免除」「信用」などなど、一つ一つのことばの意味を調べていくと大変興味深いものがあります。たとえば、聖霊が「デポジット」であるとか、罪が「借金」であるとかいうふうに、経済用語が霊的な真理をあらわすために用いられています。新約聖書にこうしたことばが頻繁に使われているのは、新約聖書で使われているギリシャ語が、ホメロスの書いた「イリアド」や「オデュセイ」などといった難しい古典文学のギリシャ語でなく、当時、商売取引に用いられていた、民衆のギリシャ語だったからだろうと思われます。このようなギリシャ語を「共通の」と言う意味で「コイネー・グリーク」と言います。英語で "It's all Greek to me."(「それはギリシャ語だよ」) というと、「ちんぷんかんぷんで全くわからない」という意味ですが、聖書はギリシャ語で書かれていても、私たちに「ちんぷんかんぷんな」書物ではありません。むしろ、ひとりでも多くの人々にキリストの救いがわかるようにと民衆のことばで書かれ、霊的な真理が、日常の用語で解き明かされているものなのです。

 今日の個所は、使徒パウロがピリピの教会から受け取った贈り物に対する感謝がしるされているのですが、その中に「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」(17節)という一節があり、ここにも「収支」あるいは「アカウント」という会計用語が使われています。この個所もまた、アカウンティングの用語で霊的な真理を解き明かしているのですが、それと同時に、クリスチャンのアカウンティング、金銭の管理そのものをも教えている個所です。今朝はここから、クリスチャンが神にささげる「献金」の意味について学ぶことにしましょう。

 一、献金は返金

 クリスチャンが礼拝でささげる「献金」は、もちろん、私たちの神への感謝を形に表わしたものであり、また、私たちの献身を表わしたものです。献金は礼拝への入場料でも、説教の聴講料でもありません。礼拝はお金集めの場所ではありません。しかし、なお、礼拝の中に「献金」があるのは、神を価値あるものであがめるためです。旧約の時代には、家畜や穀物が物の価値を表わしましたので、それらが礼拝でささげられました。現代は金銭が価値を表わしますので、金銭をささげるのです。「礼拝」は英語で "worship" ですが、これは "worth"(価値)あるいは "worthy"(価値のある、尊敬にふさわしい)ということばからきたものだと言われています。すべての栄光と誉れにふさわしい神を、それにふさわしいお方として礼拝するために、金銭をささげるのは意味のあることです。

 しかし、私たちのささげる献金も、もとはといえば、神が私たちに与えてくださったものです。神を認めない人は「これは俺が自分の力で稼いだのだ」と言うかもしれません。しかし、その人に仕事をする能力と、機会と、そして健康を与えてくださったのは神です。聖書に「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」(?コリント4:7、口語訳)とあるように、私たちの持っているものはすべて神からいただいたものなのです。私たちのささげる献金も、もともとは神のものなのです。ですから韓国のある牧師は「献金は神のものを神にお返しするもの、返金だ」と言いました。

 旧約時代、神は、神の民に与えられたものの「十分の一」を神に返すように命じられました。十分の一どころか、十分の十、すべてが神のものなのですから、十分の九、90パーセントを神に返し、10パーセントを自分のものとしても当然なのに、神は、神の民に90パーセントを与え、ご自分は10パーセントしかお取りにならなかったのです。私たちは、献金をする時に、このような神の恵みを覚えて、神のものを神にお返しするという、へりくだった心で、自らすすんでさせていただきたく思います。

 二、献金は貯蓄

 聖書が献金について教える第二のことは、それは「貯蓄」だということです。イエスは言われました。「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。」(マタイ6:19-20)これは、貯金したり、保険に入ったり、ストックに投資したりしてはいけないと言っているのではありません。将来のため、緊急なことのためにある程度の蓄えをもって備えていることは、神の守りを信じない不信仰なことと言うより、他の人に迷惑をかけないようにという愛の行為です。しかし、神にお返しすべきものまでも自分のものとして、ひたすら金銭を蓄えることだけに熱中するなら、それは、神に仕えているのでなく、富に仕えていることになるのです。

 聖書は、地上の銀行に蓄えをするだけでなく、天にも蓄えておきなさいと言っています。ひとつのところだけに全財産を預けるのはリスクが高すぎます。一番安全な「天国銀行」にあなたの財産を預けなさいと教えているのです。天国の銀行はつぶれることがないからです。私たちが、神のために、人々のために与えるお金は、そっくりそのまま天にある私たちのアカウントに積み立てられているのです。私たちは、やがて、天国に行く時、そこに利子がついて大きなものになっているのを見ることができるでしょう。ですから、献金は、「支出」の欄にではなく、「貯蓄」の欄に書き込むべきものでしょうね。本来は神にお返しすべきものを、神は、天で私たちのために積み立てていてくださる、この神のあわれみを思って、もっともっと天に宝を積むものとなりましょう。

 三、献金は投資

 第三に献金は投資であり、それは「配当」となって帰ってくるということを学びましょう。献金が投資であるというのは、 私たちの献金は神の事業、つまり、伝道、宣教に用いられるからです。私たちは、私たちのささげるものによって神がこの世界を救おうとしておられる大事業、神のビジネスに参加することができるのです。投資をしたら、その配当を得るように、神もまた、神のビジネス、伝道、宣教のためにささげる人々に霊的な配当や物質的な配当を約束してくださっているのです。

 17節は、新改訳聖書では「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです」(17節)と訳されていますが、口語訳では「わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである」とあります。口語訳のほうが原語に近いように思います。ある英語の訳では「勘定をふやしていく果実」を "profit added to your account" としています。神は、私たちが、神のために献金をしたからといって、それでわたしたちを貧しくするようなお方ではありません。献金は、貯金であり、投資なのですから、その利息が、配当が、神によってささげる者のアカウントに振り込まれるので、ささげる者のアカウントは、絶対に赤字にならないのです。赤字にならないどころか、それは元金以上に増えていくのです。私と家内は何度もそのような体験をしました。皆さんも同じような体験をしてこられ、神の真実を経済生活でも味わってこられたことと思います。私たちの先輩もそのことをあかししています。

 カリフォルニアの日系人は最初、ほとんどが貧しく、大変苦しい生活をしていました。けれども、皆よく働き、特にクリスチャンはわずかな収入しかなかった時でも、忠実に神にささげました。みんなでお金を出し合って土地を買い、建物を建て、教会を守ってきました。そして、主もまた、彼らを祝福してくださり、日系人はカリフォルニアに根をおろすことができるようになりました。しかし、日系人がアメリカで立場を得ようとしていた矢先、アメリカと日本の間に戦争がはじまり、日系人は大変な中を通らなければなりませんでした。強制立ち退きによって、日系人とその家族は、マンザナやポストンといった人里離れた施設に入らなければなりませんでした。ロスアンゼルスの日系博物館に行った時に、ちょうどそこに収容所の建物の一部が保存されていて、そこにそのまま運ばれてきており、それを見ることができました。それらの施設はたいへん粗末な板張りのバラックで、夏はどんなに暑く、冬はどんなに寒かったろうと思いました。小さな部屋で、いくつもの家族が間仕切りなしでいっしょに暮らさなければなりませんでした。それに、こうした施設は鉄縄文で囲まれ、見張りの塔が立てられていました。日系人が強制収容されたのは、それによって日系人が心無い人から迫害を受けずに済んだという面もあるのでしょうが、自由と平等を尊ぶアメリカで、同じアメリカ市民が自由と権利を奪われたというのは、本当に大変なことだったでしょう。しかし、収容所の中でもクリスチャンは共に集まり、一日も早く平和が来るように祈ったと聞いています。

 戦争が終わり、ある人は収容所から、ある人はヨーロッパ戦線から帰ってきました。ヨーロッパに行った二世部隊のほとんどは負傷しており、満足なからだで帰ってこれた人々は少なかったそうです。しかし、彼らの負傷したからだが、日系人のアメリカに対する忠誠のあかしとなったのです。もうすぐ、メモリアル・デーがやってきますが、私たちは、二世の方々のこうした犠牲があって、日系人、また日本人のコミュニティがアメリカ社会に受け入れられるようになったということを忘れてはならないと思います。

 戦後、人々は閉鎖されていた教会を再建し、自分たちのものもままならない時に、神のために金銭をささげ、時間をささげ、労力をささげ、祈りをささげてくださいました。みんな暗くなるまで農作業をし、それが終わったら、着替える間もなく、少々泥のついた着物のままでしたが、祈り会にかけつけ、祈りあったという話を多くの一世、二世の方々から伺いました。私たちの先輩が、自分の家のことは後回しにしても、神の家のこと、教会のことを第一にしてくださったので、教会が今日のように成長したのだと思います。私は、サンディエゴにいた時、一世、二世の方々をお尋ねして、そうしたご苦労を伺いましたが、そのどなたも今は、たいへん恵まれた生活をしていらっしゃいました。健康に恵まれ、長寿に恵まれ、家族に恵まれ、経済的にも恵まれていました。神は、ささげる者に、必ず報いてくださる、そのことを実際にこの眼で見ることができました。

 サンタクララ教会でも、それは同じだろうと思います。英語部の二世の方々が今もお元気でご奉仕に励んでいてくださるのを見る時、神の真実を思います。日語部でも、ご主人を亡くされたり、仕事をなくされたりして、経済的に大変な中をとおってこられた方々のあかしを伺いました。時代や状況は違いますが、今もさまざまな困難の中を通られる方々がいらっしゃいます。しかし、どのあかしの結論も「神が必要を満たしてくださった」なのです。

 忠実にささげるものに神は報いてくださるのです。私たちのささげるものは、神から受けたものをお返しするのにすぎません。しかし、神はそれを喜んで祝福してくださいます。私たちのささげる物は、金銭であれ、時間であれ、労力であれ、祈りであれ、それは無駄にはならないのです。それは神のもとに蓄えられ、何倍にもなって私たちのところに戻ってくるのです。神は、ささげる者の生活を保障してくださいます。ささげても、ささげても、神は私たちのアカウントに配当を入れて、それを増やしてくださるのです。人間の計算では、減っていくはずのアカウントが、信仰の計算によって増えていくのです。これが、17節で言われている「収支を償わせて余りある霊的祝福」また、「勘定をふやしていく果実」なのです。神は、霊的祝福も実際的祝福もくださるお方です。ですから、聖書はこう約束しています。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(19節)私たちに決して乏しい思いはさせないと約束してくださっている神に信頼し、この後も歩んでいこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神様、あなたはわたしたちの必要をすべて満たしてくださるお方であることを感謝します。日々の生活の中で、不安や不満、思い煩いにとらわれそうになる時、あなたが私たちにどんなに真実であられるかを思いおこさせてください。どんな必要もあなたの元に祈りによって持って行き、心も魂も、生活の必要もあなたに満たされる私たちとしてください。私たちのために栄光の富をかちとり、私たちを真に豊かなものとしてくださったイエス・キリストの御名によって祈ります。


聖徒のまじわり

ピリピ4:21-23

4:21 キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。
4:22 すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。
4:23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。

 早いもので、私がサンタクララ教会で奉仕をはじめて一年が経とうとしています。昨年の九月、サンタクララ教会での最初の礼拝メッセージは「クリスチャンのまじわり」という題で、ピリピ人への手紙1:5からでした。その後、引き続いてピリピ人への手紙からお話しをしてきまして、今日は、その最終回で「聖徒のまじわり」という題でお話しします。伝道礼拝や特別礼拝が数多くありましたので、ピリピ人への手紙を終了するのに、一年近くかかってしまいました。

 ピリピ4:21-23は手紙の最後の挨拶の部分で、普通はこういう箇所から説教されることはまれかと思いますが、実は、ここにも大切なメッセージが含まれているのです。今朝は、この箇所から「聖徒」「あいさつ」そして「恵み」という言葉に目を留め、神が私たちにくださった祝福について学びましょう。

 一、聖徒

 使徒パウロは、この手紙の最初の挨拶で「ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たちへ」と、ピリピのクリスチャンを「聖徒」と呼びましたが、最後の挨拶でも「キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく」と、クリスチャンのひとりびとりを「聖徒」と呼んでいます。普通「聖徒」というと、聖フランシスコとかマザーテレサとかいった特別な人を思いうかべます。日本でもバックストン宣教師や笹尾鉄三郎牧師といった人たちは、キリストの香りを放ち、神のきよさのうちに生きた人として知られ「聖徒」と呼ばれています。この教団の創設者葛原定市先生も「西海岸の聖徒」と呼ばれました。しかし、聖書では特別な、ぬきんでたクリスチャンでなくても、すべてのクリスチャンが「聖徒」と呼ばれているのです。

 ピリピの教会のクリスチャンだけでなく、コリントの教会のクリスチャンも聖徒と呼ばれていますが、コリントの教会は、問題だらけの教会として知られていました。そこには分裂、分派があり、不道徳がありました。教会のメンバー同士が裁判沙汰の争いをしていました。偶像礼拝や離婚があり、礼拝も無秩序で、聖餐式を正しく守られないありさまでした。そして、クリスチャンにとって一番大切なキリストの復活の信仰もゆらいでいました。ところがそんなコリントのクリスチャンに対しても聖書は「私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ」と呼びかけているのです。なぜでしょうか。それは、聖書がクリスチャンを人間の目からでなく、神の目から見ているからです。

 自分を、また、他の人を神の目から見ること、つまり聖書に教えられているとおりに見ることは大切なことです。そうでなければ、本当の自分の姿が見えないからです。聖書は鏡のようなもので、私たちの姿を映し出すのです。私たちは聖書によって、自分の罪深さを知ると共に、その罪が赦され、きよめられ神の子とされていることを知るのです。自分の目からだけ自分を見ていてもそうしたことは分かりません。自分の罪を甘く見てしまって悔い改めることができなかったり、自分を責め続けて、神に赦されていることの喜びを味わうことができなくなってしまうのです。

 「聖徒」、「きよい者」という言葉の本来の意味は「とりわけられたもの」という意味ですが、神は、悔い改めと信仰によって私たちの罪を赦し、私たちを神のものとして選び分け、私たちを「きよいもの」だと宣言してくださったのです。聖書の中で、神に従い通したノアやアブラハム、ダビデなどの偉大な人々と同等に私たちを取り扱ってくださるというのです。私たちが「聖徒」と呼ばれているのは、実に大きな祝福、恵みです。

 キリストを信じる者たちは、「聖徒」とされたという恵みをいつも覚えていましょう。私たちはキリストを信じた時に罪を赦され、新しい心を与えられたたとはいえ、実際の生活の中では、罪や過ちを犯し、試練にあってくじけたり、誘惑にさそわれたりします。そんな時、自分が「神の子」であり「聖徒」であることを自覚しましょう。それによって私たちは罪や誘惑から守られるのです。こんな話があります。昔、ある国に落ち着きのない王子がいました。ある日、お供の者と一緒に街に行った時、いつもはお城の中にいるものですから、見るもの聞くものが珍しくてきょろきょろしていました。そんな時は、お供の者が、王子の服のすそを引っ張って、『殿下、ご身分を』と言うのです。すると、王子は、背筋を伸ばして堂々と歩き出したというのです。私たちクリスチャンも、私たちが「聖徒」と呼ばれていることをいつも思い起こして、聖徒として歩むよう努めたいものです。

 私たちが「聖徒」と呼ばれているのは、決して私たちがそれで高慢になって、他の人を見下すためではありません。むしろ、謙虚になり、聖徒と呼ばれるのにふさわしく、きよめを求めていくためなのです。そして私たちがきよめを求めるなら、神もそれに答えて私たちをきよめてくださるのです。神は私たちに「聖徒となれ」と励ましてくださると共に「あなたは聖徒だ。わたしがあなたを聖徒にする」と約束してくださっているのです。

 二、あいさつ

 次に目に留めたいのは「あいさつ」という言葉です。日本語の訳では「キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく」(21-22節)というように「よろしく」と言われています。私たちは良く「よろしくお願いします」と言いますが、これは英語に訳すとどうなるのでしょうね。「仲良くしましょう」でもないし、「助けてください」でもない、日本語の「よろしく」というのは、響きのいい言葉ですが、意味はあいまいですね。しかし、21、22節の「よろしく」というのは、そんなあいまいな意味でなく、もとの言葉では「あいさつします。あいさつを送ります」という意味なのです。そして、聖書で「あいさつ」という場合、それは、単なる儀礼上のことでなく、もっと重い意味を持っているのです。

 ヨハネ第二10,11節に「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります」という大変厳しいことばがあります。当時、ひとつの教会だけでなく各地の教会で聖書を教える人がいました。教会はそうした教師たちを迎え入れ、次の教会に送りだしたのです。ところが、その中には全く聖書の教えを持っていない偽教師もいました。ヨハネの手紙で「この教えを持って来ない者」というのは、そうした偽教師のことを言っています。ここでは、そういう人を教会の説教者に招いてはいけないと言っているのです。そして、「あいさつ」するというのは、そういう人を迎え入れ、もてなすことを意味していました。ローマ16:16に「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。」とあります。当時、男性は男性同士で、女性は女性同士で頬を摺り寄せてキスをする習慣がありました。「聖なる口づけ」というのはそのことを言っています。しかし、これもまた単なる習慣としてでなく、クリスチャンが神の家族として互いを受け入れあい、愛し合うということの表現として行われていたのです。

 ですから、ピリピの手紙で「キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、あいさつを送ります。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたにあいさつを送ります。すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、あいさつを送ります」とあるのは、お互いを認め合い、愛し合うという意味がこめられているのです。ハワイでは挨拶に「アロハ」と言いますが、このことばには「こんにちは」という以上に、"I love you." という意味があるのだそうですが、それと同じように、ここで、パウロが「あいさつを送ります」と言っているのは、パウロがピリピのクリスチャンに対して、キリストにある愛をもって "I love you." というメッセージを送っていることになります。それは、コリント人への手紙第一の一番最後でパウロが「私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります」と書いたのと同じ意味合いです。「聖徒」とされた者たちがお互いを神の目から認め合って、互いに "I love you." のメッセージをかわす、ここに使徒信条に言われている「聖徒のまじわり」があるのです。

 パウロは、あいさつを「聖徒のひとりびとり」に送っています。パウロは、ローマ人への手紙のあいさつの部分で「プリスカによろしく、アクラによろしく、エパネトによろしく、マリヤによろしく」と、三十名以上の人々の名前をあげ、ひとりひとりへの深い愛を表わしています。ピリピの手紙では個人名は出てきませんが、パウロがここで「ひとりびとり」と言った時には、ほんとうにひとりびとりの顔を思いうかべていたと思います。

 このことは、教会ではひとりびとりが大切にされなければならないということを、私たちに気付かせてくれます。教会は神の家族です。家族のそれぞれには、それぞれの役割りがありますから、私たちは、自分の教会にしっかりと所属して、そこで役割を果たしていかなくてはなりません。しかし、家族が会社のように役割、役職だけで成り立つのではないように、教会でも、メンバーがその役割だけで評価されるのでなく、ひとりびとりがかけがえのないものとして大切にされなければなりません。ここ五、六年ほどサドルバック・コミュニティ教会のリック・ワレン牧師の書いた "Purpose Driven Church" という本がよく読まれ、日本語にもなっています。リック・ワレン牧師の教会はわずか数年で何千人という大きな教会になったのですが、それはメンバーのひとりびとりが「この集会は、この活動は何のためにするのか」という目的意識をもって励んだからだというのです。どんな場合でも「目的」を明確にすることは大切なことです。しかし、教会では「目的」や「ゴール」が何よりも大切で、メンバーはその目的達成のために「利用される」ようなことになってはいけないと、私は思います。"Purpose Driven Church" というのもいいのですが、その前に教会は "People Driven Church" ―ひとりびとりが大切にされ、互いに愛し合うところであるべきだと思います。時々、神のことだけが大切で人間のことはどうでも良いということが「霊的」であり「信仰的」であるかのように思われることがありますが、そうではありませんね。人間中心主義に陥ってはいけませんが、神が神としてあがめられるところでは本当の意味で人間、ひとりびとりが大切にされるということを私たちは知っています。ですから、神が教会にくださった聖徒のまじわりのすばらしさを大切にし、それを育てていきたく思います。

 三、恵み

 最後に目を留めたいのは「恵み」ということばです。ピリピ人の手紙の冒頭、1:2で「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように」と祈られていました。そして、最後の4:23でも「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように」と「恵み」が祈られています。ピリピ人への手紙は恵みではじまり、恵みで終わるのです。「恵みがありますように!」短い、飾りのない率直な祈りですが、この短い祈りにパウロの思いがすべて込められているような気がいたします。

 「恵み」という言葉は「それを受ける値打ちのないものに与えられる愛」という意味があると言われますが、パウロは確かに、この恵みを知り、味わっていました。パウロはコリント人への手紙第一、15:9-10でこう言っています。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」パウロは急進的なパリサイ人の指導者で、教会の最初の殉教者となったステパノのリンチの立会人となり、それを機にユダヤのクリスチャンを迫害しては投獄していた人物でした。彼はユダヤだけでは事足りず、遠くダマスコにいるクリスチャンまでも迫害しようと息巻いていました。そんな彼が、キリストに出会い、彼の人生は百八十度変わりました。その罪を赦されたばかりか、キリストの使徒として大きな働きをするようになったのです。それは、神の恵み、キリストの恵み以外の何者でもありませんでした。ですから、パウロは他の人にも「キリストの恵みがありますように!」と祈ることができたのです。

 自分がキリストの恵みを知らないでいて、他の人のためにキリストの恵みを祈ることはできません。また、キリストの恵みを知った者は「この恵みがあなたにあるように!」と祈らないではおれないのです。そして、互いに「恵みあれ!」と祈りあうのが、「聖徒のまじわり」です。そして、この聖徒のまじわり、クリスチャンのまじわりはキリストの恵みによって成り立っているのです。クリスチャンがこのように共に集まって神を礼拝することができる、これは当然のことと思いがちですが、そうではありません。初代教会は迫害の時代には、礼拝のために共に集まることを許されませんでした。ドイツでは、ヒットラーの時代に、聖書の教えに立つクリスチャンは、近隣のヨーロッパの国々に散らされました。この21世紀でも、いくつかの国ではクリスチャンになることも、クリスチャンが集まることも許されていません。また、アメリカのように集会の自由がある国でも、心の悩みや人間関係のトラブルなどのため、他のクリスチャンと素直に交わることのできない人々が多くいるのです。私たちが、ここにこうして、聖徒のまじわりを楽しむことができるのはなんという特権、恵みでしょう。恵みによって成り立っているこのまじわりに、さらに神の恵みを祈り求めてまいりましょう。そして、さらに多くの方々が、このまじわりの中に加わり、この交わりの中で神の恵みを発見し、神の恵みに生かされるよう、祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神様、私たちを聖徒のまじわりの中に招き入れてくださってありがとうございます。今朝、私たちはクリスチャンの、キリストにあるまじわりが恵みによって成り立っていることを、もう一度確認しました。私たちが、キリストにある愛をもってお互いを認め合い、お互いのために「恵みあれ!」と祈り、お互いに対して恵み深いものとなることができますよう、お導きください。そしてそのことによって、多くの人にキリストの恵みをあかしするものとしてください。主イエス・キリストの御名で祈ります。

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