ピリピ人への手紙からのメッセージ

このページには、2000年9月から2001年7月まで、サンタクララ教会の礼拝でお話ししたピリピ人への手紙からのメッセージをそのまま載せてあります。皆さんのコメントをお待ちします。

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ピリピ人への手紙第二章


クリスマスの精神

ピリピ2:1-11

2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 十年以上も前のことですが、はじめてアメリカに来るようになった時、私は短波の入るラジオを日本から持っていきました。日本からの短波放送を受信するためでしたが、あまり良く入りませんでした。それで日本語放送を受信するのはあきらめて地元の放送を聞くことになりました。もちろん英語のニュースや音楽だったのですが、私の娘は、ラジオから聞こえてくる英語を聞いて言いました。「お父さん、日本のラジオなのにどうして英語が聞こえてくるの!」そのころは娘もまだ小さかったので、こどもにとっては不思議なことだったのでしょうね。

 最初に行ったテキサスでは、日本のニュースといえば、ロスアンゼルスから回ってくる「ラフ新報」が唯一の情報源でした。その後、カリフォルニアに来てしばらくしてから、サンディエゴでもケーブルテレビで日本のニュースが入るようになりました。そのニュース番組で聞いたのですが、日本のアナウンサーが、「商店街はクリスマスの飾りつけが完了して、町はクリスマスの精神にあふれています」と言っていました。このアナウンサーは、みんながショッピングに出かけることを「クリスマスの精神」だと言っているんですね。なんだか、クリスマスの精神という言葉が勝手に使われているような気がしました。ショッピングがクリスマスの精神ではありませんし、ただ楽しく過ごすこと、人に分け与えること、仲良くすること、それはそれで良いことですが、それもクリスマスの中心的な精神ではありませんね。

 ではクリスマスの精神はどこに見つけることができるのでしょうか。それは、今朝の聖書の個所にあると思います。ここには、マタイの福音書やルカの福音書に書かれているような、馬小屋も、天使も、羊飼いも、星も、博士たちも出てきませんが、クリスマスの日に起こった出来事が書かれています。6節と7節に次のように書かれています。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」「キリストは…人間と同じようになられた」とあるように、クリスマスの日は、神の御子が人となられた、私たちと少しも変わらない赤ん坊になって、この地上に生を受けられた日なのです。

 一、キリストのへりくだり

 赤ん坊で生まれ、成長し、学び、働き、そして使命を果たして世を去っていく。それは私たち人間にとってはあたりまえのことですが、神の御子キリストにとっては、それは、全く、考えられないほどの無謀なことなのです。キリストは神の御子として、はじめも終わりもない、永遠のお方です。時間の中に生きている私たちが、永遠ということを考えても理解しにくいのですが、神は私たちとは違って時間に制約されないお方です。「神とは時間に制約されず永遠であり、空間に制約されず無限であり、環境に制約されず不変である。」これは、神学者たちが神とはどんなお方かを言い表そうとしたことばですが、確かにそのとおりですね。しかし、永遠の神の御子は、今から二千年前に人となってこの世に生まれ、はじめを持ち、終わりを持たれました。時間に制約されたのです。

 また、神はいつでも、どこにでも、同時に存在することがおできになります。そうでなかったら、今、全世界で礼拝が行われているのですが、神はどこかの教会の礼拝にはいらっしゃっても、ほかの礼拝にはおいでにならないということになってしまいます。神はトは、私たちが霊と真理(まこと)をもって礼拝するところには、どこにでもおいでになって、私たちの礼拝をお受けになるのです。このことを難しい言葉で「偏在」と言います。「どこにでもおいでになる」という意味です。キリストは、そのようなお方なのに、地上におられた間は、ペツレヘムにいたなら、同時にエルサレムにいることができなかった、エルサレムにいたならガリラヤにはいることができなかったのです。キリストはそうした点においてもご自分を制限されました。

 そしてなによりも、キリストはその力を、栄光を制限されました。ペツレヘムで生まれた赤ん坊のイエスは、その後、ヘロデ大王に命を狙われるようになります。「赤子の手をひねるように」という表現は「いとも簡単に」という意味で使われますが、全能の神であるお方が、全く無力で無防備な赤ん坊になられたのです。

 よく「キリストの処女降誕なんて信じられない」という事を聞きますが、キリストの処女降誕というのは、神が人となられるという特別な、ユニークな出来事を指し示すしるしに過ぎません。神が人となられたということを受けいれられるなら、そのために処女降誕という特別な方法をとられたことはたやすく信じられるはずです。神が人となられたということを信じるためには、なぜキリストは人となられたかを考えてみることです。キリストは私たちを罪と死と滅びから救い出すために、私たちの愛のゆえに人となられたのです。処女降誕も、神が人となられたという驚くべき出来事も、このキリストの愛から出ています。神が人となられたのは、愛の奇跡です。人間はだれもキリストの愛のすべてを理解することはできませんが、その愛を受け入れることができます。そして、キリストの大きな愛を受け入れる時、私たちはキリストが人となれたという理性を超えたこと、処女降誕という奇跡をも受け入れることが出来るようになるのです。

 世界をお造りになったお方が、造られた世界の中に入ってこられる、それは大きなお相撲さんが子どもの服を着る以上に、窮屈なこと、いいえ、窮屈などという範囲を越えたことなのです。キリストは人となれただけでなく、人間の中でも、最も貧しい者、卑しい者となられました。天の栄光を捨てて、低く、低くなられたのです。ピリピ7節、8節は、こう言っています。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」キリストは、自分を捨て、しもべになり、自分を低くし、十字架の死に向かわれました。主であるお方が、罪ある人間と同じ姿をとり、私たちの罪を背負ってくださった、私たちのために罪の刑罰を十字架の上で受けてくださったのです。

 こんなポエムがあります。「キリストは、人となって地上に来られご自分を肉体で包まれた。クリスマスの夜、おむつに包まれ、飼い葉桶の中に寝かせられた。キリストはタオルを腰に着け、弟子たちの足をお洗いになった。そして、十字架で死に、葬りの布に包まれた。」この詩は、イエスのご生涯を、四つのもの、肉体、おむつ、タオル、葬りの亜麻布によって見事に、言い表していますね。本来は栄光に包まれているべきお方が、これら四つのものに包まれたのは、キリストが私たちのために低くなられたこと、ご自分を制約されたことを表しているのです。キリストが肉体をまとわれたのは、そのおからだを十字架の上でお裂きになるためであり、キリストが赤ん坊として生まれ、ダイアパーをあてられたのは、十字架の上で傷つけられた身体を、あの亜麻布に巻かれ、葬られるためだったのです。クリスマスは、私たちのために、低く、貧しく、卑しくなってくださったキリストを覚える日なのです。

 二、キリストの栄光

 しかし、クリスマスは、それと同時に、私たちの王、主となってくださったイエス・キリストを覚える日でもあります。八節までは、キリストが低く、低くなって行かれる姿が描かれていましたが、九節からは、一番低いところ、罪人としてのろわれ、苦しめられ、刑罰を受けて死なれた十字架から、復活をへて天の御座に着かれたことが書かれています。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

 クリスマスはキリストをほめたたえ、礼拝する日です。アメリカの祝日には、大統領や著名な人の誕生日を祝う日がありますが、クリスマスもそれと同じような意味でのキリストのバースデーのお祝いではありません。クリスマスは王であり、主であるお方のもとにひれ伏して礼拝する日です。

 誰がキリストを礼拝するのでしょうか。「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの」です。「天にあるもの」とは、天使たちのことでしょう。キリストは単なる神からのメッセンジャーではありません。神の側近くに仕えている天使たちもその冠をぬいで、キリストの足元に置き、ひれ伏して礼拝しなければならないお方です。キリストは天使たちを従えてご自分の命令のままに動かすことのできる主なるお方なのです。「地にあるもの」とは、私たち人間と自然界のすべてのもののことでしょう。キリストはクリスチャンだけが礼拝すればよいお方ではありません。すべてのものの造り主として、どこの国の誰からも礼拝されなければならないお方です。人間ばかりでなく、人間が神の助けによって作り出した文化も、制度も、科学も、ありとあらゆる人間の営みも、キリストを主としてほめたたえるものでなければならないのです。国境を越えて、地球全体が、いいえ、大宇宙の星という星がキリストを主とたたえるようと、聖書は言っているのです。「地の下にあるもの」とは、死者の世界のことを言っていると思われます。聖書は、死者の世界が具体的にどんなものかについては多くを語っていませんが、死後の世界があることは、はっきりと教えています。キリストご自身が死を体験し、死者の世界を訪れてこられ、そこから再び帰ってこられたのですから、それは確かなことです。キリストの復活によって、クリスチャンにとっては死はもはや暗黒の場所ではありません。誰もがこの地上を去るときがやってきますが、私たちは死によってキリストから引き離されてしまうのではなく、逆にキリストに近づきもっとキリストをたたえることができるようになるのです。

 クリスマスにはヘンデルの「メサイア」がよく演奏されます。このオラトリオは、1741年に作曲されてから260年の間くりかえし演奏されてもすこしも古びませんね。「メサイア」は聖書のことばだけが歌われていますので、その聖書のことばが聞く人の心を打うのだろうと思います。「メサイア」の演奏を聞いていた英国国王が、ハレルヤ・コーラスになった時、思わず起立して、王の王であるキリストを礼拝しました。それ以来、ハレルヤ・コーラスの時に聴衆が起立するならわしができました。私たちも、「王の王、主の主、ハレルヤ」と、このクリスマスに、キリストを王として、主として、神としてあがめるものでありたく思います。

 三、私たちのへりくだり

 さて、このように、栄光を捨てて低くなられたキリスト、ご自分をむなしくしてしもべになられたキリストのことを思う時、私たちはどのように、このキリストにおこたえしなければならないでしょうか。それは、わたしたちもキリストと同じように、神の前に、また他の人に対してへりくだることです。へりくだる必要のない方でさえへりくだられたのなら、私たちはなおさら、自分の罪や、いたらなさを思ってへりくだるべきではないでしょうか。

 しかし、ほんとうのへりくだりとは何なのでしょうか。どうしたら、それができるのでしょうか。ある人が言いました。「日本人は昔から『腰が低い』と言われるが、それは足が短いからです。でも、最近は日本人も足が長くなりました。『足の引っ張り合』をしているからです。」私の母教会の先生は良く「謙遜的傲慢」という言葉を使っていました。「私は何もできません。このご奉仕は遠慮させていただきます。あの人にやっていただいたほうがよろしいのではないでしょうか」と謙遜に譲り合っているようですが、実は、「そんなものはやりたくないよ」という思いが隠されている場合もあるのでしょうね。本物の謙遜を見ることはなかなかまれですし、本当の謙遜を持つというのは難しいものですね。しかし、キリストは本当の謙遜を持っていらっしゃいましたし、キリストの持っておられた謙遜こそが本物の謙遜です。

 この謙遜を、どうしたら、私たちのものとすることができるでしょうか。それは、まず何よりも、キリストが全世界の主であることを認めることからはじまります。イエス・キリストを主としないかぎり、私たちは、知らず知らずのうちに、「この家では俺がボスだ」「私のことは私の好きにします」などと、自分の世界の中で自分が王様、女王様、主であり神であると主張しだしているかもしれません。そしてその結果、世界中のあちこちで争いが起こり、戦いが起こるのです。

 キリストがどんなに偉大で、気高いお方が分かれば、そのようなお方が天の栄光を捨てて、地上に来てくださったこと、小さく罪深い、この私の救い主になってくださったことがどんなに感謝なことかが分かってくるのです。そして、そのことが分かる時、キリストは、ご自分のうちにある、本当の謙遜を私たちの心の中に移してくださるのです。

 ピリピ人への手紙2章1-5節をご一緒に新改訳で声を出して読んでみましょう。「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」この箇所の最後の言葉、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」は、古い日本語訳では、「キリスト・イエスの心を心とせよ。」となっています。「キリスト・イエスの心を心とせよ。」これは、この箇所の言わんとするところをピタリと言い当てた名訳だと思います。

 「クリスマスの精神」、それは、キリストが天の栄光を捨てて、へりくだってくださったことの中にあります。私たちも、キリストのへりくだりを身にまとってこの時を過ごしたいものです。

 (祈り)

 主よ、このクリスマスに、キリストのまことの謙遜を私たちのものとさせてください。愛する主イエスの御名で祈ります。


救いの達成

ピリピ2:12-13

2:12 そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
2:14 すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
2:16 いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
2:17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

 新しい年、みなさんは、「今年こそは」はと、何かの目標をもって始められたことでしょう。学業の面で、仕事の面で、また家庭で、何かの目標を掲げて歩むことは大切なことです。たとえ、そこに到達できなくても、百パーセント成し遂げられなくても、そこに近づくことが出来、目標の幾分かでも達成できればそれは大きな進歩だからです。目標を持たなければゼロのままですが、目標をもてば何らかの収穫があるものです。教会でも「深みに漕ぎ出そう」というみことばによって新しい一年をはじめましたが、皆さんおひとりびとりも、信仰生活、教会生活の面で具体的な目標をもって進んでおられることと思います。今朝の聖書の主題は「救いの達成」ですが、聖書はこのことによって、私たち皆が「救い」というスタートラインからその「達成」というゴールに目指すよう教えています。キリストの救いをいただいた者が、そこからどこへ向かっていくべきかを学ぶことは、新年にふさわしい主題だと思います。

 一、救いの達成の意味

 聖書は「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」と教えています。ここで言われている「救いを達成する」というのはどういう意味でしょうか。イエス・キリストが与えてくださった救いというのは、私たちに土台だけを与えるもので、あとは、私たちが自分の力でそこに何かを築きあげ、完成させなければならないということなのでしょうか。そうではありませんね。もし、そうなら、救いは神の力によるもの、神の恵みによって私たちに与えられるギフトでなくなってしまいます。イエス・キリストの救いはそこに何も付け加える必要のない完全なもので、ただ信じるだけで与えられるものです。自分で自分を救うことのできない私たちは、イエス・キリストの救いを信じる、信仰によってしか救われることはありません。キリストがその命を投げ出して勝ち取ってくださった救いは完全なものであり、私たちが自分たちのなんらかの努力で補わなければならないといったものではありません。

 「救いを達成する」というのは、神の始めてくださった救いを人間の力で完成させるということではなく、神が私たちを救ってくださった目的を果たしていくということです。私たちすべては、神によって目的をもって造られました。神はどの人にも目的を与えておられます。神は、私たちがその目的を知り、そのために生きていくように願っておられます。すべてのこと、すべての人に目的があるなら、まして、キリストによって救われた者たちには、もっと確かな目的があるはずです。神が、御子イエスを世に遣わし、御子の十字架の死をもってまで、私たちを救ってくださったのです。私たちは、目的なしに救われたわけではありません。神はなぜ、何のために私を救ってくださったのか、神が私に対してもっておられる目的が何なのかを知り、それを私たちの生活を通して、私たちの人生を通して果たしていくこと、それが救いの達成なのです。

 救われるというのは、教会の教えを受け入れたとか、大きな決断をしたとか、あるいは、気持ちを入れ替えたとかいう以上のものです。それは、いままで自分の考えに従って、自分のためだけに生きてきた私たちが、自分は神に造られ、救われたものだということが分かって、今度は神のために、神のご計画に従って生きていくということなのです。ですから、救いの達成の第一歩は、神の救いの目的、ご計画を学ぶことから始まるのです。

 今、インドネシアではイスラムの勢力が強く、クリスチャンの教会が焼き討ちされたりしていますが、今から30年ほど前には、インドネシアでリバイバルが起こり、大勢の人々がクリスチャンになりました。村ごと改宗するといっためざましい伝道がなされました。。私がまだ神学生だったころで、日本からも、インドネシアに宣教師として行っておられた方があり、そういう先生方のレポートを、興奮して聞いたものです。インドネシアにリバイバルがあったその頃、ある宣教師がインドネシアの人々に聖書のお話をすると、みんな喜んでそれを聞き、教会に来て、バプテスマも受けるようになるのですが、その宣教師がその人たちの生活を見て見ると、人々は信仰を持つまえと少しも変らず、あいかわらず村の魔術師にうらないを頼み、偶像礼拝をしていました。それでその宣教師は、そうしたものを捨て、そうしたものから離れるように言いいますと、人々は「それじゃぁ、もう教会に来ません」と元の生活に戻っていきました。イエスの十字架による救いの話をし、クリスチャンの生活について聖書を説いてもだめだったのです。そこでその宣教師は、万物の創造からはじまって、世の終わりにいたるまでの神の救いの計画、救いの歴史を教え始めました。人々は、神がすべてを造り、歴史を支配しておられるのだということが分かるにつれて、偶像を捨てることが出来、神が何のために自分たちを救ってくださったのかが明確になるにつれて、聖書にそった生活ができるようになったというのです。人々は、心が解放されたとか、慰められたというだけでなく、その世界観や人生観の変化を経験したのです。

 私たちも、イエス・キリストの救いの意味、計画を知り、それを聖書にしたがってきちんと整理して心にたくわえましょう。そして、救いの目的をつかみ、救われた者に与えられた目的を果たしていこうではありませんか。

 二、救いの達成の道

 さて次に、救われた目的を果たしていくということが、具体的にはどんなことかを学んでみましょう。今日は、12節と13節しか読みませんでしたが、15節を見ると、実は、ここには「救いの達成」の具体的な姿が描かれているのです。15節と16節のはじめまでを、ご一緒に読んでみましょう。「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」

 今日は、この中の「神の子どもとなる」ということばに注目しましょう。これはどういう意味でしょうか。イエス・キリストを信じた者はすでに神の子どもなのではないでしょうか。ヨハネ1:12に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とあり、ローマ8:14-16には「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます」とあります。確かに私たちはもうすでに神の子になっているのです。しかし、それは、神の子の身分を与えられているという意味であって、神の子としての性質が成長し、神の子としての生活が出来ているかというとそれはまだ完全ではないのです。私たちが神の子であるというのには、二つの面があり、一つは、神の子の身分を与えられ、神の子として取り扱われるという面、もう一つは、神の子とされた私たちが、現実の生活の中で、神の子としての性質を、実際に持つようになる、神の恵みによって、神の子らしく変えられていく、神の子としての行いをすることができるようになるという面です。ピリピ人への手紙で「神の子となる」、しかも「傷のない神の子となる」と言っているのは第二の面を表わしています。私たちは第一の面においてはすでに神の子です。神は、実際には、まだちっとも神の子らしくない、神の子としての性質も、行いも身についていなくても、神は、私たちをご自分を子どもとして扱い、愛を注ぎ、恵みを注いでくださっています。神の子としての身分や立場、特権は、救われた時にすぐに与えられ、それは変わることはありません。しかし、私たちが神の子としての性質を発揮していくには時間がかかるのです。私たちは、神の子としての性質を成長させていくこと、それは救われた目的の一つであり、「救いの達成」の一部です。

 イエスは山上の説教で次のように話されました。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。」(マタイ5:43-45)イエスは、イエスを信じる者たちに「神は、あなたがたの父である」と仰って、イエスを信じる者たちを「神の子」として扱っておられます。しかし、同時に、「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことによって、神の子となりなさい、愛の神の子どもとなりなさいとも言っておられます。イエスは「あなた方はすでに神の子なのだ。だから、神の子らしくふるまいなさい」と教えているのです。救いの達成とは、自分の努力で神の子になることではなく、イエスの救いによってすでに神の子とされた者が神の子らしくなっていくこと、救われている者が救われた目的に生きることです。イエスを信じる者は「神の子である」という真理は今まで強調されてきましたが、「神の子とされた者は神の子として生きるべきである」という真理はおろそかにされてきたような気がします。しかし、「神の子が神の子として生きる」ということこそ、ホーリネスのメッセージではないかと思うのです。ホーリネスの信仰を持つ私たちは「神の子である」ということに安住して、「神の子となる」こと、救われた目的に生きること、救いの達成を目指すことを忘れてはならないのです。

 三、救いの達成の方法

 しかし、私たちはどのようにして、救いを達成することができるのでしょうか。それは、一歩一歩の積み重ねによってです。私たちは神の子どもとなったからといって、一足飛びに神の子どもらしくなるのではありません。神の子どもの身分が与えられたからと言ってすぐに神の子どもとしての性質が現われるわけではありません。目に見えないものが見えるものとして表わされるには時間が必要です。

 私も、アメリカ生活がかれこれ十年以上になり、今はアメリカでの生活にも慣れてきましたが、最初はいろいろ驚くようなことがありました。その一つは、ヴァキュームを買った時でした。ボックスを開けてびっくり、そこにはヴァキュームのパーツがばらばらに入っていて、自分で組立てなければならなかったのです。日本では、掃除機の中にごみ袋までちゃんと入っていて、箱から出したらすぐ使えるようになっていますので、ずいぶん違うものなだと思いました。さて、霊的なことを、実際的なことにたとえるには何らかの無理がありますが、それでも、アメリカのヴァキュームを救いにたとえてみることができるかなと思いました。私たちが受けた救いは、組み立ての必要なパーツのパケットのようなものです。私が買ったヴァキュームのパーツに壊れたものや足らないもの、不良品が何もなかったように、神のくださる救いは完全、完璧なものです。しかし、パーツを組み立てていかないと、それは本来の目的を達しません。掃除機のパーツが完全であっても、組み立てるまでは掃除ができないように、私たちも、キリストのくださった救いという無尽蔵の宝の入ったボックスから、私たちの生活のそれぞれの部分にフィットするパーツを探し出し、それによって私たちの人格を、人生を築きあげていく必要があります。神は、一人一人の人生にそれぞれ違った目的と使命をお与えになっていますから、ある人はパワフルな掃除機に、ある人は小回りのきく小型の掃除機にと、神によって組み立てられていくのです。時間をかけて、完成を目指していくのです。

 次に、神に思いを向けることが必要です。12節に「わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」とありました。私たち人間は他の人の目があると、勤勉に働くのですが、人の目が届かないと怠けてしまいやすいものです。ピリピの教会には、パウロがいないということで、信仰がたるんでしまった人たちもいたのでしょうね。そんな人たちに、パウロは、「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください。」と言っています。「従順で」「恐れおののいて」というのは、誰に対してでしょうか。もちろん、主に対してです。自分に従順になることを教えるのでなく、主に対して従順になることを教えるのが本当の指導者です。偉大な指導者であったパウロは、人間の指導者がいようがいまいが、人の目があろうがなかろうが、主に対して従順であり、主を恐れるようにと教えています。神を恐れ、神に思いを向けずして、私たちは救いの達成に向かうことができないからです。

 第三に、神への信頼が必要です。真面目な人が、なかなか信仰の決断ができないでいる理由のひとつは、「信仰を持ったとしても、果たして、最後まで信仰を保つことができるだろうか」という心配があるからだと思います。そんな私たちのために、神は13節のみことばを用意してくださいました。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」救いは神がはじめてくださいました。そして、神は、それを完成させてくださいます。救いの始まりも完成も、神の恵み、神の力によるのです。救いの開始から完成までの期間もまた、神の恵みによって進んでいくのです。私たちが救いの達成を目指して、忠実に、熱心に歩むなら、その途上もまた神の力によって支えられるのです。神が私たちに何かを命じられる時、神はかならずそれを成し遂げる力を与えてくださいます。自分たちの頑張りだけではいつか倒れてしまいます。私たちの主イエス・キリストは、「信仰の創始者であり完成者」(ヘブル12:2)です。このお方を見上げて、救いの道を歩きつづけ、救いの達成に努めようではありませんか。

 (祈り)

 私たちのうちに働きかけて、願いを起させ、かつ実現に至らせてくださる神よ、私たちはあなたに信頼しています。あなたが、私たちのうちにはじめてくださった救いのみわざをかならず完成させてくださると信じます。ですから私たちは救いの達成をめざすことができるのです。あなたの救いのご計画を、私たちに与えられた目的をさらに深く教え、私たちの救いを完成へと導いてください。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストの御名で祈ります。


輝くクリスチャン

ピリピ2:14-18

2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
2:15 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。
2:16 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。
2:17 そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。
2:18 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。

 一、終末の社会

 毎年、日本で、その年の世相をあらわす文字が選ばれます。京都にある日本漢字能力検定協会が、一般公募によって決めるのだそうです。十数年前ぐらいは「夢」という文字が選ばれました。そのころはまだ夢があったんですね。ところが一九九七年は、企業倒産が相次いだため、「倒」という文字が選ばれたそうです。九八年は、なんと「毒」という字が選ばれました。「和歌山のカレー毒物事件」と、その後起こった一連の事件から、この文字が選ばれたのでしょう。九七年、九八年といえばほんの三年前、四年前です。このころから急速に社会不安が増してきたのですね。九九年は、ミレニアムの終わりということで、「末」という文字が、そして去年二〇〇〇年は、社会の混乱が続いたからでしょうか、「乱」という文字が選ばれています。「IT革命」といわれるような華々しい技術の進歩と裏腹に、世の中はどんどん暗い方向に向かっているようです。「世の末に、社会が乱れる。」―昨年、昨年に選ばれた「世相漢字」は、聖書が語っているとおりのことを言っているようです。

 二十一世紀が始まりました。これから世界はどうなっていくのでしょうか。今は、世界が一日で変化してしまう時代です。明日どんな大きな変化が起こるか誰にも分かりません。しかし、確実に分かっているのは、私たちが終末に向かって進んでいるということです。そして、終わりの時には、いままで積もり重なってきた人間の罪が、一挙に噴出し、世の中が乱れるということです。テモテへの第二の手紙三章を開いてみましょう。一節から五節まで、こう書かれています。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

 ここには、経済がどうなるか、政治がどうなるかということは預言されていません。人々の道徳的、宗教的な状態が預言されています。それは、私たちの社会を根底で支えているのは、政治でも、経済でもなく、道徳や宗教だからです。この個所によれば、世の終わりに、人々は「自分を愛する者」になります。「友達が人殺しをした」と告白したのに、それに対して、「それは彼の個人の問題だ。」と答えて知らん顔をしていたバークレーの大学生のことは耳新しい事件です。個人の自由ということが履き違えられて、今ほど人々が自分さえ良ければいいということがまかり通っている時代はありませんね。次は「金を愛する者」です。これは説明の必要がないでしょう。お金のために人々は簡単に罪を犯すのです。お金のためなら、愛するはずの伴侶に毒を盛って殺そうとさえする、そんな恐ろしいことが実際にあるんですね。そこまでいかなくても、相手を自分のために利用するだけということがなんと多いことでしょうか。次に、「大言壮語する者、不遜な者」とあります。現代は「舌先三寸」の時代のようで、言葉巧みな人、自分を見せびらかす人が、立派な人であるかのように思われ、得をしているかのような時代です。しかし、そういう人がいつまでも得をしていられることはできません。いいえ、神の審判の時がやってきます。その時、神は、誠実な者、謙遜な者を高く上げ、口先だけの者、高ぶる者を斥けられると聖書は言っています。

 「神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者」これは、神の権威を認めようとしない人々のことですが、かっては、クリスチャンでない人々も、自然を超えたもの、人間の力以上のものが存在することを認め、真理や権威、神聖なものを尊敬していました。しかし、今は、あからさまに権威を否定し、神聖なものを汚すということが、いたるところで見られます。キリストを表わすシンボルに魚のマークがありますね。それは、ギリシャ語で「魚」ということばのつづりが、「イエス・キリスト、神の子、救い主」という言葉の頭文字になるからです。車の後ろに、魚のマークがあって、その中に「JESUS」と書いてあるのをよくご覧になるでしょう。ところが最近、この魚のマークに手足をつけて、JESUS のかわりに、DARWIN と書いたのをつけている車を見かけます。クリスチャンでない人がクリスチャンの信仰を皮肉り、対抗してくるようになったのです。他にも、映画や演劇、小説などでキリストを世俗化して描いたものも多くあります。そういうものに、私たちクリスチャンは怒りや悲しみを感じますね。

 さて、聖書は終わりの時代の特徴を描いて、「情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者」と続けます。今までは、社会に何らかのブレーキがかかっていました。しかし、終わりの時代には、人々は、ブレーキの利かなくなった車が谷底めがけて突進していくような状態になっていくことでしょう。若者たちの暴走をニュースで聞いたり見たりするたびに「またか」とやりきれない気持ちになってしまいますが、もうすでにこの社会は世の終わりの状態になっているのかもしれません。

 社会の秩序は、法律があるから保たれているとは言えません。法律があり、規則があっても、それを守ろうとする気持ちがなければ、いくらでも抜け道を作っていくのです。社会の秩序は、個々人の「約束を守る」という誠意があってこそ成り立つものです。政治や経済、その他社会の秩序は、個々人の道徳性がその背後にあって、成り立っているのです。Walter Olson という人が "The Excuse Factory" という本を書き、働く気持ちのない人たち、その仕事に不適格な人たちによって、アメリカの経済がだめになっていると言っています。経済の発展も、勤勉に働くという道徳によって支えられているのです。私たちの社会は権力によって強制されて秩序を保っているのでなく、実は道徳によって支えられているのです。私たち人間は権力で強制されれば必ず反抗したくなりますし、権力には腐敗がつきもので、腐敗した権力は、社会を導く力にはなりません。それは共産主義が崩れていったことで明らかです。

 今まで、社会は人の心にある道徳性によって、そして道徳のバックボーンである信仰によって保たれてきました。時代によって、国によって道徳の表現は違ってはいても、また、個人の道徳性のレベルは違っていても、誰もが道徳を重んじ、それによって互いを尊重しあってきました。「不道徳」という言葉がありますが、それは「道徳」という基準があったからこそ生まれた言葉です。しかし、現代は、道徳そのものが否定されつつあり、「不道徳」という概念すらも消えかかっています。終わりに時代には、人間の道徳性が否定されてしまいます。人間から道徳性が失われたなら、人間は人間でなくなり、社会は崩壊してしまうのです。宇宙物理学者として有名なホーキンズ博士は地球の温暖化の速度から割り出して「地球はあと千年で滅びる」と言っていますが、地球が滅びる前に、人間の社会が不道徳によって滅びてしまうでしょう。聖書は、確かに、終わりにそのような暗い時代がやってくると、教えており、私たちはもうすでにその時代に突入しているのです。

 二、クリスチャンの責任

 二十一世紀がそのような時代になっていくとしたら、私たちクリスチャンは、どうあらねばならないのでしょうか。ますます暗くなっていく時代、ますます腐敗していく社会に対して私たちは何をしなければならないのでしょうか。それは、イエスがおっしゃったように、世の光になること、地の塩になることです。世の中が暗くなればなるほど、私たちは真理の光を輝かせ、地の塩として社会の腐敗を押しとどめなければなりません。この時代の混乱、この社会の問題の一原因は、私たちクリスチャンが、世の光としての役割を、地の塩としての働きをしなくなっているところにあるかもしれません。

 今、みなさんに開いていただいているテモテへの第二の手紙三章、四節の終わりから五節にかけて、こう書かれています。「神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」いままでの、「自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者」等々と言われていたのは、クリスチャンも含めた社会一般のことを言っているのでしょうが、「神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になる」というのは、明らかにクリスチャンのことを言っています。神に公然と逆らう人々が、不道徳になっていくのは、当然といえば当然のことかもしれません。しかし、神を信じるクリスチャンまでもが、神よりも快楽を第一にし、見せかけだけの信仰に終わってしまっては、どうして世の光となり、地の塩となることができるでしょうか。

 「神よりも快楽を愛する者」というのは、何も不道徳な快楽に身をゆだねるということだけではないようです。たとえば、教会のさまざまな活動や集会に一所懸命でも、霊的なことをないがしろにし、それによって神に仕えるというよりも、活動そのものにはまり込んでしまうというのも、これに相当するかもしれません。教会の交わりや活動は楽しいものです。しかし、それによって神をよろこばせ、他の人々に奉仕するよりも、自分たちだけがそれによって楽しんで終わってしまうということになってしまわないように気をつけなければなりません。さもないと、私たちは、自分が気分が良い間は教会に来るけれど、自分の気にいらないことがすこしでもあれば、簡単に教会から去ってしまうということになってしまいます。「信心深い様子をしながらその実を捨てる」というのも、厳しい言葉ですね。人々は教会に見かけのきらびやかさを求めてはいません。本物の光を求めているのです。偽ものや見せかけの信仰で人々に光を示すことはできません。それは本物でなければ、人々を主のもとに導くことができないのです。この時代に対する責任を果たすため、この社会で本当に役立つため、私たちは、もう一度、神を第一にする信仰、内実のある信仰に立ち返り、それを育てていこうではありませんか。

 三、みことばの輝き

 さて、今度は、今朝の聖書の個所、ピリピ人への手紙二章十四節に行きましょう。十四節から十六節の始めまでをご一緒にお読みしましょう。「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」

 ご承知のように、使徒パウロがこの手紙を書いた時、パウロはローマの牢屋につながれていました。ある程度の自由はあったものの、やはり、牢屋の石畳は冷たく、毎日その上で寝なければならないのは、つらいことだったでしょう。パウロのいた部屋に窓があったかどうかわかりません。もし、窓があったとしても、牢屋の窓は、囚人が逃げ出さないようにと、高いところにありますので、そこから夜空の星が見えたかどうか分かりませんが、パウロは、この手紙のこの個所を書く時、夜空の星を思いうかべたことでしょう。パウロは時代がどなに暗くなり、社会が乱れても、その後、イエス・キリストがこの世界を一新するために再びおいでになるのだと、彼は堅く信じていました。パウロと同じ信仰を持つ私たちも、時代がどんなに暗くなっても驚きません。夜が更ければ更けるほど、夜明けが近くなるのです。後すこしすれば、「義の太陽」であるキリストが世界を照らす朝がやってくるのです。「夜明け前が一番暗い」と言われます。これから迎える時代がどんなに暗くても、私たちは希望を失いません。空が暗くなればなるほど、星が明るく輝くように、私たちも、時代が暗ければ暗い分だけ明るく輝くのです。

 十五節は、今の時代を「曲った邪悪な時代」と呼んでいます。クリスチャンはこの曲がった時代にまっすぐに生きようとしますから、どこかでぶつかってしまうかもしれません。この邪悪な時代に、正直に生きようとしますから馬鹿を見なければならないかもしれません。しかし、そんな中で、クリスチャンは、「非難されるところのない」者、「純真な」者、「傷のない」者になりたいと願います。責められない、純真な、また傷がないというのは、この世の基準で言っているのではなく、神の前に責められないこと、神の目に純真であること、神から見て傷のないことを意味します。神の子たちが神の子として生きようとする時、人々に神をあかしすることができるのです。人々に神を示すことができるのは、世の人々の生き方に合わせることによってではなく、それに逆らってでも、神の子としての生き方を貫き通すことによってなのです。もし、クリスチャンが神を知らない人とまったく同じ生き方をしていたら、人々はどこに希望の光を見ることができるでしょうか。私たちは、暗い時代の中でも、人々に真理を指し示す星となって輝きたいものです。

 そのためには、「いのちのことばをしっかり握って」いなければなりません。「いのちの言葉」、神のことばが、私たちに輝きを与えるのです。オリンピックの聖火ランナーがトーチをしっかりと握りしめ、それを高くかかげて走っていくように、私たちも神のことばを「堅く持って」いたいものです。では、どうやって、神のことばを保っていることができるでしょうか。私の娘が「お父さん、今日はこんな話を聞いたよ。」と言って、こんなふうに教えてくれました。神のことばをホールドしておくためには、五本の指が必要です。聖書を読むこと、学ぶこと、それを覚えること(暗記すること)、思い巡らすこと(黙想)、そして実行することです。読むだけで終わっていたら、それは一本の指だけで聖書を持とうとするようなもので、とても聖書を持つことはできません。二本の指でも、三本の指でも、聖書をしっかり持っているのは難しいのです。サタンがやってくると、すぐに取られてしまいます。私たちが疲れてしまって落としてしまうこともあります。「読むこと、学ぶこと、それを覚えること(暗記すること)、思い巡らすこと(黙想)、そして実行すること」この五本の指で神のことばをしっかりと保っていたいと思います。特に、「実行すること」は親指のようなものかもしれません。

 「それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」そうです。時代は「曲がった、邪悪なもの」になっていくいくでしょう。しかし、私たちはその中で信仰の純真さを保っていきましょう。「しかし」というより、「だからこそ」より純真でなければならないのです。「いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」これが私たちの、目標であり、使命であるのです。新改訳聖書では「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」と言っています。世の光、地の塩としての使命を果す、輝くクリスチャンとして、二十一世紀を進んで行こうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神様、私たちは、あなたに愛されあなたを愛する方々とともに礼拝につどい、あなたのみことばによって魂が養われ、砕かれ、また導かれてまいりました。恵み深い天の父よ、私たちに、あなたのみことばをさらに堅く握らせてください。時代がどんなに暗くなっても、いいえ、暗くなればなるほど、この時代を明るく照らすことができるようにしてください。私たちひとりびとりを、それぞれの職場で、家庭で、地域でともしびとして用いてください。私たちの光であるイエス・キリストのお名前によって祈ります。


喜びの信仰

ピリピ2:17-18

2:17 たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。
2:18 あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。

 ピリピ人への手紙は、「喜びの手紙」と言われています。ここには「喜び」または「喜ぶ」ということばが繰返し出てくるからです。新改訳聖書で数えてみましたら、なんと13回も「喜」という漢字が出てきました。

 それでは、この手紙を書いた時、パウロには、よほどうれしいことがあったのでしょうか。いいえ、彼は普通の人なら決して喜べないような状況の中にあったのです。クリスチャンになり、イエス・キリストを宣べ伝え、教会を建てあげてきた彼は、同じユダヤ人から妬まれ、危険人物としてローマ皇帝に訴えられ、囚人船に乗せられ、今ローマの牢獄に閉じ込められているのです。しかし、パウロはとても喜べないような状況の中でも、「わたしは喜ぶ」「あなたがたも喜びなさい」と言っています。なぜ、彼はそんなに喜んでいることができたのでしょう。それは彼の心の中に喜びの源があったからです。ローマの権力はパウロの自由を奪ったかもしれませんが、彼の心の中にある喜びは奪うことはできませんでした。パウロの肉体を鎖につなぐことはできても、そのあるれる喜びを押しとどめることはできなかったのです。

 私たちは、そのような喜びを持っているでしょうか。もし、私たちの喜びが環境や状況、あるいは人の言葉や態度に頼って成り立っているとしたら、私たちは、毎日毎日アップダウンを経験しなければならないでしょうね。もしかしたら一時間ごとに、喜んだかと思えば怒り、怒ったかと思えば泣き、泣いたかと思えばで笑うという不安定な日々を送ることになるかも知れません。それをそのまま表面に表わしたら、精神的な病気の人と思われてしまいますから、たいていは、そうした不安定さを内側に押し込めてしまうのですが、それでも心の中は常にジェットコースターのような状態になっているかもしれません。「喜怒哀楽」は人間として普通のことですが、それがあまりにも極端になると、人間らしい喜怒哀楽を失い、ある人は怒りや恨みの中に日を過ごし、ある人は何をしても喜びを感じることのできないデプレションに陥ってしまうことがあります。

 では、どうしたら、私たちは毎日心の中に、深く静かな、消えることのない喜びを持つことができるでしょうか。今朝は三つの喜びの秘訣をお話ししましょう。

 一、自分の価値を知る

 その第一は、自分の価値を知ることです。心理学者たちは、喜びを失った人々を観察し、調査して、その多くは、自分の価値を認められない人たちだと言っています。私は先月から、白百合会で、セルフイメージのお話をはじめましたが、その言葉を使えば、不健全なセルフイメージを持った人、セルフエスティームの低い人ということになります。知的にも、身体的にも、環境的にもずいぶん恵まれているのに、いつも人とくらべて「自分は劣っている」とか「自分は優れている」とか考えている人は、決して喜びを持つことができないのです。神はあなたに「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と語りかけておられます。どの人も神の目には価値のある尊い存在です。「自分には価値がある。」このことが分かれば、たとい回りの状況がどうであっても、誰がどう評価しようと、私たちは神が私をこんなにも素晴らしく造ってくださったということに感謝し、それを喜ぶことができるのです。

 「私たちには価値がある」と言いますが、その価値とはいったいどんなものでしょうか。だいぶ前、ある人が人間の値段というのを計算しました。私たちの体の大部分は水でできています。水は一応ただということにして、次は脂肪ですが、これは石鹸を一個作れるぐらい、あとは釘数本分の鉄分、マッチ数本分のリンがある程度です。人間のからだを元素に還元したらせいぜい何十ドルぐらいにしかならないでしょう。聖書に人は土のチリから造られ、死んでまたチリに帰るとありますが、物質の面から言うなら、人間の体は金銀宝石では出来ていない、ほとんど値打ちの無いものです。しかし、神は私たちに霊を、魂を吹き込んで、人間を考えることが出来るもの、感じることができるもの、進歩や向上を目指して努力することが出来るもの、神を信じ、互いに信じあい、神を愛し、互いに愛し合い、神に仕え、互いに仕えあうことのできるものにしてくださったのです。人間は動物とは違って、魂を持つものとして、神のかたちに造られたのです。ですから、人間の魂の価値は、イエス・キリストの言葉によれば、「全地球よりも重い」のです。

 さらに言えば私たちは、神の御子の命と同じほどの価値があるのです。みなさんが良くご存知のように、神の御子イエス・キリストが十字架の上で死んでくださったのは、神から離れて罪の中に沈んでた私たちを、その罪からきよめて、神のものとして取り戻すためでした。キリストが、私のために命を投げ出してくださったということは、言いかえれば、私が、神の目には、キリストの命と引き換えにしても良いというほどの価値があるということなのです。そして、私にそれだけの価値があるのなら、あなたの隣に座っているあなたの兄弟姉妹も同じように貴い存在なのです。ですから聖書は、「キリストがその人のために死なれたほどの人をつまづかせてはならない」(ローマ14:15)と教えています。

 ある時、私はイエスが両手を広げておられる絵を見ました。その絵にはこんな詩が書いてありました。『「主よ、あなたはどれほど私を愛してくださったのですか」と私が尋ねると、両手を大きく広げて主はこうお答えになった。「子よ、こんなにいっぱいだよ。」そして主はその両手を広げたままで十字架におかかりになった。』美しい詩ですね。良く見ると、その絵のバックグラウンドには、その両手を十字架に釘付けられたイエス・キリストの姿が描かれていました。あなたは神の御子がその両手をいっぱいに広げておられるほどの大きな愛で愛されているのです。神の御子があなたのために、命さえも投げ出してくださった深い愛で愛されているのです。このイエス・キリストの愛を受け入れる時、私たちの心の中に、どんな時も変わらない喜びが湧きあがるようになるのです。

 二、自分の目的を知る

 次に、自分の人生の目的をはっきりと知っている人は、そのことによって喜びを持つことができます。人が見ればうらやむような良い仕事を持っているのに、その仕事が楽しくなくて、いつも不満ばかり言っている人がいたとしたら、その人は、おそらく、自分が何のためにその仕事をしているのか、自分の仕事の目的をつかんでいないからでしょう。何のためにこのことをしているのか分からないほど苦しいことはありません。昔、囚人たちにさまざまな残酷な刑が課せられたものですが、その中のひとつに、「砂運び」というのがありました。大きな砂の山をこちららからあちらへと移すのです。昔のことですから竹のざるか何かで砂をすくって少しづつ運んだのでしょうね。やれやれ終わったかと思うと、今度はもとのところに運びなおせというのです。そして、それがおわるとまたあちらへ。砂運びそのものは、さして厳しい労働ではないのですが、何の目的もなく、砂を運ぶだけという無意味なことの繰返しのために、囚人はまいってしまったそうです。人間は目的のないこと、意味のないことの繰り返しには耐えられないのです。

 こんな話しもあります。何人もの男たちが大きな石にロープをつけて丘の上に引き上げていました。石を滑りやすくするために、石の下に丸太をならべ、少し動かしてはまたそれを並べ替えるというようにして、長い坂道を登っていました。そこにとおりかかった旅人が好奇心から「どうしてこんな大きな石を運んでいるのかね」と聞きました。一人の男が、苦しそうな顔をして、こう言いました。「そんなこと知るもんか。俺は一日何ドルかで雇われただけさ。しかし、こんなにきつい仕事じゃ割にあわないぜ。」ところが、一緒に働いていた別の男は、汗だらけの顔でしたが、白い歯をみせてこう言いました。「だんな、ご存知じゃないんですか。この丘のうえにはね、この町一番の立派な教会が建つんですぜ。これはね、その礎石なんですよ。さあ、もう一がんばりだ。」どちらの男が喜びを持っていたか、そして、一日の仕事に満足できたか、お分かりですね。何のためにこのことをしているのか、目的を知っていた人です。

 スポーツ選手が、苦しい練習を耐えることができるのは、競技に出て賞を得るのだというはっきりとした目的を持っているからです。ゴールが明確だからです。しかし、私たちの人生にはかならずしも、目的や目標の見えてこないものが多くあります。毎日子供の世話で追われ、忙しくしている主婦にとって、自分の人生の目的はこれなのだと確信するのは難しい場合があります。それで、いろいろな習い事をしたり、趣味を楽しんだりするのですが、それによっても、確信を得られないのです。人生の目的というのは、何かをマスターしたり、資格を得たりする以上のものだからです。

 深い意味での人生の目的は、私たちを造ってくださった神のもとに来るまでは分からないのです。アウグスティヌスは「私たちのこころには、造り主である神でしか埋め合わせることおできない空白がある」と言いましたが、その通りですね。私の娘がまだ小さい時のことですが、私は娘の子ためにあるおもちゃを買ってやりました。それはプラスチィックで出来たボールで、三角、四角、丸、星型、十字型の穴があいていて、それぞれの穴から、それぞれの形のブロックをいれて遊ぶものでした。この間、どこかのおもちゃ屋にそれが売っていて、なつかしく思いました。三角の穴には四角のブロックははいりませんし、四角の穴には丸いブロックは入りません。そのように、私たちの心にあるさまざまな空洞は、ある場合はお金によって満たされ、ある場合は友情によってお満たされるでしょうが、私たちの魂の中心にある空洞は、物質によっても、人間的な成功によって満たされないのです。神によってしか満たされないのです。

 イエス・キリストは言われました。「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10)聖書が言う「永遠の命」とは、天国で永遠に過ごすことができるというだけでなく、この地上の人生を目的をもって、そして喜びをもって送ることができるということでもあるのです。イエス・キリストによって魂の中心を、永遠の命で満たしていただく、そうしてはじめて、私たちは本当に満ち足りた喜びの生活を送ることができるのです。その時はじめて、人生の意義と目的を見つけ出すことができるのです。

 三、愛されることと愛すること

 第三に、人生に喜びは、誰かに愛され、誰かを愛することの中にあります。愛のない人には喜びはありません。

 私は時々、牧師として何が一番楽しいですかと聞かれるのですが、それは、なんといっても結婚式です。アメリカに来てからはあまり機会がないのですが、日本では一年のうちに何回も結婚式をしました。私は結婚式の前には、これから結婚するふたりに来てもらって、Pre-marital Counseling をしますが、もうすぐ結婚という二人には何を言ってもニコニコして聞いてくれるので、とてもやりやすいのです。誰かに愛されているということを感じている人はどんな人にでもやさしくなれる、会う人誰にでも親切にしたくなると言われています。

 多くの人は、自分が愛されていないと感じるので、人を愛せない、人を愛せないから人からも愛されないという悪循環の中にいます。この悪循環を断ち切るために、「私は愛されている」ということを、いつも思いみましょう。過去に親から捨てられ、友だちに裏切られるという経験があったとしても、全世界のすべての人があなたを無視し、あなたを嫌っているわけではありません。どこかに、かならず、真心からあなたを愛し、あなたの友となってくれる人がいるのです。たとい世界のすべての人があなたに敵対しても、神はあなたの父となり、イエスはあなたの友となってくださるのです。イエスは十字架の上で両手をいっぱいにひろげて、「わたしはあなたをこんなに愛しているよ」と語りかけていてくださるのです。

 この神の愛を知るとき、私たちは、自然と自分のうちから愛が流れ出るのを体験するのです。愛は分け与えて減るものではありません。むしろ、何倍にも増えていくものです。誰も声をかけてくれない、誰も私の話しを聞いてくれない、誰も分かってくれないとつぶやいていても解決にはなりませんね。自分から誰かに声をかけ、人の話しを聞き、相手の気持ちを分かってあげましょう。そのことによってあなたも人に話を聞いてもらい、気持ちをわかってもらえる、まわりの人から愛されているということを確認することができるのです。愛を受けたいと思うなら、愛を与えましょう。

 先週の牧師リトリートで、しばらくぶりにランチョラコスタ教会の大倉先生に会いました。先生の顔を見ると、かすかですが、傷があったのです。「どうしたの、夫婦喧嘩でもしたの」と誰かが聞くと、先生はほんとうにうれしそうに笑って「うちの息子がね、うれしいとぼくの顔を手でつかむんですよ。まだ一歳なので、手加減できずに、ぼくの顔をひっかいちゃったんですよ」と答えていました。かわいい息子なら、顔の傷も傷とは感じなくなるのですね。私たちも、「人間関係で傷つけられた」と良く言いますが、もし、私たちに真実な愛があれば、その傷も、大倉先生のように喜びになり、誇りになるのです。

 今朝の聖書の個所、ピリピ2:16-18で、パウロは自分の生涯をふりかえって「私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます」(16節)と言っています。パウロは自分が神の目に価値あることを知っていました。自分の生涯がキリストを宣べ伝えるためにあるのだということを知っていました。囚人となって伝道する自由を奪われても、それが彼に与えられた人生の目的を妨げるものでないことを知っていました。神のご計画はかならず実現すると信じていました。そして、パウロは「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます」(17節)と言いきることができるほど人々を愛しました。彼の喜びは、このような信仰から、愛から出てきたのです。パウロは私たちに勧めています。「あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」(18節)信仰から来る喜びに、神を愛し、他を愛することから来る喜びにおひとりびとりが満たされますよう心から祈ります。

 (祈り)

 私たちを限りない愛で愛していてくださる父なる神様。この朝も、あなたが私たちをどんなに大きな愛で愛していてくださるかを教えてくださり、感謝いたします。私たちは、あなたに愛されていることを知っているので、人生に喜びを感じることができます。あなたの愛が変わらない愛ですから、私たちの喜びも消えることはありません。この週も、あなたがくださる愛によって、その愛を信じ受け入れる信仰によって喜びにあふれた日々を送ることができますよう導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。


テモテの働き

ピリピ2:19-24

2:19 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。
2:20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。
2:22 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。
2:23 ですから、私のことがどうなるかがわかりしだい、彼を遣わしたいと望んでいます。
2:24 しかし私自身も近いうちに行けることと、主にあって確信しています。

 聖書には様々な人々が登場します。アダムからはじまって、ノア、アブラハム、モーセ、ヨシュア、サムエル、ダビデなど、旧約聖書にも新約聖書にも個性的な人々が大勢いて、聖書を読むのを楽しくさせてくれます。先月の婦人会では、旧約聖書から、ペルシャの王妃になったエステルのことを学びました。もし「聖書は難しい」と思っていらっしゃる方がありましたら、聖書の人物から学ばれるのが良いでしょう。聖書に登場するひとりひとりの人物の人生を学ぶ時、その人を生かし、助け、導いてこられた神を、救い主イエス・キリストを、きっと発見されることでしょう。

 今朝は、ピリピ人への手紙から、テモテという人のことを学びましょう。

 一、伝道のパートナー

 テモテは、使徒パウロと一緒に伝道した、伝道者のひとりです。パウロの伝道というと、彼ひとりがヨーロッパ中を駆け巡って成し遂げたかのように思われがちですが、そうではなく、それは、はじめからチームワークとしてなされていました。パウロを中心に、シラス、テモテ、ルカなど、大勢の人々がそれぞれの役割を果たして伝道していたのです。テモテは、パウロの「伝道のパートナー」でした。

 聖書で、テモテが最初に登場するのは、使徒行伝16章です。使徒パウロは、最初、バルナバという人と、バルナバのいとこのマルコと一緒に、伝道旅行に出かけました。その伝道旅行によって、アジア地区、今日のトルコのあたりに、多くの教会が建てられました。パウロとバルナバは、エルサレムでの教会会議に出席した後、再び伝道旅行に出かけようとしたのですが、その伝道旅行にマルコを連れていくかどうかで、パウロとバルナバの意見が合いませんでした。マルコは、最初の伝道旅行の時、途中で音を上げて、家に帰ってしまっていたのです。パウロは、マルコを連れていくのを拒否し、バルナバは、マルコにもういちどチャンスを与えるべきだと主張したのです。聖書は、このことで、パウロとバルナバとの間に「激しい議論があった」と記しています。

 ちょっと、主題から離れますが、皆さんは、こういう聖書の箇所をお読みになって、どう思われますか。ある人は、「使徒ともあろうものが、こういうことで喧嘩して、みっともない」と考え、ある人は「パウロやバルナバも私たちと同じ人間、やっぱり争ったり、喧嘩したりして、人間らしくていいじゃない」と思うでしょう。「パウロとバルナバとどちらが正しかったのだろうか」と詮索する人もいるかもしれません。しかし、パウロとバルナバが激論を戦わしたと書かれているのは、現代の私たちのいろんな受け止め方とは別の、大切なことを伝えるためなのです。聖書が言いたいことは、真剣な議論の結果、ふたつの伝道団が出来て、伝道が進展したという事実なのです。もし、パウロがマルコを拒否しなかったら、マルコは以前の失敗を改めないまま終わったかもしれません。人を生かす拒否もあれば、人を駄目にする許容もあるのです。いつでも何でも受け入れるのが愛とは限りません。しかし、バルナバがマルコを受け入れてやらなかったら、マルコは挫折から立ち上がれなかったかもしれません。この場合、パウロとバルナバのどちらが正しかったかというよりは、両方が正しかったのです。そして、パウロとバルナバの二人が、激しい議論になったとしても妥協しないで、それぞれの道を歩んだことが正しかったのです。教会では、批判しあったり、中傷しあったり、互いの人格を傷つけるような議論の仕方をしてはなりません。けれども、どんな問題も「丸く収めれば良い」というわけでもないのです。神の栄光を求めての真剣な議論は、神の栄光につながる結果を生み出すのです。

 ともかくも、パウロはバルナバと分かれて、シラスをパートナーに選びました。しかし、パウロには、マルコのような若い弟子が必要でした。そこで、ルステラの町で、テモテを見つけるのです。テモテの母はユダヤ人で、父はギリシャ人でした。純粋なユダヤ人から見れば、父親がギリシャ人というのは、ハンディキャップと考えられますが、テモテは、祖母ロイスと母ユニケからユダヤ人としての堅い信仰をしっかり受け継いでおり、その地方のユダヤ人社会でも評判の良い人物でした。そして、テモテは、ギリシャ人としての国際的な感覚も身につけていました。彼は、今で言えば、国際結婚をしたバイカルチュアの家庭で育ち、その良い面を自分のものにしていたのです。パウロの一行は、これからヨーロッパ、今のギリシャへの伝道に導かれるのですが、テモテはそれにふさわしい人だったのです。パウロが、当時のヨーロッパ世界のあらゆるところで、様々な人々に伝道することができたのは、テモテのような若い力、二つ以上の文化を身につけた人がいたからだと思います。「伝道」とは人から人へ、キリストが伝えられることですから、伝道が広がっていくためには、新しい人々が伝道の働きに加えられなければならないのです。

 昨年の夏のことですが、ホイッテヤ教会の神村ジョージ君が大学の卒業論文の研究のため、広島に行ってきました。それを機会に彼は日本の若者たちに伝道してくることができました。彼と同じ大学の坂野 豊君もサッカーミショナリーとして、3ヶ月日本に行ってきました。日本にはアメリカにあるようなユース・ミニストリーがありませんので、日本の教会は、若い人には魅力的な場所ではなくなっているのです。アメリカで生まれたヤング二世、また、日本生まれでもほとんどアメリカで育った若い人たちが、日本に行って伝道しますと、すぐ若い人たちに溶け込むことができ、とても良いあかしができます。私たちの身近に、二つの文化を持った、現代のテモテが大勢います。そうした若い人たちのために祈り、サポートしてあげたいものと思います。

 二、真実な子

 次にテモテは、使徒パウロの「子」として紹介されています。パウロには、子どもがいませんでしたから、テモテを養子にしたのでしょうか。そうではないです。当時、本当の親子関係がなくても、年長者は「父」と呼ばれ、年少の者を「子」と呼ぶならわしがありました。けれども、テモテに宛てた手紙の中で、パウロはテモテを通常の意味ではなく、本当の父親のような愛情をもって、彼を「真実のわが子テモテ」と呼んでいます。パウロが「わが子テモテ」とだけ書くのでなく、「真実のわが子テモテ」と書いたのは、「私があなたを『子』と呼ぶのは、年長者としてでなく、私はあなたを本当に、自分の息子と思っているからだ」という気持ちを伝えるためでした。パウロはテモテを自分の本当の息子のように愛し、テモテも、ピリピ2章22節にあるように、「子が父に仕えるようにして」パウロに仕えました。

 だからこそ、パウロはテモテを信頼して自分の代理人として、彼を多くの教会に派遣し、今また、ピリピの教会に彼を送ると言っているのです。自分の代理人として誰かを送る時、皆さんは、どんな人を送りますか?おそらく、自分の考えを一番良く分かってくれている人を送るでしょう。「代理人」というのは、単なる「使い走り」ではないからです。テモテがピリピの教会に、パウロの代理人として遣わされたなら、テモテがピリピの教会に語ることは、パウロがピリピの教会に語るのと同じことになるのです。ですから、パウロは、他の誰でもなく、自分の気持ちを一番良く理解し、ピリピの教会に対して、自分と同じように接することができる、自分の霊的な息子、テモテを派遣したのです。

 日本のことわざに、「親の心、子知らず」とありますが、いつの時代、どこの国でも、子どもというのは、親の心、親の心配が分からずに、好き勝手なことをしがちです。実際の親子であっても、子が親の心をくまなく知ることは難しいのに、テモテは、パウロの心を知っていたというのですから、驚きです。テモテの第二の手紙3:10-11で、パウロは、テモテに対し、「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました」と言っています。テモテは、パウロと共に伝道する中で、パウロの教えをしっかりと学び、パウロがいつ、どんな時に、どんなふうに行動し、計画を立てたかをしっかりと見てきました。テモテはぼんやりと時を過ごしたのでなく、この使徒パウロから良いものをすべて吸収しようとする気持ちでパウロとと共に時を過ごしたのです。他から良いものを学ぼうとする真剣な態度を持った人は、どんな面においても向上し、成熟していくことのできる人です。テモテは、パウロの「信仰、寛容、愛、忍耐」といった目に見えないものさえも、見えるもののようにして学び、習いました。テモテは、迫害や苦難にもひるまず、パウロに従いました。そのようにして、テモテは「パウロの子」となり、パウロの代理人にとして、十分に役に立つものとなることができたのです。

 三、キリストを愛する者

 パウロがテモテをピリピの教会に派遣したのは、テモテがパウロの代理人として、パウロの心を一番良く知っていたからですが、それと共に、ピリピのクリスチャンひとりびとりのことを、深く心にかけていたからでもありました。テモテがパウロのミッショナリー・ティームに加えられたのは、ピリピ伝道の前でしたので、テモテは最初からピリピの町の伝道にかかわっており、ピリピの人々を良く知っていたのです。20節に「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです」とありますが、ここは、口語訳では「テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない」とあります。口語訳の「親身」というのは「親のように」という意味ですね。「親」という漢字は「木の上に立って見る」と書きます。旅立っていく子どもを、その姿が見えなくなるまで見送る、それが親なんだということを、この漢字は表わしています。テモテも、ピリピから遠く離れたローマに来ていても、以前とかわらず、遠くのピリピの教会を覚えて日ごとに祈っていたのです。人々を真実に愛し続けるテモテの姿がよく表われています。パウロは、それほどまでにピリピの人々のことを考えているテモテを、ピリピの教会に送ろうと決心したのです。それによってピリピのクリスチャンは喜び、テモテも喜ぶことができたからです。

 このように、クリスチャンが互いを思いあうことは、麗しいことで、いつでも、誰でもそうあらねばならないのですが、残念ながら、テモテのような心をもつ人は少なかったようです。21節でパウロはこう言っています。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」クリスチャンの生活で、みんなが、神のことや他の人のことは後回しにして、自分のことを求め出したら、いったいどうなるでしょうか。それは、愛のない生活、喜びのない生活になってしまいます。初代教会でさえ、人がみな自分のことを求め、キリスト・イエスのことを求めていなかったとしたら、現代はなおさらでしょうね。教会に集うのが単に社交のため、教会での活動は自分の栄誉のため、クリスチャンであるのが社会的に信用されるためなどという人が、私たちの教会にはいないことは幸いなことですが、それでも、私たちの心の中には、純粋にイエス・キリストを求めてというよりも、自分のための何かがまざりこんでくることがあるのです。私たちは、自分の罪深さをよくわきまえた上で、なお、思いをきよめていただいて、常にイエス・キリストを第一にする者となりたく思います。

 テモテに何の罪もなかったとか、完全であったとかいうことではありませんが、テモテには、ひたすらにイエス・キリストを求める純粋な思いがあったのです。テモテという名前は、日本語では上から読んでも「テモテ」、下から読んでも「テモテ」ですが、そのように、テモテは、上から見ても、下から見ても、まっすぐで純粋なイエス・キリストへの思いを持っていた人であったと思います。

 私は高校生の時に教会に行きましたが、高校生のクラスの教師は大学生でした。そして、高校生の何人かはサンデースクールで小さいこどもを教えたり、日曜日の午後は「農村伝道」といって、農村部にいって、子ども会をしたりしていました。私も大学生になってすぐ、サンデースクールの中学生のクラスを受け持たされたり、今で言えば登校拒否の子どもの家庭教師をしたりしました。その時の訓練は、私の牧師としての働きの基礎になっています。高校生は土曜日の午後も教会に集まっていましたが、私たちはそれを JOY CLUB と呼んでいました。JOY の J は Jesus、O は Others、Y は Yourself だと習いました。Jesus First, Others Second, Yourself Last. その時、私たちは本当の JOY を体験できるのだと教えられました。

 人生では、自分の幸福を第一にしている人は決して幸福にはなれず、他の幸福を求めている人が一番幸福であるという、れっきとした事実があります。何事も自分を中心に考え、自分のためにとあくせくしても、人間の欲望には限りがありませんから、決して自分を満たすことはできません。しかし、自分のことよりも神のことを考え、他の人のことを思い、たとえそれが小さなことであっても、神に喜んでいただくこと、人に喜んでもらうことを心がけていくなら、その人の人生には、あふれる喜びが生まれてくるのです。Jesus First, Others Second, Yourself Last. テモテがそうであったように、私たちも、人々に喜びをもたらすことのできる人生を求めてまいりましょう。

 (祈り)

 父なる神様、私たちも、テモテのように、真実にあなたを愛し、人々を愛し、あなたの働きに役立つような者となりたく願います。主イエス・キリストの恵みにより、ご聖霊のお力により、私たちの信仰と献身を通して、そのことにかなうものとしてください。私たちの主、イエス・キリストの御名で祈ります。


命がけの奉仕

ピリピ2:25-30

2:25 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
2:26 彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
2:27 ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
2:28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
2:29 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。
2:30 なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。

 一、エパフロデトへの呼び名

 先週は、テモテについて学びました。テモテは、パウロの伝道のパートナーであり、パウロから「真実なわが子テモテ」と呼ばれたほどの人でした。そしてテモテは、真実に、また純粋にイエス・キリストを愛する人であり、キリストの愛をもって人々を愛する人でした。

 今日の箇所には、もうひとりの人、エパフロデトのことが書かれています。「エパフロデト」、ちょっと言いにくい名前ですし、彼はテモテほど知られてはいません。しかしパウロは、エパフロデトを「私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人」と呼んでいます。エパフロデトはいくつの名前で呼ばれているでしょうか。まず、「兄弟」、それから「同労者」、そして「戦友」、さらに「使者」と呼ばれています。「仕えてくれた人」というのもカウントすれば、五つの呼び名で呼ばれていることになります。エパフロデトは、有名な人ではありませんでした。パウロやテモテのような大きな働きをした人でもありませんでした。しかし、彼が五つの呼び名で呼ばれているということは、たとえ、彼が人には知られていなくても、神には知られ、その名前が覚えられていた人だったということを示しています。

 多くの人は、有名になること、人々に自分の名前が覚えられることを求めています。しかし、人々の間でどんなに有名になっても、神にその名が覚えられていなかったら、それは惨めではありませんか。天国では、この世の地位や名誉、財産や肩書きなどは通用しませんね。ビバリー・シェーは、誉れや財産や人気の一切を手に入れましたが、彼のこころは満たされませんでした。しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって、彼は、本当の喜びと平安を手にしたのです。そして、彼は「キリストにはかえられません」という歌をつくりました。「キリストにはかえられません。世の宝もまた富も。このお方が私に代わって死んだゆえです。キリストにはかえられません。有名な人になることも。人の誉める言葉も。このこころをひきません。」ビバリー・シェーがビリー・グラハムのクルセードで心から歌う時、人にでなく、神に名前が覚えられていることがどんなに素晴らしいことかがわかり、多くの聴衆がその歌に心打たれるのです。

 ビリー・グラハムが最初に日本に来た時、彼は日本の牧師たちにこう言いました。「この大会ではいたるところに私の写真と名前が使われていますが、天国では、私の名前など小さくしか掲げられていないでしょう。天国ではむしろ、人に知られなくても、伝道のために労苦しておられる先生方の名前が大きく掲げられていることでしょう。」私たちにとって大切なのは、有名になるかならなかいか、人に知られるか知られないかではなく、神に覚えていただけるかどうかなのです。そして、私たちが、神の前に真実であるなら、神は私たちの名を覚えていてくださるのです。ヨハネの黙示録でキリストは、約束してくださっています。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」(黙示録3:5)天国が実現する時、私たちひとりびとりの名が呼ばれ、私たちは天国に招き入れられるのです。聖歌「世のおわりのラッパなりわたる時」という聖歌がありますが、それは「その時、わが名も、呼ばれなば、かならずあらん」と歌っています。私たちは、その日、その時を目指し、キリストの約束を覚えて、神の前に歩みたく思います。

 二、使者としてのエパフロデト

 さて、エパフロデトは五つの呼び名で呼ばれていましたが、そのひとつは「使者」でした。ここで「使者」と訳されている言葉は、実は「使徒」と同じ言葉です。「使徒」という言葉は、もともとは「使わされた者」という意味で、聖書では「キリストに遣わされた者」ということで、十二弟子と、パウロが「使徒」と呼ばれました。「使徒」という言葉は、初代教会全体の指導者として、特別な権限を与えられた人たちを指す時に使われました。しかし、パウロはここで、あえてエパフロデトに「使徒」という言葉を使っています。それは、エパフロデトもまた神から遣わされた人、キリストの使者だということを言いたかったからでした。

 ご存知のように、パウロは、ピリピ人への手紙を書いている時、ローマで牢屋にいました。パウロが伝道している時は、パウロをサポートする人も多かったのですが、囚人となって自由を奪われ、伝道できないパウロを支援する人は徐々に減ってきました。パウロは、囚人になっても、自分を訪ねてくる人々に伝道し、自分のかわりにテモテや他の弟子たちを各地に遣わし、獄中で手紙を書き諸教会に指示を与えたのです。彼の独房はまるで、パウロ伝道団のオフイスのようであったと思います。パウロには伝道活動のためのさまざまな必要がありました。そんな時、最初から忠実にパウロをサポートしてきたピリピ教会からエパフロデトが派遣されてきたのです。エパフロデトの役割は、パウロに支援物資を届けるため、しばらくローマに留まってパウロの身の回りの世話をするためでした。ちょうどテモテがパウロの代理人としてピリピに派遣されたように、エパフロデトも、ピリピ教会の代表として獄中のパウロのもとに遣わされたのです。

 実は、私たちも、エパフロデトのように、キリストの使者、教会の代表としての役割を与えられているのです。あなたのまわりの人々は、そんなに多くのクリスチャンに触れてはいません。人々にとって、あなたがたったひとりのクリスチャンかもしれません。人々はあなたを見て「クリスチャンってこういう人か」、「サンタクララ教会ってそんなところなのか」と判断してしまうのです。よく、「クリスチャンのくせに」ということを耳にしますね。中には御かど違いの非難もあって困ってしまうこともありますが、人々は、私やあなたを見て、キリスト教全体についての意見を持ってしまうのです。あなたが、家族、親族の中でたったひとりクリスチャンであれば、まわりの人々はあなたを基準に判断するしかありません。そのような意味で、私たちは、私たちが出会う人々に対して、キリストの使者、教会の使者なのです。

 また、教会に初めておいでなった方が、あなたに出会う時、あなたはその人にとって教会の代表となるのです。ある方が、教会のことでひとりのメンバーに問い合わせたら「私は一信徒にすぎませんから…」と何の答えももらえなかった、分からなかったら、他の人に聞いてきてくださるか、分かる人を紹介してもらいたかったと、残念そうに話してくださったことがあります。初めて教会に来た人が誰が牧師で、役員で、古くからの信徒だということは知るはずもありませんから、私たちひとりびとりが、教会のメンバーであることに誇りを持ち、責任を持ち、新しい方々に接したいと思います。私たちお互いが、エバフロデトと同じように、「キリストの使者」「教会の使者」なのです。教会を代表するというのはとても名誉なことですが、同時に、とても責任の重いものです。しばしば、あまりに責任を感じすぎて疲れてしまうこともありますが、だからこそ、いつも神の助けをいただきながら、その責任を果たさせていただきましょう。肩肘を張って裃を着てでなく、もっと自由に、喜びのうちにキリストの使者、教会の使者として働かせていただきましょう。

 三、戦友としてのエパフロデト

 次に、エパフロデトは「戦友」と呼ばれています。ここで「戦友」というのはどういう意味でしょうか。聖書では、伝道を戦争にたとえています。それは、悪魔の手から人々を救い出す戦いなのです。そして、この戦いを戦い抜くために必要なのは、心を合わせて戦う、キリストの兵士たちです。みなさんの中にも戦争に従事された方がおありでしょうか。戦争は命がけのものですね。パウロ自身、伝道していく中でいろいろな危険に遭い、迫害に遭い、命の危険を感じたことが何度もありました。伝道は戦争と同じように命がけのものだったのです。パウロがエパフロデトを「戦友」と呼んだのは、エパフロデトもまた、伝道の働きのために命がけで奉仕したからでした。

 エパフロデトはピリピ教会の使者としてパウロのもとにやってきました。エパフロデトは、救援物資を届けるだけでなく、パウロの身のまわりの世話をするため、おそらく、パウロと同じ獄中で寝起きを共にしたのでしょう。ピリピからローマへの長旅、慣れない土地での生活がたたったのでしょうか、エパフロデトは病気になってしまいます。最初は、軽い病気と考えていたのでしょうが、みるみる悪くなり、生死の境をさまよう重態になってしまいました。もちろん、パウロも、ローマの教会のメンバーも懸命に祈りました。神は、エパフロデトをあわれんで、死の淵から救い出してくださいました。今も、重い病気の人のためみんなが心を合わせて祈り、その祈りが聞かれて、その人が回復したら、教会の中にどんなに大きな喜びが湧き上がるでしょうか。この時のパウロやローマの教会の喜びが伝わってくるようですね。エパフロデトが病気になったということは、当然、ピリピの教会の人々の知るところとなり、ピリピの教会はエパフロデトのことで大変心配したことでしょう。それで、パウロは、彼の病気がよくなったので、すぐにピリピに送りかえすことにしたのです。幸いにもテモテがピリピまでエパフロデトと一緒に行きますので、病気から回復したばかりのエパフロデトも安心して旅行ができることでしょう。

 パウロはこのエパフロデトの奉仕について「なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです」(30節)と言っています。エパフロデトもテモテと同じ心で主に仕えていたことが分かりますね。彼は自分のことよりもイエス・キリストを第一にする人、自分のことよりも、相手を気遣うことのできる人でした。それは、26節からも分かります。「彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。」エパフロデトは自分が病気になった時、自分が病気になったことでみんなに迷惑をかけたのではないか、せっかくローマに来たのに何の役にもたたなかったではないかと考え心苦しく思っていたのです。彼は、瀕死の病気になってもなお、自分のことよりも、まわりの人々のことを心配していました。私たちは、とかく「だれも私のことを心配してくれなかった」と考えがちです。年を取ると「かまってくれない」「分かってくれない」など、「くれない」「くれない」ということばが増えるそうです。これを「くれないの度合い」「くれない度」というのだそうです。私たちの「くれない度」はどれだけでしょうか。「くれない」「くれない」で真っ赤に染まらないようにしたいですね。

 エパフロデトは確かに、ローマでは病気のため、期待していた仕事はできませんでした。けれどもパウロは、彼を「同労者」と呼んでいます。神のための働きはその人がした仕事の分量だけで量れるものではないのです。たとえ、エパフロデトが何もできなかったとしても、彼の主に対する思い、その信仰、献身は、多くの人々に感化を与え、神の目には偉大な奉仕をしたのです。神が私たちを見ていてくださる、そのことを覚えながら、神の目に喜ばれる奉仕をささげてまいりましょう。

 (祈り)

 父なる神様、私たちを「兄弟、同労者、戦友、使者」また「奉仕者」と呼んでいてくださることをありがとうございます。私たちはそう呼ばれるにふさわしくない者ですが、あなたのお力をいただいて、少しでも、あなたの使者にふさわしい者とさせていただきたく願っています。このことは自分の力ではできません。また、ひとりでもできません。あなたの助けをいただき、共に助け合って、あなたの良き奉仕者となり、お互いに兄弟、同労者、戦友となることができますように、お導きください。主イエスの御名で祈ります。

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