ピリピ人への手紙からのメッセージ

このページには、2000年9月から2001年7月まで、サンタクララ教会の礼拝でお話ししたピリピ人への手紙からのメッセージをそのまま載せてあります。皆さんのコメントをお待ちします。

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ピリピ人への手紙第三章


人は正しくなれるか

ピリピ3:1-9

3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
3:2 どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。
3:3 神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

 あるミーティングでピリピ人への手紙をみんなで読んだのですが、その後「どこか心に留まったところがありましたか?」と質問しましたら、「3章2節の『犬に気をつけてください』というところです」という返事が返ってきました。実は、その時、ある人が友人を訪ねてその家のドアを開けたとたん、その家の飼い犬が訪問者の喉下に噛み付いてその人が死んでしまったという事件があったばかりだったのです。この事件はアクシデントではなく、人間に危害を加えるように犬を訓練していたのではないかということでその後も話題になりました。そんなわけで、そのミーティングでは、「犬に気をつけてください」という言葉に、みんなの目がとまったのです。

 ピリピ3:2で言われている「犬」というのは、本当の犬ではなく「犬のような人」という意味です。「犬は人間の最良の友」と言われ、今でもヨーロッパでは犬が家族の一員のようにして大切にされています。また、「犬は三日飼うと飼い主の恩を忘れない」とも言われ、犬は「忠実で」「賢い」動物だとされています。しかし、聖書のバックグラウンドになっているユダヤの文化では、犬も迷惑だったし、愛犬家からはお叱りをうけそうですが、「犬」という言葉は「神を信じない不道徳な人々」という意味で、ユダヤの人々がユダヤ人以外の人々、つまり「異邦人」を軽蔑する時に使ったことばだったのです。

 一、ユダヤ主義とパウロ

 ところが、ここで、パウロが「犬」と呼んでいるのは、異邦人のことではなく、ある種のユダヤ人のことなのです。2節に「悪い働き人に気をつけてください」とあるように、この人たちは、教会の中に、キリストの教えを持たないで伝道者、教師として入り込んできた人たちでした。この人たちはパウロが伝道した教会に後から入ってきて「あなたがたもユダヤ人と同じように割礼を受け、ユダヤの戒律を守らなければ救われない」と教えはじめたのです。これは、イエス・キリストの教えを否定する重大事ですので、パウロはユダヤ人が異邦人を「犬」と呼んでいた時代に、ユダヤ人を犬と呼び、間違った教えによってクリスチャンから救いの喜びを奪い去ろうとする人々を警戒するように教えたのです。

 「ユダヤ人のようにならなければ救われない」と言う人たちは「ユダヤ主義者」とか「律法主義者」と呼ばれました。「イエス・キリストはユダヤ人として生まれ、ユダヤの戒律を守られた。だからクリスチャンもユダヤの戒律(律法)を守るべきである、そうでないと、神の前に『義』(正しさ)を持つことは出来ない」というのが彼らの主張でした。異邦人のクリスチャンは、ユダヤから「偉い」先生が来て、言葉巧みに説得されると、案外簡単に「納得」してしまって、やがて、パウロの伝えた本来の教えから離れていったのです。

 パウロが伝えた福音のメッセージは、彼らの教えとは違っていました。「どこの国の誰であっても、イエス・キリストを信じる信仰によって、そのままで救われる。」これが福音のメッセージです。別のことばで言い換えれば、「救われるためにユダヤ人のようになる必要がないばかりが、良い人間になる必要もない。あるがままでイエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われて良い人間になれる。ユダヤの戒律を守る必要も、儀式を行ったり、修業を積んだりする必要もない。自分の努力をあきらめてイエス・キリストに信頼しなさい。そうすれば、あなたは神のことばに従う生活ができるようになる」とでも言うことが出来ます。これがパウロの伝えた福音だったのです。

 パウロは、パウロの後から違った教えを教会に持ち込んできた「ユダヤ主義者」とたえず戦わなければなりませんでした。パウロの手紙にはどれも、この「ユダヤ主義者」との論争の跡を見ることができます。しかし、「パウロとユダヤ主義者との論争」というと、大学の哲学部の講義のようなタイトルで、現代の私たちに一体どう関係があるのかと思われることでしょう。この議論は、遠い昔の話のようでいて、実は、私たちに深い関係があるのです。

 二、ユダヤ主義の誤り

 第一に、遠い昔のユダヤ主義者も現代の私たちも、目に見えない信仰を目に見える儀式や戒律におきかえるという過ちを犯しています。「信仰」というギリシャ語は「真実」とも訳せます。神が私たちに真実であるから、私たちも神に対して真実である、それが「信仰」なのです。信仰というのは、人間の内面の最も深い部分にかかわることです。しかし、私たちの多くは、内面の真実を追究するのを面倒なこととし、避けて通ろうとします。。儀式や戒律は一見、窮屈そうに見えますが、それが習慣になってしまったら、さして苦労はなくなりますから、内面の信仰を問うよりも、外面の儀式を守り、戒律を守ればそれで良い、人々はそう考えるようになったのです。現代でも、真実に人を愛する愛を養うよりも、どうやったら人を喜ばせることを語ることができるかというテクニックだけがもてはやされています。

 今、多くのクリスチャンは、四十日間のレントの期間を守っています。この期間、人々は禁酒禁煙をし、慎ましやかな食事をし、禁欲的に生活しようとします。それ自体は悪いことではありませんが、そうしている人々のうち多くは、何のためにそうするのかを忘れてしまっています。イエス・キリストの十字架の意味を深く想い見、十字架の力、恵みを自分の中に受け入れるというのが、本来のレントの過ごし方です。しかし、そういう内面的なことよりも、肉を食べないとか、コーヒーを飲まないとかいうことのほうが簡単なので、人々はそこに流れていくのです。

 イエス・キリストへの心からの信仰なしに救いはありません。教会に来ることは必要なこと、良いことです。神の働きのために奉仕をしたり、献金することも良いことです。聖書を学ぶことも必要なこと、良いことです。しかし、いくら長年教会に通い、聖書の知識をたくさん蓄えたからといっても、それが人を救うのではありません。イエス・キリストの真実に真実をもってこたえていく、内面の信仰が、私たちには求められているのです。

 第二に、ユダヤ主義も、現代人も人間の「プライド」が最大の関心事で、それを持ち上げようとします。聖書は「人間は罪人で自分の救いのために何一つできない。私たちは、ただキリストの恵みにより頼まなければならない」と教えていますが、こうした教えは、人間のプライドに反するものであり、人々が喜んで受け入れるものではありません。それで、ユダヤ主義者は「人間は神に主張することのできる善があり義がある。私たちは、自分の救いのために何かができるのだ」と言って、人間のプライドに訴えたのです。異邦人がユダヤの儀式を守り、戒律を守るというのは、「自分は、何か特別な者になったのだ、このことによって神の前に特権を持ったのだ」という気分にさせます。現代の私たちも、「人間は、本来善なのだ。その善を延ばしていけば、神のようにだってなれるのだ」と教育され、そう考えてきました。

 しかし、本当にそうでしょうか。「人間は進化して神になる」どころか、動物のようになってきてはいませんか。動物でも子どもを守るために命がけで他の動物と戦います。なのに、人間の親は平気で子どもを殺すような時代になってきました。動物の世界は「弱肉強食」といわれますが、強い動物でも、えさにする以外はむやみと弱い動物を襲いません。ところが人間は、自分たちの欲望のために戦争を繰り返してきたではありませんか。私たちの救いのために必要なのは、偽りの「誇り、プライド」を捨て去り、もっと正直に自分を見つめ、謙虚になることなのです。

 三、ユダヤ主義とキリストの救い

 パウロがユダヤ主義者に反対したのは、パウロがユダヤ人として彼らに劣るところがあって、引け目を感じていたからでしょうか。そうではありません。パウロは「私はユダヤ主義者よりも、もっと生粋のユダヤ人だ」と言っています。ピリピ人への手紙3:4から読んでみましょう。「ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」この個所の詳しい説明は省きますが、パウロが由緒正しいユダヤ人で、ユダヤの戒律を守ることにかけてはユダヤ主義者はその足元にもおよばないということが言われているのが分かりますね。パウロから見れば、クリスチャンにユダヤの戒律を守らせようとしている人々などは、中途半端な律法主義者でしかなかったのです。

 だいたい、知識でもお金でもわずかばかり持っている人はそれをひけらかしたがるもので、本当に豊かに持っている人の方がむしろ、知識の限界や富のむなしさを感じているものです。パウロは、ユダヤ人としての特権を生まれながらに持っていた人でしたが、そうした民族としての特権が人を救うのではない、神の前には、誇るもの、自分は正しいと主張できるものは何もないということを、彼は痛いほどに知っていたのです。

 パウロのように律法をとことん守ろうと必死の努力をした人は、人間の努力や行いもまた、人を正しい者とするものではない、人を救いに導くものではないということが良く分かるのです。私たちがどんなに努力して戒律を守ったとしても、それが私たちを正しくするものではないことは、聖書にはっきりと書いてあり、神を求めた人々の体験もそれをあかししています。

 宗教改革者マルチン・ルターは、最も厳しい修道会、アウグスティヌス会に入って、学問的にも宗教的にも最高のものに到達するのですが、彼は、神に近づけば近づくほど、自分が醜く汚いものであることに悩むようになりました。そして、ついに人が神の前に正しいものとされるのは、断じて行いによってではない、信仰によってだという聖書の真理を再発見したのです。

 北海道の塩狩峠というところで、列車事故が起こり、一人の鉄道員が自分の体を投げ出して暴走した列車を止めたという話は、皆さん、よくご存知ですね。明治時代にあったこの出来事は、三浦綾子さんによって『塩狩峠』という小説になり、それは映画にもなりました。小説では、この人は長野信夫という名前で呼ばれています。彼は「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」という神のことばを聞いた時、最初は、「自分は善良で、そんなことぐらいは出来る」と考えていたのですが、自分を苦しめる同僚に対して悪意をつのらせていく自分を発見し、ついには自分の力では神のことばを守りきれないのだということが分かるようになりました。そして、そのような自分を救ってくれるのがイエス・キリストであることを知り信じるようになったのです。長野信夫は、キリストが命を投げ出して自分を救ってくれた、その愛を知るものになりました。だからこそ、彼もまた、多くの乗客のために自分の命までも差し出すことができたのです。

 パウロもまた、イエス・キリストに出会うまでは、自分の正しさを強く主張して生きてきました。彼は誰にもひけをとらないユダヤ人としての、人間としての「誇り」を持っていました。しかし、彼は、その「正しさ」によって人々を迫害し、その「誇り」によってキリストに逆らってきたのです。彼の「正しさ」や「誇り」は、人間の間で通用しても、神には通用しませんでした。彼の生まれつきの特権やその後の努力などは、キリストの救いに比べれば、誇りでもなんでもない、「ちりあくた」のようなもの、価値のないものでしかありませんでした。彼はこう言っています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(3:7-9)「キリストを信じる信仰による義」これこそが神から、私たちへの宝の贈り物であり、私たちは、キリストを信じることによって、はじめて神の前に正しいものとされるのです。

 人々はもっとお金を得ようとあくせくしています。知識を得ようと必死になっています。あるいは、自分を高めよう、より良い人間になろうと努力しています。しかし、私たちはそうした努力によって、神に受け入れられるのではありません。聖書は、私たちが今まで考えていたのと全く違った方法で人は正しいものとされ、救われると教えています。プライドを捨て、内面の信仰を求めていくことによって、キリストの救いを見出されますよう、心から祈ります。

 (祈り)

 父なる神様、私たちの生まれつきの性格や能力、また努力や行いによってではなく、イエス・キリストがくださる義によって、私たちはあなたの前に正しいものとされ、救いをいただくことができます。私たちは、そのことを受け入れようとせず、あなたの目からみれば「ちりあくた」にすぎないものにしがみついてきました。今朝、あなたが、イエス・キリストによって私たちに与えてくださるものが、どんなに大きな宝であるかを教えてくださり感謝いたします。私たちにへりくだりと真実を与え、あなたのくださる宝を受け入れ、それを喜ぶものとさせてください。私たちの主イエス・キリストのお名前で祈ります。


人はきよくなれるか

ピリピ3:10-16

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

 人間には何事においても、今よりももっと良いものを手に入れたいという願いがあります。もっと早く、もっと遠くへ行ける乗り物を求めて、飛行機が作られ、改良に改良が重ねられて、今日のように、何百人という人を一度に太平洋、大西洋を超えで運ぶことができるようになりました。もっとも、大勢の人を詰め込むためにエコノミークラスでは日本の列車の座席よりも狭くなり「エコノミークラス症候群」などと言った病気までが起こるようになったのは問題ではありますが…。もっと便利に、もっと快適にという人間の願望が科学技術を進歩させてきたのですが、人の心にはそれだけでは満たされないものがあります。自分をもっと向上させたい、自分の内面を変えたいという願いがあるのです。特にクリスチャンには、もっと正しくありたい、きよくありたいという願いがあります。今朝の聖書の箇所には使徒パウロが、一心に、きよくあること、「きよめ」を追い求めている姿が描かれています。

 現代では、「豊かになること」「美しくなること」「強くなること」などは追い求められても、「きよくなること」はほとんど追求されません。「きよい」からといってそれで得をするわけではない、損をするばかりだと思われているからです。しかし、きよくあることには、この地上でも、天でも大きな報いがあるのです。今朝は、きよくなるとは一体どういうことなのか、人はきよくなることができるのか、できるとしたら、どのようにしてか。そんなことをご一緒に考えてみましょう。

 一、きよめとは

 きよくあること、「きよめ」とは何でしょうか。10節と11節を読みましょう。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」ここで「死者の中からの復活」と言われていますが、ふつう、「死者の中からの復活」というと私たちが世の終わりに復活することを意味します。しかし、ここでは、そのことではなさそうですね。私たちが世の終わりに復活するのは、キリストの再臨の力によるのであって、キリストを信じる者にはそのことはすでに約束されているのです。パウロがここで「どうにかして」と言っているように、人間の願望や努力によって達成できるものではないからです。ですから、パウロがここで言っているのは、世の終わりの復活のことでなく、今、この地上で、キリストの復活の力を体験したいということです。パウロは今までもキリストのいのちによって生かされてきましたが、もっと豊かにキリストのいのちにあずかりたちと願っているのです。

 パウロは今、牢獄にとらわれています。いわれのない罪を着せられ、苦しみを受けています。しかし、パウロは自分の身の不幸を嘆くことなく、その機会を、より自分をキリストに近づける時として用いました。パウロは、おそらく、このように考えたことでしょう。「キリストが自分のために十字架の上で味わってくださった苦しみに比べれば、私の苦しみなどは小さなものに過ぎない。けれども、キリストのために苦しむことによって、もっとキリストに近づきたい。キリストに近づいて、キリストとひとつになり、キリストの復活の命によって生かされたい。私が生きるというのでなく、キリストが私のうちに生きてくださるように。」パウロはかってガラテヤの教会に宛てた手紙にこう書きました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

 パウロにとって、きよくあること、「きよめ」とは、キリストが彼のうちに生きていてくださるということだったのです。私たちは「きよめ」というと、自分をささげてキリストのために生きること、私たちがキリストのように変えられることなどということを思いうかべますし、確かに聖書には「きよめ」をそのようなものとして描いています。しかし、パウロは、ここではさらに一歩進んで、彼の目を自分からキリストへと移します。「きよめ」は自分が何者かになることではなく、むしろ、自分は徹底してキリストのしもべとなり、器となり、自分の生涯に、自分の人生にキリストが生きてくださることだと、パウロは言っているのです。ピリピ1:20-21でパウロはすでにこう言っていました。「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」この言葉はガラテヤ2:20につながっていますね。「きよめ」とは何か。一言で言えば、「私の身によって、キリストのすばらしさが現されること」、あるいは「生きることはキリスト」と言うことができるでしょう。

 二、きよめの道

 では、私たちはどのようにしてこのゴールに到達することができるのでしょうか。それは、そのことを生涯かけて追い求めていくことによってです。パウロは、きよめへの道をスポーツに、とくにマラソンのような長距離競技にたとえています。13節と14節でこう言っています。「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」「きよめ」を求めることにおいては終わりはないのです。それは生涯かけて追求するものです。たまに「私はもうきよめられた。もうきよめを求める必要はない」と言う人がいてびっくりするのですが、パウロのような深い信仰を持った人でさえ、「私はまだ得ていない。完全ではない。まだ捕らえてはいない。追い求めているのだ」と言っているのですから、私たちはなおのことゴールを目指して、前のめりになって走らなければなりません。

 パウロは「うしろのものを忘れ」と言っています。それは、5節から7節で言われていたことを思い起こさせます。 こう書いてありました。「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」ここで「得」と訳されている言葉は複数形ですが「損」と訳されている言葉は単数形です。パウロには数え上げればさまざまな特権や誇りがありました。しかし彼はそれらのものを一まとめにして「損」だと言っているのです。それらは「うしろのもの」となったのです。

 私は、この「うしろのもの」の中には、パウロが今まで成し遂げてきた伝道活動や、キリストのために受けてきた苦しみも含まれていただろうと思います。パウロのような大きな業績を残した人物は後にも先にもいません。なのに、彼は自分の業績のために「記念碑」を建てるようなことをせず、そこからさらに前進します。今はその分野で何の成果もあげていないのに、過去の業績だけで、あたかもその分野の第一人者であるかのように振舞っている人たちもいますが、パウロはそんな人ではありませんでした。パウロは自分の業績も「うしろのもの」にしてしまって、さらに前に向かって進むのです。

 私たちにも「うしろのもの」がありませんか。過去の罪を引きずっていませんか。まだ癒されていない心の傷はないでしょうか。いつまでも過去の失敗にこだわっていないでしょうか。ヘブル12:1に「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか」とあるように、そうしたものを「うしろ」に置き、「ひたむきに前に向かって」進もうではありませんか。私たちはまた、「きよめられた」という過去の体験だけに安住したり、「私は教会で役員までした人間だ」という誇りにこだわったりしないで、そういったものも「うしろ」に置きましょう。本当のスポーツマンは、一度レースで一位になったからといってそれで競技に出なくなるわけではありません。何度でも同じレースにチャレンジして、記録を塗り替えようとします。そのようにパウロは、日々、新しい気持ちで、神の栄冠を求めて走りなおしました。私たちも彼のようでありたいですね。「前のものに向かって、神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に」走ること、これが「きよめ」の道です。

 三、きよめの出発点

 「きよめ」のゴールは何か、「きよめ」の道は何かを、最初にお話してしまいましたが、では、「きよめ」の出発点はどこにあるのでしょうか。16節に「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」とありますが、この「基準」というのがスタートラインにあたると思います。

 この個所は、クリスチャンの成長の度合いはみな違うのだから、それぞれ自分の基準で歩めば良いというふうに受け取られやすいところです。確かに神は、キリストを信じたばかりの人に、長年クリスチャンとして歩んできた人に要求されるのと同じことを要求されはしません。クリスチャンになったばかりの人はまだ霊的には赤ん坊です。私たちは他の人を見て「あの人のようにできないから」と考えるのでなく、自分自身の歩みを一歩一歩踏みしめて前進しなければなりません。しかし、すべてのクリスチャンは、生まれたてのクリスチャンであろうと、長年のクリスチャンであろうと、共通した「基準」に立たなければなりません。「すでに達している基準」というのは、おのおののクリスチャンの成長の度合いを言っているのでなく、すべてのクリスチャンが立たなければならない信仰の土台、教えの基準という意味です。

 15節でも「ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます」と、みなが同じ土台に立つように教えられています。「成人である者」とはクリスチャンのことです。この章でパウロは、キリストの教えを持たない人々に警戒するように言っていました。その人たちは、自分たちこそ、完全な者、成熟した者、つまり「おとな」、「成人」だと主張していました。それに対して、パウロは、本当のクリスチャンこそ「おとな」「成人」であると言っているのです。成熟したクリスチャンは、ユダヤ主義や律法主義という幼稚な教えに逆戻りすべきではないのです。「神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます」と言うのは、神がその過ちを示してくださるという、やや強い言葉です。間違った教えからは間違った生活が出てきます。私たちの生活は心の中にあるものを反映するのです。カルト集団の教えを信じる人の生活は狂ったものになってしまいます。正しい生活を求めるなら、正しい教えに立たなければなりません。

 では、私たちにとっての「きよめ」の出発点は具体的には何なのでしょう。それは12節の中に示されています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」パウロは「私がキリストを捕らえようするのはキリストが私を捕らえていてくださるからだ」と言っています。「クリスチャン」という言葉は直訳すれば「キリストの者」という意味です。キリストに捕らえられている者、キリストの手の中にある者、キリストにある者、キリストとの命のつながりを持っている者という意味です。「きよめ」られるためには、まず、悔い改めと信仰によってイエス・キリストを信じ、救われていなければなりません。そして、いつでも、自分はキリストのものなのだ、キリストにあるものなのだ、キリストの手の中にあるのだということを確認し、確信していなければなりません。そうでないと、「きよめ」を得ようと懸命に努力しても、それはつかんだと思ったら逃げていき、どんなにしても手の届かないものとなってしまいます。キリストを離れて、自分の力で「きよめ」を捕らえようとしても失敗と失望しかありません。

 こんな場面を想像してみてください。小さな子供が木になっている果物を指さして「あれが欲しい」と言います。それを取ろうと手を伸ばしますが、到底届きません。そこで、父親が来て、子供を抱いてやります。すると、子供は、大人の背の高さまで達して、果物を取ることができるのです。私たちも、キリストの手に抱かれた子供のように、キリストの手の中にある時、はじめて、手を伸ばして望むものを手にすることができるのです。

 「キリストにある」ということから「きよめ」への道を始めましょう。これが私たち一同が立たなければならない「基準」です。「基準として、歩む」という表現は、人々が列を組んで整然と行進する様子をさしています。キリストにある者、クリスチャンが同じ基準で、同じ思いで、同じ目標に向かっていく、そんな私たちでありたく思います。キリストは、個々人の「きよめ」とともに、ご自分の花嫁である教会全体の「きよめ」を強く願っておられるのです。

 「人はきよくなれるか。」その答えは「キリストにあって」なのです。

 (祈り)

 父なる神様、あなたはイエス・キリストの救いによって、私たちの罪を赦されたばかりか、私たちを罪からきよめようとしてくださっています。罪の赦しがイエス・キリストにあるように、罪からのきよめもキリストにあります。私たち一同を「キリストにある」者たちとしてください。キリストにあることを信じ、認め、喜ぶ、そのことをスタートラインにして、ここから共に前進させてください。私たちの信仰のレースのゴールとなり、また伴走者となってくださるイエス・キリストの御名で祈ります。


人は完全になれるか

ピリピ3:17-21

3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 先週私たちは「目標を目指して」生きるということを学びました。今朝の聖書の箇所は、どのようにしたらその「目標」に達することができるかということが、具体的に書かれています。こには三つのことが教えられています。第一は、良い模範にならうこと、第二は、悪い手本を避けること、そして第三が、私たちの天にある完成された姿をイメージすることです。これらのことを順に見ていきましょう。

 一、良い模範にならうこと

 シュバイツアー博士が教育について講演した時、聴衆から質問がありました。「ドクター・シュバイツアー、子供を育てる時に一番大切なことは何でしょうか。」シュバイツアー博士は「一番大切なことは、良い模範を示すことです」と答えました。すかさず他の人も「では、第二は何ですか」と質問すると、シュバイツアー博士は「第二も、第三も模範になることです」と答えたと言うことです。「子供は親の言うことは聞かないが、親のしていることを見て育つ」と言われるように、親や教師が良い模範になるというのが教育で一番大切なこと、いいえ、二番目にも、三番目にも大切なことだということはうなづけますね。ところが、現代では、家庭において、親が親らしくなくなってきています。ずっと昔は「尊敬する人は?」と子供たちに聞くと「お父さん」「お母さん」という答えが返ってきたものですが、今ごろは、父親、母親は尊敬する人から完全に除外されています。ある中学生が「親見れば、オレの将来、見えている」という川柳をつくりましたが、笑えない現実です。また、学校の先生が信じられないような悪いことをするので、子供たちはおとなは誰も尊敬しなくなっています。子供は模範にできる人がいてはじめて人間として成長していき、若い人は目標にできる人がいてはじめて向上を目指すことができるものです。子供たち、若い人たちが尊敬できる人を持ってなくなっているのは残念なことです。これは子供や若者たちだけが悪いのではなく、子供や若者の模範になっていない大人たちにもおおいに責任があります。

 そんな現代の私たちと対照的に、使徒パウロは、「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください」(17節)と言っています。これはとても大胆なことばですね。私たちにそんなことが言えるでしょうか。私たちは、こう言うかわりに「人を見てはいけませんよ、キリストを見上げなさい」と、信仰の初歩の人についつい言ってしまいます。確かにそのとおりなのですが、やはり、初信の人たちは、目に見えないキリストを見上げる前に、身近な先輩のクリスチャンを見てしまうのです。そして、先輩のクリスチャンを通して聖書を学ぶこと、祈ること、賛美をすること、奉仕をすること、献金することを学ぶのです。先に救われた私たちが「人を見てはいけませんよ、キリストを見上げなさい」ということばを隠れ蓑にして、後に続く人々の良い模範になろうとする努力を忘れてはなりません。

 もちろん、私たちは誰に対しても完璧な模範になれるわけではありません。しかし、たとえ、欠けたところ、弱い部分があっても、もし、私たちが使徒パウロのように「目標を目ざして一心に走っている」(14節)なら、私たちの神を見上げ、キリストを求める姿が人々の模範となるでしょう。

 聖書の中にも、歴史の中にも良い模範が数多くあります。また、私たちの身近なところにも、模範となるべきことを見つけ出すことができます。私たちは、知らず知らずの間に、回りの人々から影響を受け、また回りの人々に影響を与えています。「私は神だけを見上げていますから、周囲の人に左右されることは絶対ありません」と言えるような人は誰もいないと思います。ですから、私たちはお互いに良い模範になりあうように努力しましょう。私たちは良い模範にならい、良い模範になろうとすることによって信仰を成長させ、天にあるゴールに近づくことができるのです。

 二、悪い手本を避ける

 さて、良い模範があれば、悪い手本もあります。この世がすべて正しいこと、善いこと、美しいことだけで成り立っているのなら、私たちは何も悩むことなく人生を送ることができるでしょう。そうならどんなにいいでしょうね。けれども、実際はそうではないのです。しかも、悪い手本がクリスチャンの世界の外側にあるのでなく「クリスチャン」と呼ばれる人々の中に混ざり込んでいるからやっかいなのだと、聖書は言っています。

 使徒パウロは18節、19節でこう言いました。「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」ここで「十字架の敵」と言われている人々は誰のことでしょうか。それは無神論者や他の宗教の人のことだけではないと思います。もしそうなら「十字架の敵」と書かずに「神の敵」とか「クリスチャンの敵」「信仰の敵」と書いたでしょう。パウロが涙を流して悲しんだのは「自分はクリスチャンだ。しかも、あなた方に信仰を教える教師だ」と言いながら、クリスチャンにとって一番大切なイエス・キリストの十字架を無意味なものにしてしまっている人々です。こういう人々を聖書は「偽教師」と呼んでいます。今日の教会では、「偽教師に警戒しなさい」といった教えはあまり語られませんが、パウロは「私は『しばしば』あなたがたに言ってきた」と書いています。パウロは「偽教師に気をつけなさい」と、一度や二度でなく、繰り返し語りました。それは、もし、私たちが、その教えに従っていくなら、その「最後は滅び」(19節)だからです。間違った教えを語る者たちは、必ず、神の裁きを受けます。そして、彼らに従って行った者も同じように滅びるのです。せっかく教会に来ていながら、聖書を学んでいながら、イエス・キリストの十字架の救いを否定して、滅びに向かっていくというのは恐ろしいことです。だから、パウロは、繰り返し、口を酸っぱくして「偽教師に警戒しなさい」と語ったのです。

 次に「彼らの神はその欲望」とあります。口語訳聖書では「彼らの神はその腹」となっています。その人の表面と内側があまりにも違う時、「腹が黒い」と言います。偽教師たちは、実際は、金銭や安楽な生活、名誉などといった、彼らの欲望を満たすことに懸命だったのに、表面はいかにも敬虔そうにふるまっていました。「腹黒さ」を隠すために「白い衣」を着ていたのです。それで人々は彼らが偽者だと見破ることがなかなかできなかったのです。「彼らの神はその腹、欲望」ということばに「彼らの栄光はその恥」ということばが続きます。偽教師たちが、今、地上で誇ってみせているものは、キリストの審判の日には、彼らの恥となるのです。それから「彼らの思いは地上のことだけである」とあります。自分では「信仰の教師」と言いながら、彼らの思いの中には神のことも、神の国のことも、霊的なことが少しもないのです。

 少し見ただけでは、本当の使徒たちと偽教師との区別はつけにくいのです。ですからクリスチャンには霊的な識別力が必要です。クリスチャンに第一に必要なものは、言うまでもなく「愛」です。しかし、私たちは「愛」の名のゆえに真理を判別するのをやめて、何でもかでも鵜呑みにしてはなりません。 ピリピ1:9-10に「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように」との祈りがありますが、私はサンタクララ教会が、考える信仰、行動する信仰を持つことができると信じ、そのように祈っています。教会は外からの妨害や圧迫によっては、簡単には潰れません。むしろ、教会は、外からの妨害や圧迫をはねのけようと団結して、強くなっていきます。しかし、教会の中に誤った教えが入ってきて、教会が真理から離れていったら、どんなに教会が社会によって保護されていても、教会は霊的な力を失って、内側から崩れていきます。教会の中にたくみに入り込んでこようとする、真理でないもの、真実でないもの、「似て非なるもの」を、私たちは斥けていかなければなりません。

 三、完成された姿を見る

 第一に「良い模範に目を留めなさい」、第二に「悪い手本を避けなさい」と教えた使徒パウロは、第三に「天にある私たちの完成された姿をイメージしなさい」と教えます。使徒パウロは、今まで涙を流しながら、偽教師のことを書き綴ってきましたが、パウロは、今度は、喜びに満ちてこう書きます。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(20-21節)ここには、19節で「彼らの最後は滅び、彼らの神は欲望、彼らの栄光は恥、彼らの思いは地上のこと」と言われていたのとまったく逆のことが書かれています。本物のクリスチャンの最後は滅びでなく、救いです。私たちの神は、私たちの腹ではなく、もういちど天から来て、私たちを迎えてくださるイエス・キリストです。私たちの人生は恥で終わりません。私たちは栄光の中に入れられるのです。私たちは約束された栄光の天国をいつも思い見ます。ですから私たちの思いは、地上のことでなく、天のことなのです。そして天のことを思いみることによって、また、思い見、待ち望みながら、私たちは、目標へと、完成へと近づいていくのです。

 スポーツの選手は、その競技種目の練習だけでなく「イメージ・トレーニング」というのを行います。たとえばフィギュア・スケートの選手だったら、頭の中で、これから行う演技を想像してみるのです。完璧な演技が出来て、観衆の拍手喝采を浴び、審判員がみな満点をつけ、そして表彰台に立って金メダルを受けるところまでも想像をたくましくするそうです。そうすると、自分の内側に秘められた力が発揮されて、最高の演技ができるようになると言われています。芸術作品を作る人も、自分の作品の完成されたイメージを心の中にしっかりと持っていてはじめて、素晴らしい作品を作ることができると言われます。美しい建築物も、やはり、完成されたイメージが先にあって、それにそって立てあげられていくのです。

 私たちも、私たちの完成された姿を天に持っています。第一ヨハネ3:2に「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」とありますように、イエス・キリストが私たちの完成された姿なのです。クリスチャンがイエス・キリストを仰ぎ見るとき、それは自分たちの完成された姿を見ていることになるのです。世の終わりになって、私たちがキリストに顔と顔とをあわせて出会う時、私たちはキリストの栄光に触れ、キリストのように変わるります。私たちはイエス・キリストの十字架の救いによって罪のさばきからすでに救われ、そして、今、その十字架の力によって罪の力から救われて続けています。しかし、この地上に生きる限り、私たちの弱さは残り、罪の誘惑はやってきます。自分の罪であれ、人の罪であれ、その結果によって傷つけられ苦しめられます。しかし、イエス・キリストがもう一度世においでになる時、つまり私たちの救いの完成する時、私たちは罪の存在そのものから救われます。その時、私たちは一切の罪から、弱さから、欠陥から、嘆きから、悲しみから、後悔から解放されます。私たちの救いは完成され、私たちは完全なものになれるのです。

 天国で、たましいの救いだけでなく、この肉体も含めた、一切の救いを受け取るのは、もちろん、私たちがイメージをたくましくしたから出来るというものではありません。天国や私たちの完成された姿は、私たちが想像しても想像しきれないほどのもの、それは地上とは次元の違ったものでしょう。しかし、聖書のことばによって、信仰によって、天国での完成された姿を確信していく時、私たちはより神に近づき、キリストに似た者へと変えられていくのです。私たちは、完成の日を待ち望んでいます。しかし「待ち望む」というのは、ただぼんやりと日を過ごすことではありませんね。私たちは、完成の日を思い見ることによって、そこに目を向けることによって、完成へと一歩一歩近づくのです。第二コリント3:18に「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」とあります。私たちがキリストの栄光を賛美し、ほめたたえるだけでなく、その栄光に触れていただくような体験を、日々に深めていくことによって、私たちも、キリストの栄光の姿に変えられていくのです。キリストの栄光の姿は、同時に、私たちの完成の姿でもあります。そのイメージを心にしっかりと収め、救われ、きよめられ、そして完成を目指して歩み続けましょう。

 (祈り)

 真理の父よ、今朝私たちの周囲には、偽りか真理か、滅びか救いか、恥か栄光か二つの道があることを教えられました。今朝、私たちが神の民であって、真理に、救いに、栄光に導いてくださることをしっかりと心に刻ませてください。真理の道を選び、救いの道に歩み、栄光への道へと進んでいくことができるよう、私たちを導いてください。再び天からおいでになり、私たちの救いを完成させてくださる主イエスの御名によって祈ります。

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