ピリピ人への手紙からのメッセージ

このページには、2000年9月から2001年7月まで、サンタクララ教会の礼拝でお話ししたピリピ人への手紙からのメッセージをそのまま載せてあります。皆さんのコメントをお待ちします。

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ピリピ人への手紙第一章


クリスチャンのまじわり

ピリピ1:1-5

1:1 キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。
1:2 どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:3 私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、
1:4 あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、
1:5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。

 それぞれの世界には、その世界にだけしか通用しない言葉があります。最近耳にした言葉に、「ドタキャン」というのがありました。最初はなんだか分かりませんでしたが、これは日本語と英語を組合わせたもので、「土壇場のキャンセル」というのだそうです。報道関係の人たちが使う言葉で、たとえば、日本の首相の記者会見が予定されていたけれど、国際的な重大事が起こって直前にそれが取り消された場合、「首相の会見はドタキャンになった」と言うのだそうです。

 こういう種類の言葉を、「業界用語」というのですが、私たちクリスチャンも、知らず知らずの内に、自分たちの間だけで通用する言葉を使ってしまい、周りの人々は、何のことだかわからないということがよくあるのではないでしょうか。今日、お話ししようとしている「まじわり」という言葉も、キリスト教会の、いわゆる「業界用語」のひとつではないかと思います。私たちは「まじわり」ということばを良く使います。では、このことばを使っているクリスチャンが、その意味を理解しているのかというと、使っている人もはっきりしないということがあるかもしれません。「まじわり」とは英語で言えば、「フェローシップ」で、誰にも分かる言葉なのですが、日本語で「まじわり」と言うと、かえってわかりにくいことばになってしまいます。かと言って、「まじわり」を「交際」「つきあい」と言い換えてしまうと、もともとの言葉がもっている大事なものが消えてなくなってしまうような気がします。クリスチャンのまじわりと、おつきあいとは根本的に違うものだからです。「まじわり」という言葉は、クリスチャン用語のひとつかもしれないのですが、そこには、他の言葉では表わしきれない意味内容があり、別の言葉で簡単に置きかえることのできない重みがあります。

 ピリピ人への手紙には「まじわり」と言いう言葉は三箇所で使われています。最初が一章五節で、日本語の訳では「福音にあずかっていること」となっていますが、ここに、原語で「まじわり」を意味する「コイノニア」という言語が使われています。次に「まじわり」「コイノニア」という言葉が出てくるのは、二章一節の「御霊の交わり」というところです。三番目は、三章十節の「キリストの苦しみにあずかる」という部分です。この三つの個所から、クリスチャンのまじわりとはどんなものであるかを考えてみましょう。

 一、福音のまじわり

 クリスチャンのまじわりは、第一に、福音のまじわりです。一章五節に「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音〔を広めること〕にあずかって来た」とあります。

 しかし、福音にあずかるとはどういう意味でしょうか。英語の訳でこの部分は "your fellowship in the gospel" となっているのですが、"in the gospel" の "in" は、原語のニュアンスを汲んで "into" と訳したら良いように思います。"in" という言葉の意味は、図に書くなら円を書いて、その中に点を書いて表わすことができます。「この円の外じゃなく、中ですよ。」ということですね。ところが "into" というのは、円を書き、その円の外から円の中に矢印を書いて表わすことのできるようなものです。「円の外から、円の中にはいりましたよ。」というわけです。そこには、方向性があります。運動があります。福音とは、神の救いのグッドニュースのことですが、「福音にあずかる」という表現は 、かっては、福音を聞いたこともなかった、それを信じたこともなかった者が、今は、福音を聞き、それを信じ、福音が与える救いの中にいるということを意味しているのです。「私たちが福音の中にあり、私たちのうちに福音がある。」これが、「福音のまじわり」という言葉の意味なのです。

 ひとりびとりが福音を自分のものにする、もっと具体的に言えば、共に聖書を学びあう、実は、そこからクリスチャンのお互いのまじわりが生まれて来るのです。ここに集まっている私たちはみな、生まれも育ちも、年齢も職業も違っています。人種やことばさえ違う場合もあるでしょう。そんな私たちがひとつとなることができるのは、決して人間的な何かではありません。それは、みんなが、同じキリストの救いのメッセージを聞き、それを信じている、みんながこの福音という共通したものを持っていることによるのです。福音がまじわりを生み出すと言っても良いでしょう。お互いがよりみことばを深く理解すればするほど、クリスチャンの交わりも深められていくのです。

 しかし、この「福音のまじわり」("fellowship into the gospel")という言葉の意味はそれだけではありません。原語で「〜に向かって」("into")という言葉は、「〜のために」("for")という意味もあるのです。クリスチャンのフェローシップ、まじわりは、福音のために存在するという意味です。先ほど、お話しした、円とそこに向かう矢印を思い浮かべてください。矢が的の中心に当たっている「当たり矢」のマークのように、フェローシップ、クリスチャンのまじわりが福音の方に向けられているのです。ピリピの教会のまじわりは、福音のために、福音の宣教のために向けられていました。ピリピの教会はパウロの伝道旅行中、物資を送り、人材を送り、彼の宣教活動を支え続けた教会です。ピリピのクリスチャンは、パウロから聞いた福音を信じ、福音によってひとつとなりました。そして、今度は、福音を信じるだけでなく、福音のために、福音の伝道のために共に働くものになっています。口語訳では「福音にあずかってきた」と訳されているこの個所は、新改訳では、「福音を広めることにあずかってきた」と、意味をとって訳されています。クリスチャンのまじわり、フェローシップはパートナーシップ、福音のため、伝道のため協力し合うまじわりです。

 クリスチャンのまじわりは素晴らしいものです。おひとりの神の前に、どの人も尊い存在として扱われます。共に祈りあうことができます。もちろん、肉親の間や、友人、同僚の間でも暖かい人間関係を持つことはできます。しかし、一度人間関係が壊れると、愛が憎しみに、尊敬が軽蔑に、暖かさが冷たいものに、一晩で変ってしまいます。そこに神がおられない人間関係は、いつ壊れるか分からない不安定なものなのです。そんな壊れたままで修復できない人間関係に傷つき、悩んでいる人々が、日本でもアメリカでもなんと多くいることでしょうか。しかし、キリストを信じる者たちのまじわりは、トラブルが生じても、共に神の前に出て、祈りあって解決し、前進していくことができます。この世の「おつきあい」ではいつも、「自分は相手にどう思われているだろうか」とハラハラしながら、互いに相手の腹のうちを探りながらのものですが、キリストにあるまじわりでは、もちろん、愛による気遣いは必要ですが、主にあって、あるがままの自分でいられる、安心して関わることのできるまじわりです。ですから、ともすれば、私たちはこの暖かいまじわりの中にどっぷりと漬かっていたいと考えてしまいます。そして、私たちの回りにいる、このまじわりの素晴らしさを、まだご存知でない方々のことを忘れてしまいがちです。私たちのまじわりには、単にお互いを暖めあうだけでなく、このまじわりの素晴らしさをまだご存知でない方々を、まじわりの中に招き入れていうという目的があるのです。私たちのまじわりは外側に向かってひろがっていくものでなければなりません。このことを、みんなが理解できれば、クリスチャンのまじわりは、おつきあいでも、交際でもない、そこで自分も生かされ、相手も生かされるもっと豊かな、主にある交わり、主のための交わりになっていくことでしょう。

 二、御霊のまじわり

 次に「まじわり」「コイノニア」という言葉が出てくるのは、二章一節の「御霊の交わり」というところです。二節まで読みましょう。「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」ピリピ教会は、パウロの伝道のパートナーでした。パウロは、ピリピ教会のために祈る時、いつも神に感謝しています。ピリピの教会は、熱心で、暖かい、模範的な教会でした。しかし、そんなピリピ教会にも、パウロの心を痛めるような問題があったのです。それは、教会内の不一致でした。四章を見ますと、「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。」と書かれています。ユウオデヤ、スントケというのは女性の名前です。ピリピ教会は、もともと紫布を扱っていたビジネスウーマン、ルデヤが中心になってスタートした教会でしたから、婦人たちが活躍していたのでしょう。しかし、その中でも、ふたりの婦人、そして、それぞれにつくグループの間に、うまくいかないものがあったようです。名前を書かれたユウオデヤ、スントケにとっては、不名誉なことかもしれませんが、パウロにとっては、教会内の不一致はたとえ実名をあげてでも解決しなければならないほどに重要なことがらだったのです。

 教会のまじわりというものは不思議なものです。教団のどの教会も、最初はわずかな人数ではじまっています。最初は二人ではじまったとしても、そこにもう二人が加わり、四人になり、さらに二人が加わって六人になり、というふうに成長していきます。教会の人数は「二+二+二=六」となったのですが、しかし、教会のまじわりは、「二×二×二=八」になったのです。いいえ、二の自乗の四、四の自乗の十六というクォリティを持つようになったのです。教会のまじわりの世界は数学の世界というよりも、化学の世界かもしれません。キリストを信じる人と人とが、聖霊のお働きにより、不思議な仕方で結合し、そこに化学反応が起こり、大きな力を発揮するのです。それはとてもパワフルなものです。ですから、この結合、化学反応を妨げる不純物、つまり、まじわりを損なうものは取り除かれなければならないのです。

 パウロは、教会の一致を勧めるため「御霊のまじわり」という言葉を使っています。「御霊のまじわり」という言葉は、皆さんが「祝祷」の中で、毎週、毎週聞くことばですね。祝祷では、「御子キリストの恵み、父なる神の愛」そして、「御霊のまじわり」と続きますね。「御子キリストの恵み」というのは、キリストがくださる恵み、「父なる神の愛」というのは神がくださる愛という意味です。「御霊のまじわり」というのは、御霊がくださるまじわり、御霊が生み出してくださるまじわりという意味です。「御霊のまじわり」というと、私たちが聖霊とまじわることだと思っている方も多いようです。しかし、聖霊の働きは、私たちを神とまじわらせることであって、聖霊は、常にご自分を隠して働かれるお方です。私たちは、聖霊によって、キリストを通し、父なる神を礼拝するのです。

 教会のまじわり、クリスチャンのまじわりは、聖霊が生み出してくださったものです。ですから、私たちは、このまじわりを、大切に守らなければなりません。身勝手さによってかき乱したり、ゴシップによって傷つけてはならないのです。そうしたことは、お互いを苦しめるだけでなく、まじわりの主である聖霊を悲しませることになるのです。毎週の礼拝で、「聖霊のまじわり」を祈り求めている私たちは、教会のまじわり、クリスチャンのまじわりの中心に主がいてくださるように祈り続けなければなりません。

 三、苦難のまじわり

 「まじわり」という言葉が使われている三番目の個所は、三章十節の「その苦難にあずかって」という部分です。十一節まで読みます。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」この個所には深い意味があって、今日はそれをお話しする時間はありませんが、この個所が、キリストの苦しみにあずかることなしに、キリストの復活の力、栄光にあずかることはできないということを教えようとしていることは、お分かりいただけると思います。パウロはこの時、信仰のゆえに、ローマの獄中で不自由な生活をしていました。また、パウロの不在を理由に、パウロが伝道してきた諸教会の中に混乱もありました。パウロは、この時、肉体的にも精神的にも、キリストのために苦しむことを味わっていたのです。しかし、言葉では分かっても、実際にはキリストのために苦しむということが少ない、現代のアメリカに住む私たちには、実感としてピンと来ないテーマです。しかし、キリストと共に苦しむ、キリストのために苦しむということをちゃんと理解していないと、「苦しみから解放されたいからキリストを信じたのに、キリストを信じるゆえにまた苦しまなければならないのなら、信仰を持つのはやめよう。」「人間関係のトラブルから救われたいと願って教会に来たのに、教会のまじわりの中で悩まなければならないのだったら、教会をやめよう。」などというふうになってしまいます。

 教会は楽しいところです。この世の戦いに疲れ、心が暗く沈んでしまったような時にも、クリスチャンのまじわりの中に戻ってきますと、力を与えられ、光を与えられます。暖められ、元気になって、戦いに出ていくことができます。しかし、私たちが味わう楽しさというのは、単に、気分を良くしてくれるものだけではありません。そこには、自分の罪と戦うという真剣なもの、真理を守り通すという厳しいものがあり、それにともなう苦しみもあるのです。一章二九節をご覧ください。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」とあります。パウロは、ピリピ人への手紙の中で、「喜べ、喜べ」と繰り返していますが、それは、決して浮ついた喜びではありません。キリストと共に苦しむ、キリストのために苦しむということを通りぬけて得られる喜びです。苦しみを共にしてこそ、喜びも共にできるのです。教会のまじわりを築きあげていくプロセスの中には、お互いに誤解したり、時には論争したりということもあるでしょう。コミュニケーションが途絶えてしまうようなこともあるでしょう。しかし、行き詰まってしまったかのように見える時にも、その苦しみを、痛みを共有していくところから、真実な、教会のまじわりが生まれてくるのです。教会のまじわりこそ、喜びも悲しみも共にするまじわり、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くまじわりでなければなりませんね。クリスチャンのまじわりが、共に福音を信じ、福音を広めるためのまじわりであり、御霊のつくりだしてくださる、きよい、暖かい まじわりであり、また、苦しみを共にするまじわりです。この主にあるまじわりを育てていきたいと心から願うものです。

 (祈り)

 父なる神様、今朝、「まじわり」という言葉を共に学ぶことができ、感謝します。私たちが、同じ福音を信じるフェローシップから、さらに福音のために共に働くパートナーシップへと導かれますように。教会のまじわりを、あなたの福音のために用いてください。このまじわりをご聖霊によってコントロールされたまじわりとしてください。このまじわりを、苦しみさえも共有する真実なまじわりとしてください。私たちのまじわりのかしらである、キリストの名で祈ります。


神と共に働く

ピリピ1:6-8

1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。
1:7 私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。
1:8 私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。

 一、福音の同労者

 先週の礼拝では、ピリピ人への手紙1:1-5より「クリスチャンの交わり」と題してお話しました。クリスチャンの交わりとは、共に福音を信じ、また共に福音を伝える交わりでしたね。1:5に「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています」と書かれていますが、ここでパウロは「ピリピの皆さん、皆さんは、私の伝道旅行のはじめから、今まで、私と一緒に伝道してくれました。本当にありがとう」と言いたかったのだろうと思います。

 けれども、ピリピのクリスチャンは、パウロの言葉どおりに、実際にパウロと一緒に伝道旅行をしたわけではありません。ピリピからテサロニケに、テサロニケからコリントへ、そしてエペソへと進んで行ったのは、パウロとパウロの伝道チームだけでした。ピリピの人たちは、パウロがしたように、ユダヤ人の会堂や、アテネのアレオパゴス(使徒17:19)、ツラノの講堂(使徒19:9)などで説教したわけでもありません。パウロは伝道旅行を終えて、エルサレムに戻って来た時、捕まえられ、カイザリヤに送られ、そこで二年間監禁されていました。ピリピ人への手紙を書いている時、パウロはローマの牢屋に移されていました。パウロは、福音のために何度も危険な目に遭い、さまざまな苦しみを受けましたが、ピリピのクリスチャンは、パウロと同じ苦しみに遭ったわけではありません。しかし、パウロは、7節で「あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです。」と言っています。つまり、「あなた方は私の苦しみを共にしてくれた」と感謝しているのです。

 いったいピリピのクリスチャンはどのようにしてパウロと一緒に伝道し、パウロと一緒に苦しみを共にしたのでしょうか。それは、パウロのために祈り、サポートすることによってでした。パウロがエルサレムで逮捕された、カイザリヤで投獄されたというニュースは、地中海、エーゲ海を越えてピリピにも届きました。しかし、そのニュースを聞いても、ピリピのクリスチャンはパウロのために、具体的には何もすることはできませんでした。ただ祈るだけです。しかし、その祈りは働きました。その祈りがパウロを力づけ、大祭司アナニヤや総督ペリクス、またアグリッパ王の前でも、堂々とキリストを信じる信仰を弁明することができたのです。パウロは、各地でイエス・キリストを宣べ伝え、この世の権力者に対しても立派にあかししてきました。それは、神の前に大きな誉れです。しかし、パウロはその誉れを自分だけのものにしないで、自分のために祈り、サポートしてくれた人々と共に分け合っているのです。ピリピのクリスチャンは、パウロに物資を送り、パウロの伝道を間接的にサポートしたにすぎません。しかし、こうしたサポートなしに、パウロは伝道旅行を続けることができませんでした。パウロは、いつも、自分のしている伝道は自分ひとりでやっているのではない、自分の伝道を支えてくれる多くのクリスチャンと共にさせていただいているのだという意識を持っていました。

 以前、私がテキサスの教会に、伝道集会の講師として招かれた時、教会のメンバーが「先生、テキサスに伝道に行ってきたんですね」と言ってくださいました。私は最初、この言葉を抵抗なく受け取っていたのですが、良く考えてみると、実際にその地で伝道しているのは、その土地の教会のクリスチャンなのです。私は、伝道集会でメッセージを語っただけにすぎません。ですから、「伝道のお手伝いをしてきました」というのが正しい表現かもしれません。しかし、伝道者が、神を愛し、その土地にいる人々を愛して、心を込めて語るメッセージがなければ、イエス・キリストを信じる人が起こらなかったことも事実です。伝道は、信徒だけで出来ることでもないし、伝道者だけでできることでもない、伝道者と信徒が共に福音のために、働き合うことなのです。信徒と伝道者が共に、それぞれの分を果たして働くことによってできることです。信徒は伝道者のために祈り、伝道者も祈りの中で信徒を覚えます。信徒が伝道者の働きを感謝するように、伝道者も信徒の働きを感謝します。そこに、「福音のまじわり」が具体的に見える形で現れてくるのです。

 ですから、信徒の方々は、自分たちがメッセージを語ったり、個人伝道ができなかったとしても、それで、伝道の恵みからこぼれていると考えてはなりません。パウロは「あなたがたはみな、…私とともに恵みにあずかった」と言っているではありませんか。ヨハネの手紙第三を開いていただけますか。五節から八節にこう書かれています。「愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」ヨハネが言っている「旅をしているあの兄弟たち」とは、今日の伝道者、宣教師のことでしょう。もし、信徒が伝道者をサポートするなら、それは、単なるサポートで終わらない、それもまた伝道のわざ、宣教の働きになるのだ、私たちは彼らの「同労者」になれるのだ、同じ恵みと誉れにあずかることができるのだというのです。どんな小さな奉仕も無駄にはなりません。隠れた祈りも豊かに用いられるのです。

 そうであるなら、伝道者も信徒も、おごったり、卑屈になったりすることなく、福音が広められることを喜び、それぞれの働きを喜び、感謝しあうではありませんか。今までそうしてきたように、これからも、力を合わせて伝道のわざに励もうではありませんか。

 二、神の同労者

 今までの要点は、「信徒は伝道者をサポートすることによって、伝道者と同労者になることができる」ということでした。第二のポイントに入りましょう。それは、私たちは「神の同労者」なのだということです。すこし前後しますが、次に七節をお読みください。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」ここで、「良い働き」とあるのは、ピリピのクリスチャンの伝道のための働きのことです。そして、その良い働きは、神が始めてくださったものであり、神が完成させてくださるとあります。「キリスト・イエスの日」というのは、イエス・キリストの再臨の日です。このことばは、伝道の働きは、最終的には神の働きだということを教えています。伝道は、パウロのようなパワフルな伝道者がいれば、その人ひとりで出来るというものではありません。伝道はピリピのクリスチャンのように、伝道者を支える信徒がいなければできないのです。伝道は、伝道者と信徒のチームワークです。しかし、熱心な伝道者と忠実な信徒がいれば、伝道が進むのかというと、それだけではありませんね。そこに、伝道の主である神がおられなければ、どんな伝道も実を結ばないのです。

 私は、神学生だった時、日本でなかなか伝道が進まず、教会が成長しないのを見て、随分生意気だったと思いますが、「先輩の牧師先生たちは何をしているんだろう」と批判的な目で見ていたことがありました。そして、「自分が伝道してやるんだ」とばかりに随分意気込んでおりました。そんな時、私は一冊の本を読んで、自分の考えを改めました。それは、アブラハム・カイパーという人が書いた『伝道と神の主権』という本でした。

 この本で教えられたことは、神ご自身が伝道者であるということでした。誰が伝道を始めたのかというと、それは十二使徒でも、パウロでもない、神ご自身だというのです。たしかに、伝道とは人々を愛し、その救いを願うことですが、それは、神ご自身がしてくださったことでした。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)最初に私たちを愛してくださったのは、私たちを造ってくださった神ご自身でした。また、伝道は、人々にイエス・キリストを指し示すことですが、最初にイエス・キリストを私たちに遣わしてくださったのも父なる神です。だからこそ、私たちも神の愛を人々に伝え、イエス・キリストを人々に指し示すことができるのです。神が最初の伝道者、最も偉大な伝道者です。この神は、今も、私たちの救いを願い、そのために働き続けてくださっている、伝道者として働き続けてくださっているのです。

 イエスは天に帰られる前に、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:19-20)と、弟子たちに、伝道という神の大事業を託していかれました。しかし、こんなに大切なことを、数人のガリラヤの人々に任せて良かったのでしょうか。この人たちは、イエスが十字架につけられた時、イエスを見捨てた人々です。イエスが復活された時も、それを信じなかった人々です。果たして彼らに、伝道が出来るのでしょうか。もし、伝道が人間の力だけでするものなら、弟子たちはすぐさま失敗したでしょうね。しかし、イエスは、弟子たちにすべてを任せて、ご自分は伝道から手を引かれたのではありません。イエスは弟子たちに、伝道の命令を与える前に「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ28:18)と言われ、その後、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と約束してくださっています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」この命令は、それを受け取る人間がどんなに弱くても、天にも地にも一切の権威の上におられる、力あるお方、イエス・キリストによって可能になるのです。イエスは、世の終わりまでも、私たちと一緒にいて、私たちの伝道を支えてくださり、完成させてくださるのです。

 ピリピ人の手紙は、信徒は伝道者をサポートすることによって、伝道者と同労者なのだと教えていますが、それだけでなく、伝道者も信徒も、共に、神の伝道のわざに加わっているのだ、神と共に働く、「神の同労者」なのだと教えています。そうであるなら、私たちに「自分が伝道するんだ」という気負いはいらなくなります。「自分は伝道しなくていいんだ」と引っ込んでおれなくもなります。なぜなら、神がこんなにも熱心に伝道しておられるのに、自分は何もしないでおれないからです。また、「自分が伝道したんだ」という高慢からも、「自分に伝道できるんだろうか」という心配からも救われます。神の力以外に人を救うものはなく、神の力によって用いられないものもないからです。

 伝道にかぎらず、すべての良い働きは、神が私たちのうちに始めてくださったものです。たとえば、きよめもそうです。私たちは、神がきよくあられるように、私たちもきよくありたいと願います。そうした求めは、生まれつきの私たちから出てきません。救われ、罪の赦しの喜びを知った時、同じ罪をくりかえすのでなく、そこからきよめられたいと願うようになります。これは、神がその思いを私たちの中に入れてくださったからです。私たちも自らをきよくしようとします。それは、私たちが自分で自分をきよめられるからではありません。神が私たちをきよめようとしておられるのに、私たちがそれに逆らうことをしたり、何もしないで怠けていることができないからです。聖書がくりかえし教えているように、私たちの良い行いが神の救いの力を引き出すのではありません。むしろ、神の救いの力が、私たちから良い行いを生み出させるのです。私たちは、きよめの面でも、神の同労者です。私たちが自分で自分をきよめようとしたら、おそらく、いつまでたってもゴールに到着しないでしょう。しかし、神と共に働くなら、始めてくださったことを必ず完成させてくださる神が、私たちをゴールに導いてくださるのです。

 そして、神は、私たちがゴールに到着した時、あたかも私たちがそれを成し遂げたかのようにして私たちの努力を喜んでくださり、報いをくださるのです。マタイの福音書のタラントのたとえは、皆さん、よくご存知ですね。マタイ25:20-21に「すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ』」とあります。二タラント預かり、二タラントもうけた人にも、主人はまったく同じことを言っています。五タラント預かった者も、二タラント預かった者も、主人からもらった元手があればこそ、もうけることができたのです。彼らが商売に成功したのには、主人の評判や名声があったからでしょう。しもべたちは、きっと、主人の名前を出して取引先と交渉し、信用を得、ビジネスに成功したに違いありません。しもべたちがうまく行ったのは、彼らの主人が背後にいたからです。しかし、主人は、しもべをほめ、褒美を与え、「主人の喜びをともに喜んでくれ」と言っています。

 これは神が、私たちに対してどんなに寛大なお方であるかを教えています。主は、私たちが、少しでも主のお役に立てたなら、一歩でも前進できたなら、それを大喜びしてくださるお方、子どもの成功を喜ぶ、暖かい父親のようなお方なのです。今朝の聖書は、使徒パウロが、どんな時にもピリピの人々を忘れずに自分の心に置いていたことを言い表した麗しい個所でしたが、私たちの神も、そのように、いつも私たちを心に覚えていてくださるのです。この神と共に働く幸いを、心から感謝し、いよいよ主のために励もうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神様、あなたは、あらゆるものの創始者であり、完成者です。私たちはあなたのしもべとして、あなたの力によって働きます。私たちは、あなたのために働くだけでなく、あなたと共に働くのです。あなたと共に働くことがどんなに素晴らしいことかを教えてください。そうすれば、私たちはあなたのために働く喜びを見出すことができるでしょう。「わたしは最初であり最後である」と、常に私たちを励ましてくださる、主イエスの御名によって祈ります。


わたしはこう祈る

ピリピ1:9-11

1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。

 クリスチャンとして成長するためには三つのことが必要だと、よく言われます。それは、「神のことばを学ぶこと」、「あかしをし、奉仕すること」、そして、「祈ること」です。「神のことばを学ぶこと」は、食事を摂ることにたとえられますね。実際、聖書には「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(?ペテロ2:2)とありますね。赤ちゃんがミルクを飲まなくなったら、お母さんたちは、どうしたんだろうと心配します。きっとどこか悪いに違いありません。同じようにクリスチャンが神のことば、聖書に対する「食欲」を無くしていたら、無くしかけていたら、それは、危険な兆候です。「みことばの乳を慕い求めなさい」とあります。赤ちゃんはおなかがすいたら、ところかまわず泣き出します。そのように神のことばに対する飢え渇きを保っていたいものです。

 「あかしをし、奉仕すること」は、「運動」にたとえられます。食べてばかりで運動しないと、どうなるか、お話ししなくても分かりますね。高血圧、糖尿、コレステロール、オステオポロシスなど、どれも運動不足が原因のひとつだと言われています。運動をしない人は精神的にも、うつ病などの病気になりやすいことが知られています。神の恵みを人に分け与えないでいると、私たちの信仰は弱くなり、病気になってしまいます。健康な信仰を持つためにも、奉仕とあかしに励みたいと思います。

 聖書を学ぶことは食事に、あかしや奉仕は運動にたとえられましたが、では「祈ること」は何にたとえることができるでしょうか。多くの人は、祈りは、「クリスチャンの呼吸である」と言っています。呼吸をストップしてしまったら、誰も生きていけないように、クリスチャンは、祈りによって信仰の命を保っていくのです。祈りがどんなに大切なものかは、誰もが知っています。しかし、祈りを呼吸のように、自然にできる人は少ないのです。呼吸をすることは、誰に教えられなくても、意識しなくてもできますね。もし、意識していないと呼吸できないとしたら、私のように忘れっぽい人は困りますね。「あっ、息をするのを忘れた」と思った時には、もう意識不明の重態に陥っていることになってしまいますから。「祈りは呼吸」と言っても、信仰生活では、意識して祈らなければなりませんし、何をどのように祈るのかを学ぶ必要があります。今朝は、祈りについて聖書から学びましょう。

 祈りを学ぶというとき、私たちは「どう祈るか」ということに集中しがちです。熱心に祈る、忍耐して祈る、信じて祈るなど、大切で興味深いのですが、それと共に、何を祈るのかということを学ぶことも大切です。How to pray だけでなく、What to pray ということも大切なのです。そうでないと、熱心に、忍耐して祈ってはいるのですが、大切な祈りのポイントを見落としてしまうことがあるからです。そして、そのための良い方法は、聖書の中に数多くある実際の祈りを学ぶことです。「主の祈り」をはじめ、詩篇の中にも数多くの実際の祈りがあります。パウロの書いた手紙の中には多くの祈りがあって、ピリピ1:9-11は、パウロの祈りのひとつです。ここで、パウロは、ピリピ教会のために、口語訳では「わたしはこう祈る」と言っています。私たちも、「私は何を祈るのか」を明確にして祈りたいものです。

 一、愛の成長

 使徒パウロが「わたしは祈っています」と言って、まず第一に祈っていることは、「愛が、…豊かになること」ことです。コリント人への手紙第一では、十三章十三節に「こ こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」とあり、十四章一節で「愛を追い求めなさい」と勧めています。クリスチャンが何を求め、何を祈ると言って、愛を祈り求めることほど、素晴らしいことはありません。

 私たちは、イエス・キリストを信じて救われた時に、はじめて、本当の愛を知りました。いままで私たちが求めていた愛というのは、自分が愛されることでした。自分にアテンションが欲しい、自分が誉められたい、自分がいい気分でいたい、そのために相手に愛を要求し続けてきたのです。日本のある作家が「愛は限りなく奪う」と言ったように、それは「奪う愛」でした。しかし、神の愛を知ることによって、私たちは、本当の愛とは、奪う愛ではなく、与える愛だということを理解することができたのです。神は、私たちを愛して、そのひとり子、イエスを私たちに与えてくださいました。神の御子イエスは、私たちを罪から救うためにその命を与えてくださいました。本当の愛、神の愛は、「惜しみなく与える愛」です。みなさんは、命までも惜しみなく与えてくださったイエスの愛を十分に体験していらっしゃいますね。

 愛を求めるというのは、神に「もっと私を愛してください」と求めることではありません。神は、限りなく、惜しみなく、私たちを愛していてくださるのです。愛を求めるというのは、この神の愛がどんなに大きく、高く、深く、長いかを知ることができるよう祈ることです。神の愛を受けている私が、すこしでも、愛の神を愛し返すことができるように、私の身の回りの人々を愛することができるようにと願うことなのです。

 しかし、私たちが、真剣に神を愛そう、本気で他の人たちを愛そうとする時、いつも、自分の愛の足らなさを感じます。人間の愛は小さく、人間の力には限りがあることを思い知らされます。本当に私は神を愛し、人を愛することができるのでしょうか。もし、それが不可能なら、神は、このように祈れとは言わないはずです。神は、不可能なことを祈り求めよとは言われません。神は、すでに、私たちの心に愛の種を置いてくださいました。愛には命があります。神は、私たちの中に植えられた愛の種を育てようとしておられるのです。ですから、私たちも、神が私たちに与えてくださった愛が成長するようにと祈り求めるのです。神は、私たちのうちに、「愛を増してください」との祈りが生まれてくるのを待っていてくださいます。この祈りが生まれ出る時、愛の神は、かならず、私たちの祈りに答えて、愛を成長させてくださいます。なぜなら、愛は神から出ているからです。このことを信じて、「私の愛が、いよいよ増し加わりますように」と祈ろうではありませんか。

 二、愛と識別力

 パウロが第二に祈っているのは、「何が重要であるかを判別することができ」るようにという、識別力です。現代は、善が悪に、光が闇に、真実が偽りに取り替えられたり、それらがごちゃまぜになっているような時代です。そんな時代に生きる私たちには、何が真理で、何が偽りか、何が譲ってはならないことで、何が許容できることか、何を優先させ、何を後回しにしてもいいことなのかといったことを識別する知恵、力が、必要です。このような、知恵、力がないと、私たちは、「愛が増し加わるように」と祈っても、何が本当の愛かを識別できなくなってしまいます。

 「愛」といってもいろいろな「愛」があるのです。皆さんもよくご存知のように、愛を表わすことばには、エロス、フィロス、ストルゲー、そしてアガペーという言葉がありますね。エロスの愛というのは男女の愛です。フィロスは友情の愛、ストルゲーというのは肉親の愛を、そしてアガペーが神の愛を表わします。アガペーは、献身的な愛、報いを求めない愛、与える愛、喜んで犠牲を払う愛のことです。しかし、このアガペーの愛も、識別力を失うと、とんでもないことになります。たとえば、テモテ第二、四・十に「デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい」と書かれています。ここで使われている「愛し」というのは、元の言葉で「アガパオー」が使われています。これは、「アガペーの愛で愛する」という意味です。デマスは、使徒パウロを助けてよい奉仕をしていたのに、そこから離れてしまいました。デマスの愛は、神に向ではなく、この世にむけられてしまったのです。とても残念なことですが、デマスはこの世を、アガペーの愛で、献身的に、ひたすらに、愛したのです。愛は、私たちを動かす原動力です。自動車のエンジンのようなものです。しかし、自動車にステアリング・ホィールがなければ、皆さん、どうなりますか?どこに行くかわかりませんね。他の車にぶつかり、人をはねてしまいます。恐ろしいことになってしまいます。そのように、愛にも、識別力が伴わなければ、それは聖書の教える本当の愛にはならないのです。

 聖書では、愛と真理はいつでもペアで出てきます。コリント人への第一の手紙第十三章に、「愛は…不正を喜ばないで真理を喜ぶ」(?コリント、十三・六)とあります。エペソ人への手紙四・十五では「愛にあって真理を語り」と言われ、?テサロニケ二・十には「真理に対する愛」という言葉が出てきます。?ペテロ一・二二には、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」と書かれています。このように、聖書は、真理から離れて、本当の愛はないと教えています。真理は愛の源であり、愛は真理によって成長します。ですから、愛の名のもとに、正しいことも間違ったことも一緒にしてしまうようなことは、愛によって行動していることとは言えないのです。神の愛を自分勝手に解釈し、自分の都合の良いように使っていないだろうかと、自分を省みながら、この祈りをささげたいと思います。

 三、神の栄光

 パウロの第三の祈りは、十一節に、「神の御栄えと誉れが現わされますように」とありますように、「神の栄光」を求める祈りです。

 聖書は、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(コリント第一、十・三一)と教えています。『ウェストミンスター小教理問答』も、「人生の主な目的は、神の栄光を表わし、神を喜ぶことである」と言っています。神の栄光を表わすとは、どういうことなのかは、別の機会にくわしくお話ししたちと思っておりますが、ウェストミンスター小教理問答に、一つの答えがあります。「人生の主な目的は、神の栄光を表わし、神を喜ぶことである。」神の栄光を表わすとは、自分を喜ばせるためではなく、神に喜んでいただくために行動することだと言えるのです。

 ある人は、「自分を喜ばせてはいけないの?そしたら、何の楽しみも無くなるじゃない!」と仰るかもしれませんが、そうではないのです。私たちのうちに神への愛が育ってくる時、神が喜んでくださることが、私にとっても喜びになるのです。そして神の喜ばれることは必ず、私たちの益になることなのです。

 私たちは、神のために最善をなしたいと願っても、振り返ってみると、いつも、もっとこうすればよかった、ああすればよかったと、その不十分さを反省します。しかし、それが、たとえ足らないものであっても、神は、そんな私たちを喜んでくださるのです。神は私たちのした仕事の出来栄えをご覧になるのでなく、神のために何かをしたいと願って働いた私たち自身を見てくださるのです。先週お話ししましたタラントのたとえを思い出してください。主人からあずかったお金を活用したしもべたちに対して、主人は、五タラントもうけたしもべにも、二タラントもうけたしもべにも、その額にかかわらず、同じように「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」と言っていますね。神は、私たちのしたことの結果ではなく、動機や努力を見ていてくださるのです。「神の栄光」―それは、私たちが軽々しく扱っていいことではありませんが、さりとて、それを、私たちの上にのしかかってくる重苦しいものと考えるのも間違っています。

 今、ビジネスマンのための勉強会、「ゼロ会」では『七つの習慣』という本を学んでいますが、その中にも「愛を求めなさい」「識別力を求めなさい」と書かれていました。この本はビジネスの本なのですが、愛や識別力がどんなに大切なものか、それは、未信者でも知っていて、追い求めているものです。しかし、クリスチャンでない人たちは、自己達成のため、この世における成功のため、つまり、自分自身の栄光のためにそれを求めています。私たちクリスチャンは、愛を求める時も、識別力を求める時も、神の栄光を覚えて、神に喜んでいただこうとして、そうするのです。ここに世の人の求めとクリスチャンの祈りとの違いがあります。

 神の栄光を覚えながら、「もっと愛の人にしてください、真理を知る知恵を与えてください」との祈りを、「わたしはこう祈る。」自分の祈りとしていこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神様、あなたは、聖書の中に数多くの実際の祈りを残してくださいました。その、ひとつひとつから、私たちが、何を、どのように、どんなことばで祈るべきかを教えてくださっています。今朝、学んだパウロの祈りによって、私たちの祈りを、より深いもの、高いものにしてください。愛と識別力とあなたの栄光を第一に祈り求める私たちとしてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。


福音の前進

ピリピ1:12-19

1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
1:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、
1:14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。
1:15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。
1:16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、
1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。
1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。
1:19 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。

 日本ミッションのプレジデントに、ヴァーヴェイ先生というご高齢の方がいらっしゃいます。私は、この先生のお話を二度お伺いし、通訳もしましたが、先生のお話はとてもおもしろいのです。先生は南アフリカの辺鄙なところで生まれ育った方です。十六歳になって、自動車の免許証を貰うために町に出て、生まれて始めて交通信号を見たそうです。役所に行って「運転できるか」と聞かれたので「村でトラックを動かしたことがある」と答えたら、それだけで免許証を貰えたそうです。交通信号を見たことがなくても免許証が貰えるのですから、いいかげんと言えばいいかげん、おおらかと言えばおおらかな時代があったのですね。

 ヴァーヴェイ先生のお話しによれば、そのころ、子どもたちは誰も靴を履いておらず、みなはだしで外を走り回っていたそうです。今でも、ヴァーヴェイ先生の子ども時代の南アフリカのように、ほとんど靴を履かないで生活しているところが、まだまだあるでしょうね。ある靴の会社が、靴を履かないで生活しているある国に、二人の社員を派遣したそうです。二人とも、この国の実情を良く調べて、本社にレポートを送りました。ひとりの社員は、こう書きました。「ここでは、誰一人靴を履く人はいません。こんなところでは一足の靴も売れません!」ところがもうひとりはこう報告しました。「ここでは誰もまだ靴を履いたことがありません。すぐにわが社の靴を売れば、みんなが、わが社の靴を履くようになるでしょう!」皆さんが靴会社の社員だったら、どういう報告をしますか。同じ事実を見ても、物の考え方によって、人は違った反応をし、その結果も違ってくるのですね。

 ピリピ人への手紙を書いた時、パウロはローマで囚人として閉じ込められていました。ところが、ここで、彼は、自分の身に起こったことを「喜んでいる、これからも喜ぶ」と言い切っています。誰が牢屋に入ったことを喜べるでしょうか。普通は、そんな不名誉なことを喜ぶ人はいませんね。昼も夜も監視されて不自由な状態を誰も喜びはしません。それでも、彼は、自分の今の状態を喜ぶと言っています。なぜでしょうか。それは、パウロの投獄によって福音が前進したからです。パウロは投獄されて、自由に伝道できなくなりました。普通の人なら、福音の前進が妨げられたと考えるのに、なぜ、彼は福音が前進していると言うことができたのでしょう。これについて三つの理由を学んでみましょう。

 一、ローマでの伝道

 第一は、福音がローマにもたらされたからです。日本に伝道しようとするなら、まず東京に、ロシアならモスクワに、宣教師は行こうとするでしょう。そのように、パウロはかねてから、ローマ帝国の中心地、ローマに行って伝道したいと願っていました。しかし、その機会はなかなか訪れませんでした。ところが、パウロがエルサレムで捕らえられ、カイザリヤに送られ、そこで審問された時、ローマで裁判を受けたいと申し出たため、パウロはローマに送られることになったのです。

 ですから、パウロは、ローマ送りの囚人になったからと言って、がっかりしませんでした。たとえ囚人としてであっても、ローマに行けるのだ。これは、福音がローマにまで届けられ、そして、当時の世界の中心であったローマから全世界へと広められる第一歩になるのだと確信したのです。主が「あなたの信じたようになるように」と言われるように、パウロのこの確信は、実現していきました。神は、福音を前進させるために、人の考えや計画を越えて、物事を用いてくださるのです。

 パウロはローマ皇帝に訴えを起こしましたので、皇帝直属の役人に身柄をまかせられたようで、パウロを監視したのは「親衛隊」でした。13節に「私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり」とあるとおりです。パウロのことですから、機会があればキリストをあかししようと、親衛隊にも語りかけたのでしょう。そして、彼らの多くが福音に耳を傾けたのです。そして、その中の幾人かが信仰を持つようになりました。ピリピ4:22に「聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています」とあります。「カイザル」というのはローマ皇帝のことですから、皇帝に近い人たち、親衛隊や政府の高官たちも、パウロの投獄によって、クリスチャンになったのです。それがごく少数であったとしても、その人たちから、他の人々へと福音が伝えられ、やがてローマの中枢にいる人たちがクリスチャンになっていったのです。それまで教会を迫害してきたローマ帝国の皇帝自らが、ついにはクリスチャンになって、教会を保護するようになるという歴史を私たちは知っていますね。確かにパウロの投獄は福音の前進につながったのです。

 私たちは、あまりにもつらいことが重なると、物事の否定的な面ばかりを見てしまい、積極的な面を見落としてしまいがちです。どんなに考えても、ネガティブにしか見えない大変な状況の中でも、信仰の目をもって、ポジティブな面を見出していこうではありませんか。このことが起こったのは福音をあかしするチャンスかもしれないと考えてみようではありませんか。そうする時、私たちは、困難の中でも福音をあかしすることができ、苦しみや困難でさえも、福音の前進のために用いられるということを知るようになるのです。

 二、クリスチャンが励まされたこと

 パウロが、福音の前進を喜ぶことができた第二の理由は、他の人たちが、このことで励まされ、パウロに代わって伝道してくれるようになったからです。14節に「また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました」とある通りです。

 もちろん、パウロが逮捕された、投獄されたというニュースは、最初は、多くのクリスチャンをがっかりさせたことでしょう。「パウロ先生がいなくなったらどうなるんだろう」という心配や、「パウロ先生も、あんなに熱心にやらなければ良かったのに。私たちまでカイザルにたてついているように思われて迷惑だ」という批判もあったことでしょう。特に教会のリーダに何事かが起こる時、それに従ってきた人たちは大変動揺します。今まで無かった心配や、疑い、批判が出てきます。それで、サタンはいつも教会のリーダをねらいうちにするのです。ですから、私たちは、リーダのためにいつも祈らなければなりません。神は祈りによってリーダを守り、また、リーダに何事かあっても、メンバーを守ってくださるのです。パウロをリーダとしてきたクリスチャンたちは、そういうショックから立ち直るにつれて、パウロが自由を奪われて伝道できない分だけ、もっと自分たちが伝道しなければならないことに気づき、聖霊の力をいただいて、大胆に伝道するようになったのです。

 私たちは、私たちにおそいかかってくる困難は最終的には、私たちを、強くしてくれるものであることを知っています。ローマ5:3-4に「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」とあります。ここで使われている「練られた品性」ということばには、「検査合格済み」という意味があります。いろんな器具や製品に "Passed" というシールが貼ってあることがありますね。そのシールは、この製品は使って大丈夫ですよという証明です。そのように、神は、私たちが艱難に耐えるなら、私たちが信頼に足る神の作品であることを証明してくださるのです。信仰によって、苦しみは苦しみで終わらない、それによって私たちは、より深く神を確信することができるのです。

 そればかりでなく、私たちが艱難に耐え、神からの合格シールをいただく時、私たちは、私たちの回りのクリスチャンに励ましを与えることができるのです。私は、回りの人々をいつも笑顔で励ましているひとりの姉妹を知っていますが、彼女は、大きな苦しみを何度もくぐり抜けてきた人です。その姉妹が私にこう話してくれました。「私は何も特別な人間ではありません。私は弱虫で自分ひとりではこの苦しみを担い切れないので、毎日神様にお祈りしているだけなのです。」素晴らしいですね。ひとりの人が一所懸命生きる時、何もしなくても、何もできなくても、その人自身が多くの人々の励ましとなるのです。多くの人が私たちを通して、私たちの存在を通して神の恵みを見出してくれるでしょう。実際、パウロは、彼の投獄によって、一時は落胆させられても、今はそれによって励まされている多くのクリスチャンがいることを知って、自分の投獄が福音の前進になったと、喜んでいるのです。私たちも、私たちによって励ましを受けている多くの人がいることを知って、艱難をも喜ぶものとなりたいと思います。

 三、党派心からの伝道

 パウロが福音の前進と考えた第三のことは、ちょっとびっくりすることですが、いままでパウロを快く思っていなかった人たちも伝道しはじめたからだというのです。15〜17節にこう書かれています。「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。」聖書を読むと、ところどころに、「どうして」「なぜ」、若い人の言葉で言えば「うっそー」と言いたくなるような個所がいくつかありますが、ここもそうした個所のひとつでしょうね。パウロが牢屋に入っている間に、いままでパウロが伝道していたところにも手を伸ばして、そこで伝道したことを自分の手柄にしようとする人たちや、パウロの占めていたリーダの座を奪いとろうとした人たちもいたのです。クリスチャンの間に、こういった競争心や、妬み、また党派心があってはならないのですが、昔も今もそうしたことが起こっているのは事実です。パウロは、そうした現実を見ながらも、誰がどんな動機で伝道したにせよ、それが福音の前進になるのなら、私はそれを喜ぶと言っているのです。「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」(18節)

 パウロは、誤った教えに対しては本当に厳しい人で、ガラテヤ人への手紙などでは「もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」(ガラテヤ1:8)とさえ言っています。また、「党派心、分裂、分派、ねたみ」などは、聖霊に逆らうものだと断言しています(ガラテヤ5:20-21)。パウロ自身は福音を熱心に、また真実に語りました。しかし、パウロがここで、こんなに寛大でいられたのはなぜでしょうか。それは、パウロが一にも二にも、福音が宣べ伝えられることを切実に願っていたからです。福音でないものが福音として伝えられることに、パウロは怒りを覚えましたが、誰が福音を伝えるかについては全く寛大でした。パウロには、「自分で伝えたものでなければ福音でない」というような独り善がりや、「他の人ではだめで、私がしなければならない」という独占心はありませんでした。?コリント3:6で「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です」と言っているように、パウロは徹頭徹尾、福音のしもべとして行動しているのです。だからこそ、パウロを妬んで党派的な行動をしている人たちを、逆に妬み返すようなことをしないで、福音が宣べ伝えられている事実を純粋に喜んだのです。

 アメリカにはたくさんの教団、教派があって、お互いに自分たちのメンバーを増やそうとしています。ベイエリアにもジャパニーズ・チャーチがたくさんあって、狭い地域でそれぞれに伝道しています。それぞれに特色があって、様々な人々のニーズを満たすために用いられています。時には、お互いの間に競争めいたものが無いわけでもありませんが、むしろ健全な競争は、お互いに刺激になり、古いものに凝り固まったり、新しいだけのものに流されてしまうことから救ってくれるでしょう。最初は妬みではじまったことでも、もし、そこに正しい福音があれば、神ご自身がその動機を探り、それを正してくださることでしょう。そこで大切なのは、自分の教会が中心になっていないから、あれは駄目、他の教会の成長はどうでも良いというのでなく、どこであっても、誰がやろうと、そこで福音が広まっているなら、それを心から喜びたいと思います。

 教会の奉仕も同じです。人のしたことは気に入らない、まして、それがうまくいっていると余計に気にいらないということが、いろいろな教会で見られるようですが、それでは、福音は前進しません。誰も、ひとりで全部のことを出来るわけはないのです。お互いに仕事を分け合って、自分のできないことをやっていただいているのですから、少々行き届かないことがあっても、それを寛大な心で受け入れていくことが肝要です。19節に「というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです」とあります。私たちの目が、福音の前進に向けられるために、もっと祈りが必要です。そして真剣な祈りがあるところにご聖霊も働いてくださるのです。もっと多くの人が福音を知ることができるように、そのことに焦点をあわせながら、そのことを喜ぶ私たちでありたく思います。

 (祈り)

 父なる神様。今朝、私たちは、苦しみの中でも「私は喜ぼう!」と声をあげたパウロの信仰を学びました。パウロは、キリストを宣べ伝えることを生涯の使命とした人でしたが、たとえ自分がその使命を果たせなかった時でも、他の人がキリストを宣べ伝えていることを素直に喜ぶことができました。たとえ、それが彼の立場や名誉を傷つけるような仕方であっても、「キリストが宣べ伝えられていること」を喜びました。主よ、福音が宣べ伝えられることなしには、救われる人々は起こされません。人々の救いのために、福音が、キリストが宣べ伝えられていることを、他の兄弟姉妹と、手をつなぎあって喜びあうものとしてください。そして、私たちを福音の前進のために用いてください。主の御名で祈ります。


生きるも死ぬも

ピリピ1:20-26

1:20 それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。
1:25 私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。
1:26 そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう。

 生死を分けるような体験をくぐりぬけると、人は、強くなれると言います。なぜでしょう。多くの場合、そうした体験によって、自分が何のために生きているのかがわかるからです。人生の目的、目標をつかむことができるからです。皆さんの中にも、重い病気をくぐりぬけてこられた方がいらっしゃることでしょう。病室で生死の間をさまよい、回復した方々の多くは、たとえまだ神を良くご存知でない方でも、「ああ、自分は、神によって生かされているんだ。自分の残りの人生は、神のため、人のため何かをするためにあるんだ」と感じるものです。

 私がサンディエゴで奉仕しておりました間、心臓移植のため、日本からおいでになった三人の方と知り合いになりました。その中のお一人、淀川さんという方とは、今もEメールのやりとりがあります。今年のはじめ、奥様からこんなお便りがありました。

 「淀川はずいぶん元気になり、研究書も読めるようになり、一応英語で、あちらでお世話になったドクターたちに年賀状を書けるようにはなりました。階段の上り下りも手すりさえあれば何とかなるようになりました。心配していた不整脈も、良性のものでしたので、もう少し歩く距離を伸ばして、少しずつ鍛えていくつもりのようです。淀川は、『生きよ』と言われていると思っています。在米中から思っておりましたが、移植医療はやはり神の医療です。人知が及ぶものではなく、神の運命としかわたし自身は感じられません。生きよ、といわれた淀川には、より良く、より長く生きる運命が課されていると思います。今年の9月から教壇に戻りますが、人間の命のこと、生きるとはどういうことか、教師を目指す学生たちに伝えて欲しいと思います。」

 淀川さんは、まだ、クリスチャンではありませんので、「神の運命」という言葉を使っていますが、クリスチャンは、神のみこころ、導き、摂理と言うべきでしょうね。淀川さんは、こちらの病院に入院された時から衰弱しきっており、はたして手術に耐えられるのだろうかと思いましたが、多くの方々の祈りにささえられ、昨年の5月に無事移植手術をしました。ところが、その後の経過が悪く、44日間も集中治療室にいて、一度は、「もう持たないだろう」と医者から言われました。44日間集中治療室にいたのは、この病院では彼がはじめてで、日本から来た患者が記録を更新したわけです。しかし、その後持ち直し、リハビリテーションも順調にすすんで、昨年9月に日本に帰られたのです。彼は、心臓移植という大きな経験を通して、自分が神に生かされていることを感じ、自分の使命を果たしたいと願っておられます。彼は移植を受ける前も、良い仕事をしておられたと思いますが、より一層の使命感をもって取り組む、これからの仕事のほうが、もっと良いものになると思います。

 一、使命に生きる

 使徒パウロもまた、生死を分けるような体験を数多く潜り抜けてきた人です。パウロは、およそ15年の伝道旅行の後、紀元59年にエルサレムで捕らえられ、それから61年まで、足掛け3年カイザリヤに閉じ込められ、62年から64年までローマの獄中にいました。合計5年にも及ぶ獄中生活です。私たちが今、学んでいるピリピ人への手紙は、この期間に書かれました。パウロは、その後、釈放され、もう一度伝道旅行に出るのですが、再びローマの監獄に入れられ、殉教の死を遂げることになります。パウロは、この個所で「生きるか死ぬか」について書いていますが、それは決して大げさな言葉でなく、パウロは、この時、生きるか死ぬかの瀬戸際にたたされていたのです。

 そんな中で、まず、パウロは、決して死を恐れないと、言い切ります。「わたしにとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(21節)「死ぬことは益である」とは、どういうことでしょうか。死のどこか益なのでしょうか。神を信じていない人は、「私たちは死によってすべてを失う、死は損失だ、最大の損失だ」と言うでしょう。しかし、キリストを信じる者は、死によってすべてを失うのでなく、むしろ、キリストを、天国を自分のものにするのです。これはキリストを信じる者が持つことのできる確かな約束です。23節に「わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい」とある通りです。たしかに、死によって、私たちは、地上のものを失います。私たちは、この世のものをかの世に持っていくことはできません。しかし、私たちの魂の行くところには、私たちの望むものがすべて備えられているのです。なによりも、イエス・キリストが私たちを迎えてくださるのです。「生きることはキリスト」とは、キリストの命に生かされ、キリストのために生きている私たちにとって、肉体の死は、私たちをキリストと引き離すものどころか、いよいよキリストに近づけるものでしかないという意味です。

 ですからクリスチャンは、いたずらに死を恐れません。いざという時には命がけで事にあたります。けれども、もちろん、命を粗末にはしません。なぜなら、神が私たちを生かしていてくださる間、私たちには、しなければならないこと、神からいただいた使命があるからです。パウロは、「私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(23節)と言いました。パウロにとって、苦しい牢獄生活よりも、「世を去ってキリストとともにいること」、天国に住むほうがもっと望ましいものだったでしょう。しかし、パウロは、ここで自分の願いを引っ込めて、自分の使命を選びます。「しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。」(24-25節)パウロは、「キリストとともにある」という、彼にとっての最高の喜びを捨てて、今しばらくは地上に留まって、他のクリスチャンの信仰の喜びのために働くことを誓うのです。パウロは、生死を分ける体験の中で、もう一度、自分の使命、自分の人生の目的、神に生かされている目的を確認しています。

 皆さんは「人は二度生まれなければならない」というのを聞いたことがありますか。最初の誕生は「肉体の誕生」ですね。それは「人として生まれること」と言っても良いでしょう。しかし、それだけでは不十分なのです。私たちは罪のために、神に背を向けて自分勝手に生きてきた罪のため、神が私たちを造ってくださった本来の姿から大きく離れています。新しく造りかえられる、生まれ変る必要があるのです。そして、私たちを造りかえ、新しくすることが出来るのは、私たちの造り主である神だけです。私たちは自分で自分を変えることができないのです。「三日坊主」と良く言いますが、些細なことでも、自分を変えられるのはせいぜい三日ぐらいです。そして、表面を変えても、内側を変えることができない、それは皆さんも体験済みですね。けれども、私たちがイエス・キリストを信じる時、神が、聖霊によって私たちを神の子として生んでくださるのです。ですから、第二の誕生は、「霊の誕生」、「神の子として生まれること」と言うことができます。これが本当の生まれ変わりです。

 ところが、私は、「人は三度生まれなければならない」ということを韓国の牧師から聞きました。第一の誕生、第二の誕生のうえにさらに第三の誕生が必要だというのです。すべてのクリスチャンは、第二の誕生を経験しています。しかし、第二の誕生を経験しているクリスチャンでも、まだ第三の誕生を経験していない人がいるというのです。その第三の誕生とは、「使命における誕生」、神によって生んでいただいた自分が果たさなければならない神からの使命を確信することです。私たちクリスチャンは、第二の誕生で霊的に生きるだけでなく、第三の誕生によって、使命に生きなければならないというのです。私はこの説明を聞いてなるほどと思いました。日本語で「使命」とは、「命を使う」と書きます。何のために命を使うのか、これが分からずに、私たちはより良く生きることはできません。自分の使命が何であるか分かっている人は幸いです。神からの使命をつかんでいる人は、失敗や困難があっても、簡単に投げ出したり、逃げたりしないで、粘り強く努力し、前進していくことができます。本当の意味で前向きな生き方ができるようになります。ここにクリスチャンの勝利の人生の秘訣があります。

 二、私たちの使命

 では、私たちのクリスチャンとしての使命はいったい何なのでしょうか。パウロの場合は、伝道者として、世界中に出かけて行って神のことばを語り、各地に教会を建てあげ、それを指導することでした。けれども、パウロ自身が言っているように、みんなが伝道者や牧師、教師になるのではありません。「教会はキリストのからだ」と呼ばれています。私たちの体には、目があり、耳があり、手もあり、足もあり、それぞれ、役割分担をしています。みんなが目だったら、体はからだでなくなります。みんなが口だったら、うるさくてしょうがありません。ある人が「わたしは足の裏みたいに、目立たない存在です」とおっしゃったことがあります。でも、足の裏は、全身を支えているのですから、とても大切な仕事をしているわけです。目が耳よりすぐれているわけではなく、口が耳より偉いわけでもありません。みんなそれぞれの役割を果たしているだけなのです。私たちは、役割分担にあまりにも気をとられて、「私は、あの人のように、人を教えたり、導いたりはできないから、自分には使命がないのだ」と思いこんでしまいがちです。役割分担と使命とは違うのです。使命とは、どんな役割をしていようとも、いつも、それが目的に、目標になっているようなもののことを言うのです。

 伝道者であれ、会社員であれ、主婦であれ、学生であれ、私たちが、このために生きるという目標を、パウロは20節で、こう述べています。「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。」

 「私の身によって、キリストのすばらしさが現される」と訳されている部分は、英語では "Christ will be magnified in my body" と訳されています。拡大レンズのことを magnify glass と言いますね。私たちは、キリストの素晴らしさを大写しにして示すレンズなのです。図書館に行くと、マイクロフィルムというのがあります。本の何ページ分もが一枚の大きなフィルムに焼き付けられています。そのまま見たのでは、何が書いてあるのかまったくわかりません。しかし、プロジェクターにかけると、普通の本を読むように、はっきりと文字を読むことができるのです。また、映画のフィルムをいくら眺めていても、そこに写っているディテールは見えません。でもそれが映写機にかけられ、大きなスクリーンに映し出されると、誰でもそれを見ることができるようになるのです。

 もちろん、キリストは、私たち人間が大きく見せなければならないような、小さな存在ではありません。世界の何よりも偉大なお方です。しかし、まだ神を信じない人、キリストを受け入れていない人々には、キリストは、ちっぽけなものにしか見えないのです。私たちが、キリストを無理やりに拡大するのではありません。キリストの本来の大きさが見えるようにする、それが私たちの使命です。どうやって?それはそれぞれ、その人の置かれた立場、与えられた賜物によって変ってきます。しかし、方法はどうあれ、私たちに共通した使命は、他の人々に、私たちではなく、私たちの生き方を通してですが、キリストを見ていただくことです。

 パウロは、「生きても良し、死んでも良し。生きるか死ぬかは、自分にとって大きな問題ではない」と言いました。彼がそういうことが出来たのは、人々にキリストを見ていただくという使命に心が向けられていたからです。生きるとか、死ぬとかいうのは、神からの使命を果たすための手段にすぎないのです。もし、使命を果たさずに命をながらえていても、それは、死んだも同然、たとえ、命を投げ出してでも使命に生きるなら、その死は、無駄にはなりません。私たちの命は神から与えられた仕事のために使ってこそ、価値があり、永遠の命につながるのです。

 生きるか死ぬか、そこを通って来た人の多くは、自分の使命を考えるようになることでしょう。しかし、たとえ、そのような危機的な体験がなかったとしても、生きるか死ぬかよりももっと大切な使命、「私の身によって、キリストのすばらしさが現される」ということをしっかりと握り締めていることができているなら、それで良いので、何も進んで危機的な体験を求める必要はないのです。自分の使命を理解しているなら、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされても、それによって私たちは、そこを平安をもって乗り越えていくことができるのです。私たちが神に造られた目的、救われた理由、生かされている意味を、しっかりとつかみとることができるよう、祈ろうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神様、パウロは、生きるか死ぬかの瀬戸際でも「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」を求め続けました。彼は自分の使命を知り、人生の目的に向かって生きていました。そのことが、彼にこのように大胆な確信を与え、その確信から平安と喜びが生まれてきました。主なる神様、私たちも「私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」のために、あなたに造られ、救われ、生かされています。私たちが、平安と喜びを失う時は、この使命への確信を失っています。私たちを常にそこにたちかえらせ、キリストの偉大さを人々に示すものへと導いてください。あらゆるものを超えて偉大な主イエスの御名で祈ります。


福音にふさわしく

ピリピ1:27-30

1:27 ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、
1:28 また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。
1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。
1:30 あなたがたは、私について先に見たこと、また、私についていま聞いているのと同じ戦いを経験しているのです。

 ピリピ人への手紙一章二十七節から三十節までを司会者に読んでいただきましたが、今朝は、二十七の「福音にふさわしく生活しなさい」とのおことばに焦点を合わせて学ぶことにしましょう。「福音にふさわしく生活しなさい。」この勧めには、どのような意味があるのでしょうか。

 一、市民として

 実は、ここで「生活しなさい」と訳されている言葉は「ポリテュウオマイ」と言って、「ポリス」という言葉から出た言葉です。英語でポリスというと、「警察」という意味ですが、ギリシャ語では「国家」という意味があります。かって、ギリシャは小さな町のひとつひとつが国家でした。これが「都市国家」、ポリスと呼ばれたのです。英語のポリスというのは、ポリス、都市を守る者という意味からつけられたと言われています。「生活しなさい」というこの言葉には、「市民権を持つ」「市民である」「市民生活をする」という意味があります。ピリピはローマの植民地で、ピリピの人たちは、ローマの市民権を持っていましたから、パウロのこのことばをよく理解できたと思います。「福音にふさわしく生活しなさい」というのは、ピリピのクリスチャンに、「ローマ市民として、社会人として恥ずかしくない生活をしなさい」ということを勧めていることになります。

 聖書は、信仰に熱心であれば、社会生活はどうでもいいとは教えていません。教会では熱心に活動していて、リーダシップを取っていても、社会に出ると誰からも信頼されないということであってはならないのです。社会で通用しないから、教会という小さな世界で、大きな顔をしているとしたら、それは、本当に不幸なことです。聖書は、教会のリーダは、「教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう」(?テモテ三・七)と警告を与えています。もし、私たちが、隣人を思いやり、法律を守り、税金を納め、投票に行く、コミュニティでの責任を果たすなどという、市民としての義務を果たさないでいて、「聖書はこう言っている」「福音は、こう教えている」「私は教会のことが忙しいからそれはできない」と言っているなら、それは、「福音にふさわしい社会生活」をしていることにはならないのです。社会生活を通して、福音をあかしすることができないのです。

 日本でのクリスチャン生活は、アメリカでの生活よりも、はるかに困難です。都会から離れて地方に行けば行くほど、難しいのです。私と家内は、名前のおかしい町で伝道していました。新潟県の「名がおかしい」という町、「長岡市」です。最初、牧師館は教会の二階にありました。その時は、家内がちょうどひとりで、教会にいて、まだ赤ん坊だった長女の世話をしていました。そこに、町内会長さんが見えました。階段の下から呼ぶ声がしたので、家内は返事をしたのですが、すぐには降りていくことができませんでした。それで、気の短い町内会長さんは、腹を立てて帰ってしまったのです。家内は、すぐに会長さんのところに言ってていねいに謝りました。そうしたら、会長さんは、そのことに感激して、それからは、私たちにとても親切にしてくださるようになりました。私は、町内会の班長の仕事をしたこともあり、神社やお寺の寄付集めのをしなければならないことがありましたが、会長さんに、事情を説明すると、快く特別なはからいをしてくれました。新しい会堂を建てて引っ越す時には、ポケットマネーからお餞別をいただいたほどでした。小さなことかもしれませんが、社会人として、なすべきことをして行くときに、何らかの意味で福音をあかしできるのです。それから、付け加えておきますが、新しい会堂を建てたときは、牧師館を一階にしました。

 私が最近目にした文章に次のようなものがあります。Bryan Jeffery Leech という人の祈りのことばなのですが、こう言っています。「父よ、私があまりに敬虔になりすぎて、実際生活の中からあなたを締め出すことのないようにしてください。」("Father, keep me from being so pious that I keep You out of the practical areas of life.") これは間違った「敬虔さ」に対する警告ですが、考えさせられますね。「聖霊のまじわり」を祈り、求めている私たちは、聖霊が教会のまじわりの具体的な、実際的なことがらの中に一致を与えてくださるように祈り求めていきたいものです。私たちお互いが言葉だけでなく、実際の行動の中に、聖霊が生み出してくださるまじわりを、一致を表わしていきたいものです。聖霊に導かれるとは、日常のことを超越してしまうことではなく、むしろ、日常の義務を、聖霊の助けを頂いて、喜んで、果たしていくということなのです。聖霊ご自身は、目に見えないお方、隠れて働かれるお方ですが、聖霊は常に、目に見えるもの、形あるものを、私たちのうちに生み出してくださるお方なのです。

 二、天国の国民として

 「福音にふさわしく生活しなさい。」この言葉の第二の意味は、天国の市民として生活しなさいということです。ピリピ3:20に「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」とあります。素晴らしい言葉、希望に満ちた言葉ですね。ここに集っておられる多くの人は、アメリカの市民権を持っていらっしゃるでしょうけれど、それは、大人になってから獲得したものであって、生まれつきのものではありません。私たちの多くは半分はアメリカに属し、半分は日本に属しているという複雑な気持ちで生活していることでしょう。けれども、クリスチャンになった時、私たちは、もう一つの特別な国籍を持つようになりました。それは、天国の国籍です。そして、教会には、いろいろなナショナリティを持った人たちが集まりますが、みんなが天国に国籍を持つようになったということで、一致し、一体であることを喜びあうところなのです。アメリカの国が実に数多くの移民によって成り立っていながら、不思議にひとつのまとまりがあるのは、クリスチャニティが大きく貢献していると思います。

 ただ、今日のアメリカでは、クリスチャンであるということが、名前だけのものになっているのは残念なことです。けれども、パウロの時代のクリスチャンは、クリスチャンになったとたんに、迫害がありましたので、名前だけのクリスチャンでは通用しませんでした。当時は、今日のように「教会堂」というものは無く、資産家でクリスチャンになった人たちが、彼らの大きな家を礼拝の場所、集会として提供したのです。ローマ人への手紙16:23に「全教会との家主ガイオから、あなたがたによろしく」とありますが、ガイオという人は、自分の家を教会に提供したうちのひとりでした。迫害が起こったときに、真っ先に攻撃されたのは、実は、このようなクリスチャンの資産家でした。領主や総督たちは、教会に貢献している資産家に、無理難題を押し付けてその資産を没収しました。集会の場所を奪うことによって、クリスチャンの一致、団結を崩し、あわせて没収した財産で私腹をこやすという、一挙両得を狙ったのです。しかし、ガイオを始め、忠実な教会のサポータたちは、それで信仰を棄てたり、ひるんだりはしませんでした。自分たちが、天国の国民であること、神の国に宝を積んでいることを覚えて、喜びをもって、前進していったのです。

 私たちは、天国の国民です。私たちのゴールは天にあります。?ペテロ2:9−10にそのことが、こんなに麗しい言葉で、描かれています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。」たとえ、クリスチャンであるからと言って市民権を奪われたり、排斥されたとしても、あなた方の国籍は天にあるのだ。地上の財産が奪われても、あなたがたの宝は、天に蓄えられているのだと、教えられているのです。私たちは迫害の無い社会に住んでいますが、それでも、何の苦しみもない生活をしているわけではありません。家族の問題、自分の健康のこと、人間関係のこと、さまざまな苦しみがあります。神のために何かを成し遂げようとすれが、必ずといってよいほど、困難がやってきます。しかし、私たちには天国の希望があります。この希望があるからこそ、私たちは、この世での困難に立ち向かうことができます。私たちは、地上では旅人であり、寄留者であることを覚えていましょう。けれども、私たちは「旅の恥は掻き捨て」といったことはしません。ペテロの第一の手紙は、続けて、こう言っています。「愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。」(11-12節)地上で、福音のためにきちんとした生活をしていく時、私たちがクリスチャンであるからというので、私たちを軽蔑したり、攻めたりする人にも、福音をあかしし、その人たちを救いに導くことができるというのです。

 クリスチャンの生活は、決して浮世離れしたものではありません。それは、地に足のついたものです。しかし、私たちは、人々が快楽だけを追いかけ、金銭だけを求め、自分の名誉にこだわるような生活に流されてはいきません。私たちが、きよい生活をこころがけるのは、神を愛するゆえです。自分を後回しにするのは、人々に仕えるためです。私たちが勤勉にはたらくのは、神のお与えくださった使命のゆえです。福音の与える救いのよろこび、天国の希望、それが、クリスチャンの生活の原動力です。福音、神の救いのメッセージを信じ、受け入れて生きる、それこそが、「福音にふさわしい生活」なのです。あなたも、このような、いさぎよい、すがすがしい生活にお入りになりませんか。イエス・キリストを信じ、キリストと共に生きる人生に、今日も、神は、あなたを招いておられるのです。

 三、教会のメンバーとして

 「福音にふさわしく生活しなさい。」それは、第一に、福音をあかしするために、きちんとした市民生活をすることでした。第二に、福音が与える天国の希望のゆえに、この地上にありながら、天国の市民として生活することでした。「福音にふさわしく生活しなさい。」この勧めは、第三に、「教会員として、教会生活をすること」を意味しています。

 みなさんは、「教会」がギリシャ語で、「エクレシア」と呼ばれていることを、ご存知ですね。「エクレア」ではありません。「エクレシア」です。最初に、「ポリス」というのは、「都市国家」という意味だと言いましたが、このポリスを治めるために開かれた議会が「エクレシア」と呼ばれたのです。「エクレシア」とは、文字通りには、「呼び出されたもの」「召集されたもの」という意味です。議会の日になると、選ばれたものたちが、町のあちらこちらから、小高い丘の上に建てられたアクロ・ポリス、神殿に上っていくのです。そして、この議会で決定されたことにしたがって、ポリスが治められていくのです。

 教会がエクレシアと呼ばれている意味を考えてみてください。私たちの住んでいる世界は、科学や技術はどんどん進歩しています。しかし、人間の心の問題となると、何も進歩していないどころが、かえってどんどん悪くなっていく一方です。医学が発達しても、その恩恵をうけられるのは、世界の何分の一かの人々だけです。21世紀になろうとしているこの時代に、今も、食べ物がなくて死んでいく人、アメリカや日本でだったら、簡単に直せる病気で死んでいく人が大勢いるのです。人々の心から憎しみが消えないために、たえず、どこかで戦争があります。日本では、みんながセルラーフォンをを持っていて、家族同士でも、セルラーフォンで話すそうです。「るる〜。ご飯できたけどたべる?」といった感じです。いつでも、誰とでも話すことができるコミュニケーションの技術は発達しました。しかし、家族の間で、クラスメートの間で、職場のチームの中で、心の通ったコミュニケーションができていないのです。日本でも、アメリカでも、20歳前後からそれ以下の若者たちの犯罪が増えています。それは、若者たちが、彼らの将来をとても悲観的に考え、心に大きな不安を持っているからです。私たちの地球の環境が汚染され、狂いだしているばかりでなく、私たちの心も汚染され、人々は暗い闇の中に閉じ込められているのです。

 神は、そんな私たちを救うために、イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。イエス・キリストによって、私たちの心の汚染をきよめ、闇を光に変えてくださっているのです。神は、キリストを王とする、喜びの王国、義の王国を、今、この世界に広げてくださっているのです。それが、神の国です。神の愛と恵みの支配です。クリスチャンは、この神の国の国民にされたのですが、それと同時に、神の国の議員や大使に選ばれているのです。クリスチャンが福音のために生きる時、福音を伝えていくとき、そこに福音を聞いてキリストを信じる人々が起こされてきます。それは、とりもなおさず、神の愛と恵みの支配がそこに及んだことになります。クリスチャンは、地上の権力によってではなく、神の愛と力によって、国境を越えた神の国の統治にあずかっているのです。これは、すごいことだと思いませんか。私たちが教会についてどう思おうと、人々が教会についてどう考えようと、教会は神の目には、決して、小さいものではないのです。教会は、governing body であり、私たちは、その一員として神に召されているのです。私たちが、イエス・キリストを知るようになったこと、キリストを信じることができたこと、バプテスマを受けて教会のメンバーになったこと、それは、私たちが、他の人の救いのために奉仕するようにと、選ばれたという意味なのです。私たちも、選ばれて、生ける、まことの神の宮に来て、神の統治に、私たちも参加するのです。日曜日の礼拝のたびに、私たちは神の会議、エクレシアに、召集されています。この礼拝で、私たちは、神の国の議員であること、神の国の大使であることを、自覚し、確認したいと思います。

 私たちが福音を光を届けなければ、人々はキリストを知ることができません。また、私たちが福音にふさわしい生活をしていなければ、人々はそれを信じることができないでしょう。しかし、そのことができるためには、教会が、まず、福音のメッセージをしっかり保っていなくてはなりません。教会のメンバーのひとりびとりが、福音を伝えるという使命を自覚していなくてはなりません。福音を伝えることは、ひとりではできない仕事です。教会はこの使命のために、ひとつになっていなければならないのです。「ただ、あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そして、わたしが行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い、かつ、何事についても、敵対する者どもにろうばいさせられないでいる様子を、聞かせてほしい。」今朝、もう一度、教会に、また、私たちお互いに、福音を伝える使命が与えられていることを確認し、それに応えていこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神様、「福音にふさわしく生活しなさい」とのおことばを感謝いたします。私たちの回りの人々の信頼を勝ち取ってはじめて、私たちは、神への信仰を伝えることができます。福音をあかしするために、私たちが良き市民として、生活することができますように、お助けください。また、私たちが天国の国民であることを忘れることなく、生活させてください。地上のものに縛られない生活によって、天国の希望を告白していくことができますよう、お導きください。また、私たちが、福音を伝えるために、選びだされていること、使命をあたえられていることを、自覚させてください。私たちの教会を福音のために心を合わせ、力を合わせて働くものとしてください。主イエスの御名で祈ります。

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