USA Diary

June, 2018

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6月1日(金)床屋に行きました。夏向けに短くお願いしましたが、「毛がすくないので、あまり短くはできなかったけど、まあ、夏向きになりましたよ」と言われてしまいました。「薄い髪 ちょいと切るだけ 二十ドル」
6月2日(土)礼拝メッセージの翻訳チームに新しく加わってくれる人がいて、とても助かっています。ひとりの人は私の原稿をよく読んで、コメントをつけてくれます。私は、それを参考にして日本語の言い回しの不正確なところを書き換えたりもしています。日本語では、曖昧でも伝わってしまうことも、英語では厳密に表現しなければならないことが多いものです。翻訳作業によって、日本語のメッセージを整えることができ、感謝しています。「翻訳の 副産物に 助けられ」
6月3日(日)夕礼拝では、アーモ先生がローマ兵の姿で、武具を身につけ、その使い方を実演してくれました。エペソ6:14-17にある真理の帯、正義の胸当て、信仰の盾、平和の靴、救いの兜、御霊の剣という神の武具を目に見える形で理解することができました。「今晩は 目で見る聖書 読んだ夜」
6月4日(月)夕礼拝でのアーモ先生のお話をブックレットにまとめました。英語のままですが、そのうち、日本語にもしてみたいと思っています。以前作った「使徒信条」「十戒」「主の祈り」の簡単な解説書を欲しいという声があったので、それをもういちど印刷し直すための作業をしていますが、それといっしょに送ってさしあげたいと思っています。「時々は 書斎を出て 背を伸ばす」
6月5日(火)「使徒信条」「十戒」「主の祈り」のテキストブックのファイルを作り直しました。かれこれ20年も前に書いたものですが、読み返してみて、今でも十分に通用すると思いましたので、書き換えることなく、そのまま印刷し、送りました。今、同じ主題で書いても、おそらく、あまり変わらないものを書くだろうと思います。それは、私の神学思想が発展していないからではなく、真理が持つ恒久性のゆえだろうかと思ったりしています。「教材は 使ってくれる 人あれば」
6月6日(水)書きはじめたものの、まだ筆の進まない「教会論」があります。「今年のうちには」と思いながら、催促してくれる人もいないので、完成が伸び伸びになっています。「多すぎて 書ききれないで いる思い」
6月7日(木)私の知っている牧師は、月刊誌に連載したものを単行本にして、100冊近い本を出していました。毎月の締め切りを守っていれば、おのずと、本が完成する仕組みで、よいアイデアだと思いました。アメリカの牧師たちは、シリーズものの説教をし、それをまとめて本にしています。「本読まぬ 時代に作家 苦労する」
6月8日(金)「米朝会談」が近づきました。韓国の教会ではどんなに祈りが捧げられていることでしょう。横田めぐみさんの母親は、娘さんの拉致事件のあと、クリスチャンになりましたが、彼女を中心にして日本のクリスチャンも毎月、祈りの集まりを持っています。主がこうした祈りを聞いてくださるようにと、私も、礼拝の祈りを準備しました。「それぞれの 悲願を背負う 大統領」
6月9日(土)家内といっしょに近くの Half Price Book に行きました。古本屋さんですが、新しい本も安く買えます。欲しい本がありましたが、今、読む時間があまりないので、家内がブックマークだけ買って帰ってきました。「書店にて 目次眺めて ヒント得る」
6月10日(日)きょうの礼拝では家内がピアノを弾きました。どの曲でも自由に弾けるわけではないので、家内が選曲し、「立てよ、いざ立て、主のつわもの」を選んだのですが、こちらの賛美歌集では別の歌詞が割り当てられていて、いまひとつ、しっくりいきませんでした。「軍隊」や「兵士」というイメージは、平和を求めるべきクリスチャンにふさわしくないという考えもあるようですが、もし、その理由で歌詞がさしかえられたのなら、残念に思います。教会が主の軍勢であることは、聖書的なイメージだと思うからです。「主の軍歌 歌ってみたい 力込め」
6月11日(月)きょう、トランプ大統領とキム委員長との歴史的な会談が行われました。つっこんだ取り決めには至りませんでしたが、ともかくも合意文書に署名するところまでこぎつけました。アメリカ側がかなり譲歩したように思いますが、今回の会談が今後の交渉の第一歩となったことと思います。「平和への 歩みは一歩 一歩から」
6月12日(火)10日に行われた「ハーベスト・アメリカ」での、グレッグ・ローリ先生のメッセージが YouTube にアップロードされました。さっそく教会のメンバーに知らせました。今度の日曜日の昼食後、みんなで観てみたいと思っています。「時経ても 変わらぬ福音 人救う」
6月13日(水)母校には「教会音楽科」があって卒業生が各地で奉仕をしています。その様子が、「教会音楽ニュースレター」に掲載されていました。賛美を歌うときやその伴奏をするときに心がけることが書かれていました。とても大切なことが書かれていたので教会のメンバーに読んでもらいたいと思っています。「礼拝で 歌が賛美に 変わる朝」
6月14日(木)母校からの「教会音楽ニュースレター」に書かれていたことは、「歌詞をよく読む」ということでした。ごく基本的なことですが、基本的なことがおろそかにされているために、音楽が賛美のために生かされないのだと思います。「基礎」「基本」ほど大事なものはありません。音楽が少しできる人は、基礎、基本をないがしろしがちで、いきなり高度なことに入ろうとします。それは音楽や芸術ばかりでなく、スポーツでも同じです。プロ選手の中には基礎訓練をいやがる人もありますが、そういう人の選手寿命は短いと言われています。「基礎訓練 積めばかならず 勝利来る」
6月15日(金)母校の通信には、他にも有益な記事があり、とても励まされます。わざわざ海外にまで郵送していただきほんとうにありがたく思っています。「日本から 私を励ます 定期便」
6月16日(土)今週は日曜日のための準備が早く進んだので、きょうはふだんより早く休めるかと思いましたが、ハプニングがあって、結局、いつもどおりになってしまいました。それでも、ハプニングに対応できたのは、準備が進んでいたからなので、何事においても早めの準備が大切なことを改めて感じました。「目を覚まし 備えていよと 主の教え」
6月17日(日)教会に「ハーベスト・アメリカ」での、グレッグ・ローリ先生のメッセージビデオの DVD を作り、教会に持っていきました。「観たい人がいれば、昼食後プレイします」と言ったのですが、誰も興味がなかったので、観ませんでした。こうしたことに対して反応が鈍いのを、いつも残念に思います。「求めたい 心沸かせて 子のように」
6月18日(月)「父の日」に娘からもらったブックマークに“Life is not a race - but indeed a journey. Be honest. Work hard, Be choosy. Live for today, enjoy the morment.”とありました。Bonnit L. Mohr という人の言葉です。「人生は競走ではないが旅である」というのは、他者との競争に明け暮れして、ラットレースに没頭している人への警告でしょう。しかし、キリスト者にとっては、天への旅を妨げるものがあるので、それと闘うという意味では、「人生は競走」かもしれません。人生は旅ですが、それは、鼻歌まじりで、のんびり、ぶらぶらというわけにはいけない、きちんと身支度をし、目的地を目指すべきものなのでしょう。「人生の 旅路導く 主の言葉」
6月19日(火)きょう、ほんの少しだけですが通り雨が降りました。もっと降ってほしかったのですが、全く降らないよりはましです。昨日、雨樋を掃除したので、雨樋の水の流れも大丈夫でした。木の枝が屋根に届くまでには至っていませんが、もう少し伸びたらまた枝を切らなくてはいけません。自分で切れるかと思って、柄の長いノコギリを買ったのですが、うまくいきませんでした。業者に頼んだほうがよいようです。「枝を張れ 主の教会も 木のように」
6月20日(水)以前“Exodus”という DVD を買ってあったのですが、機会がなく、そのままになっていました。きのう見たのですが、そこに登場するモーセは「戦士」として描かれていました。ユダヤ反乱軍のリーダーとして武力で出エジプトを図るのですが、それは役に立たず、神の力で出エジプトを果たすというストーリーになっていました。興味深い視点だと思いました。「戦わぬ 信仰の人 誰もいぬ」
6月21日(木)バプテスマ槽を借りに行きました。お借りしたのは Rabermaid の Stock Tank で 150 ガロンの容量があるものです。中に入って試してみましたが、底の長さが 5 フィートもないので、バプテスマを受ける人は膝を折ってもらう必要があります。300 ガロンのタンクだと、十分な長さがあり、バプテスマを授ける人も中に入れそうです。アマゾンで 150ガロンのものが 210ドル、300ガロンのものが 400ドルで売っていました。日本で使っていた錦鯉の水槽はちょうど良いサイズで、とても使いやすかったのですが、こちらでは手に入りません。「聖霊よ 天より臨め バプテスマ」
6月22日(金)家内と買い物に行きました。いつもはセルフ・チェックアウトを使うのですが、きょうは特価品についてくるギフトカードをもらうため、レジスターを通りました。私の前の人が絵本を買っていたので、店員が「お孫さんのためですか」と聞くと、買い物客は、「夏休みを利用して一ヶ月遊びに来るんです」と答えました。「どこからですか」「カンボジアから。30時間もかかるんですよ」「どのくらい会ってないんですか」「一年ぶりですの」やさしいそうなおばあさんと、人なつこい店員の会話はほほえましいものでした。「客でなく 人に向かって 語るレジ」
6月23日(土)きょうは午後から教会に行きました。午前中より車が多く、行き帰りに時間がかかりました。いつも通る道の工事は少しづつしか進んでおらず、運転しづらいものでした。橋の工事は時間がかかるとしても、他の舗装工事はもうすこし、はやくやってほしいと思います。「のろのろの 工事に車 のろのろと」
6月24日(日)きょうは帰りが遅くなり、礼拝のメッセージをアップロードしたのは午後10時近くになってしまいました。それでも聞いてくださる方の耳に届けばうれしく思います。ときどき喉の調子が悪く、お聞きぐるしいところがあるのは申し訳なく思っています。メッセージにはスライドがあるのですが、スライドと連動してメッセージを配信できるとなお良いかと思います。そのうち研究してみようと思っています。「きょうもまた 届けみことば 心まで」
6月25日(月)私たちの教会には規則や組織がきちんとできていないので、そのことをしっかりしなければと思っています。教会の規則や組織、また会議のリードは、私の得意な分野なのですが、たんに文章を書き、組織図を描いたからといって、それで教会が動き出すわけではありません。その前にしなければならないことをしてきたつもりですが、その成果がまだ表われていません。「教会は 主のからだだと 教えられ」
6月26日(火)教会の規則や組織は教会員全員でつくりあげるものだとは思いますが、多くの信徒は、会議のために教会に来るのではなく、礼拝、つまり、みことばと祈りのために来るのです。そうしたことは、そのために選ばれた人々に任せ、教会では、もっと教会ほんらいの使命に集中できるようにしたいと思います。それが、エルサレム教会で七人が選ばれたことの精神であろうと思います。「運営は 神の選びに 委ねつつ」
6月27日(水)今日の祈り会は出席者が運営委員会のメンバーだけでしたので、委員懇談会のようになってしまいました。今後の月例信徒会の持ち方について、少し修正を加えることなどを話し合いました。「失敗を 通して学ぶ 私たち」
6月28日(木)他州で日本語教会を導いておられる牧師とスカイプで会話しました。スポンサー教会が集会場だけでなく、牧師館までも無償で提供して、日本語教会を支えているということを聞きました。決して大きくないスポンサー教会なのに、福音から遠く離れている日本人のためにと、愛の犠牲を払っていることを知って、神に感謝しました。「人々の 愛の犠牲に 答えたい」
6月29日(金)家内と私はいままで 4枚の CD を作ってきました。賛美とショートメッセージを組み合わせたもので、病院やケア・ホームにいらっしゃる方、いろいろな事情で教会に行けない方など、いわゆる "homebond" と呼ばれる方のことを念頭においています。音楽として聴くよりも、メッセージに耳を傾け、そこで歌われている歌をいっしょに口ずさんでいただくためのものです。今、5枚目の CD のために楽器の録音中ですが、それが、「演奏」ではなく、「賛美」となるようにと、祈りながら行っています。「音楽を 賛美に変える 聖霊よ」
6月30日(土)明日は、他の人のメッセージですので、私は通訳に回ります。きのう訳した英語にもういちど目を通し、スライドを確認して、早めに休もうと思っています。「主の日には ベストで臨む こころがけ」
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