USA Diary

June, 2019

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6月1日(土)このところ土曜日はいつも雨です。けれども今日夕方までは晴天でした。夕方雨になりましたが、今までのようなひどい雨ではありませんでした。6月になりましたが、まだそんなに暑くはないのが、ありがたいです。
6月2日(日)きょうは英国教会の礼拝に出ました。聖書のストーリーが描かれたステンドグラスがたくさんある、美しい会堂でした。オルガンは二階バルコニーにあり、コワイヤも小人数ですが、オルガンの傍で歌いました。礼拝中、会衆席から見えないので、礼拝者の目を礼拝されるべきお方にむけさせてくれるので、とてもよいと思いました。多くのプロテスタント教会では講壇はあっても祭壇がなく、最近は講壇すらなく、そこはミュージシャンのためのステージになってしまっています。これは、考え直さなければならないことだと思います。
6月3日(月)5月中に、『日々の聖句』の7月分の初稿を書きましたので、きょうはそれを編集しました。校正して来週には発行できるようにしたいと思っています。まだ編集中ですが、小冊子注文ページからは注文できるようにし、そのことをメーリング・リストで知らせました。
6月4日(火)きょうは、家のまわりの植え込みを刈りました。木曜日に、折れた木の枝といっしょに、刈った植え込みの先端を回収してもらうためです。植え込みの背があまり高いと見た目もよくありませんし、はしごを使わないと刈れなくなってしまうので、一定の高さに保っておくためです。これは年に2回で済むことなので、草刈りよりも楽です。
6月5日(水)蚊の季節となりました。以前日本に行ったとき、「電気蚊取り」を買ってきて、今でも使っています。それは、液体の除虫成分を電気ヒータで暖め、成分を発散させるものです。きょう似たようなものを Lowes で見つけたのですが、それは、マットに染み込ませた除虫成分を熱源カートリッジで暖めるもので、屋外で使うように作られていました。名前も Patio Shield となっていました。マットと熱源カートリッジを買わなければならないので、頻繁に使うには経済的ではありません。
6月6日(木)インターネットで配信している日曜日のメッセージは、ニケア信条にある「ひとつの」「聖なる」「公同の」「使徒的」教会の、「使徒的」の部分から準備しました。これで「使徒信条」の「教会」の部分を終えましたが、教会論については、ずっと以前から書きはじめて、まだ完結していないものがあります。そちらも、先に進めたいと思っています。
6月7日(金)『日々の聖句』の7月分がようやくできました。印刷版の郵送は、来週にでもと思っています。8月分は「教会」についてです。アメリカでは「イエスは好きだが、教会は嫌い」とよく言われ、とかく制度的な教会は嫌われ者になっています。教会への本当の愛を発見してもらえるような黙想集を書きたいと願っています。
6月8日(土)今週はバイブルスタデーが無いので、サンノゼの教会で毎年年末に話した、ヨハネの黙示録の七つの教会へのメッセージを小冊子にまとめています。10数年以上も前に書いたものですが、アメリカにある教会の状況は、その時とはすこしも変わっていないように思います。ですから、これをもう一度発表するのにもなんらかの意義があるように思いました。
6月9日(日)ペンテコステの礼拝を守り、家に帰ると、急に空が暗くなり、雹が降ってきました。二千年前のペンテコステには使徒たちの上に「炎」が降ったのですが、きょうは、なんと「雹」でした。この時代には、私たちの心を燃やす聖霊の炎が下らないのでしょうか。
6月10日(月)中国映画「赤壁」をインターネットで観ました。劉備は呉との同盟によって曹操の追撃を逃れようとします。孔明が呉に行き、呉の孫権を説いて、曹操と戦わせ、呉の将軍周瑜が赤壁に集結していた水軍を壊滅するという物語です。吉川英治の「三国志」では周瑜が何度も孔明を殺害しようとしますが、映画では周瑜と孔明が友情で結ばれていくように描かれていました。周瑜と妻小喬との夫婦愛や孫権の妹孫尚香の活躍などを現代風に描いており、なかなか見ごたえのある映画でした。
6月11日(火)Amazon Kindle が今、セール中です。私は10年以上 Kindle を愛用しており、いろんな人に勧めているのですが、皆さん、あまり興味を示しません。Kindle 端末には、メールで文書を送り込む機能があるので、私が作っている小冊子も、メールで Kindle 端末に配信できれば、お互いに便利なのにと思っています。
6月12日(水)何人かの牧師が Amazon で本を出版しています。私も小冊子シリーズが起動に乗ってきたら Amazon で出版してみようかと考えています。小冊子シリーズは今のところ「クチコミ」の宣伝だけですので、そんなに多くの注文はありません。もう少し多くの人たちに読んでもらいたいと思っています。
6月13日(木)「黙示録の七つの教会」の校正にかかっています。ページ数に限りがあるので、かなり削らなければならないうえ、直すところが多くて苦労しています。
6月14日(金)使徒信条からのメッセージ、「教会」についての部分が、いちおう区切りがついたので、「黙示録の七つの教会」をしばらくとりあげることにしました。以前に書き、今校正中の原稿が役立っていますが、今回は前回とりあげなかった部分に触れていき、同じことの繰り返しにならないようにしたいと思っています。
6月15日(土)学校が夏休みに入っているので、車の行き来もすくなく、静かになりましたが、近所の通りの水道工事がまだ終わっていません。わずかな区間ですが片側通行になっているので、注意しながら車を走らせでいます。夏休みが終わるまでは完成しそうですが、工事中の道路沿いの家の人達は、何ヶ月も不便なことだったろうと思います。
6月16日(日)天気予報どおり午後4時から雷雨となりました。その少し前、警報が鳴りました。きょうは、雹は降らず、木の枝も折れたりしませんでした。それにしても、今年は、毎日風が強く、嵐の日が多い5月と6月でした。
6月17日(月)きょうは買い物には出かけず、先に録音したメッセージと賛美の CD の制作にとりかかりました。2007年に最初の CD をつくり、2008年、2010年、2012年と制作してきました。テキサスに来てからブランクができましたが、昨年録音したものに手を加えて、なんとか2019年版を作りたいと、作業をはじめています。
6月18日(火)ダラス方面に出かけました。この一ヶ月ほどの嵐のため街路樹が折れ、それを切ったものがあちらこちらに積み重ねられていました。私の町でも折れた木の枝が各家庭から道路わきに出されていますが、毎週回収されるので、ダラスのようにそれがうず高く積み重なっていることはありません。ダラスでは大型ゴミの回収が月一回ですし、町が広いのでなかなか行き届かないのでしょう。
6月19日(水)私たちの町からそんなに遠くないグリーンヴィルという町が竜巻の被害に遭い、教会の屋根の一部が剥がれるなどの被害がありましたが、町の人には誰も怪我などはなかったようです。
6月20日(木)竜巻が通過するときや、ゴルフボールより大きな雹が降るとき、また 70 mph 以上の強風のときにサイレンが鳴ります。わが家はサイレンが見えるところにあるので、家の中にいても、すごく音が響きます。サイレンが聞こえたら、家の中に入り、できるだけ、窓から離れたところにいるようにとのことです。私は、サイレンが聞こえたらラジオをつけて情報を聞くようにしえいます。ホームセンターで竜巻用の鋼鉄製シェルターが売られていますが、このあたりではシェルターを設置している人はどれだけいるのでしょうか。ベッド型のシェルターが一番手軽でベッドの下に潜り込んで竜巻の通過を待つことができるようになっています。自分で組み立てて設置でき、引っ越すときに持っていくことができます。ただ高さが 20インチあるので、この上にベッドを置くとベッドがすごく高くなるので、それも考えに入れたほうがいいでしょう。
6月21日(金)Christianity Today の編集長マーク・ガリ氏が「福音派の危機」についての記事を公開しています。彼の福音派の定義は、「神への飢え渇きを持つ人々」で、このことについて、彼はダビデ、パウロ、クレルヴォーのベルナルドゥス、ブレーズ・パスカル、ノリッジのジュリアンまたアウグスティヌスを引用しています。この「神への渇望」はガリ氏によれば、福音派の初期に見られたのに、今日、それが様々な理由で無くなっていると言っています。彼はジョージ・ホイットフィールド、ジョン・ウェスレー、ジョナサン・エドワーズらと、リバイバルを高く評価しています。
6月22日(土)ところが、チャールズ・フィニーはリバイバルを起こるべくして起こる「社会現象」とし、「神への渇望」を方法論にし、フィービー・パーマーは、「全き潔め」を求めるあまり、「神への渇望」を道徳的完全を求めることに変えてしまったと言っています。一方、「社会福音」の立場をとる人たちは、神を「使命」達成のための手段にしてしまったと、ガリ氏は言っています。私は、フィニーもパーマーもウェスレー、ホイットフィールド、エドワーズと同じラインのある人々と見ていたので、この見解には目を開かれる思いがしました。
6月23日(日)アジア、アフリカ系の教会に行ってみました。牧師がアフリカ系の方で、牧師夫人は白人ですがベトナムなどで伝道していたので、さまざまな人種が集まっていました。私はバイリンガルの教会しか体験していないので、マルタイ・エスニックの教会については、うまくいくのだろうかと少し心配になりました。この地域に引っ越してきてまだ半年の教会で、みんな一所懸命な様子が伝わってきました。主の助けを祈りました。
6月24日(月)ガル氏の記事を続けて読んでいます。ガル氏は、いわゆるペンテコステ・カリスマ運動を取り上げ、この運動もまた「神への渇望」から「霊的経験への熱望」に変化したと評しています。では、近年見直されてきた「霊性運動」はどうなのでしょうか。私は、このことに多大の関心を寄せていますが、ガル氏は、この運動が福音派においては散発的にしか受け入れられていないことを嘆いています。そして、この運動においても「霊的になりたい」ということが目的になり、霊的訓練の量を量るようになる危険性を指摘しています。彼はそのエッセーに“How We Have Forgotten God”というタイトルをつけていますが、それによって、福音派に限らず、クリスチャンが根源的なところで「神を忘れていないか」と問いかけているのです。このことは、私がここ十数年来考え続けてきたことで、ガル氏の記事を読んで「我が意を得たり」という気持ちでいます。
6月25日(火)「教会の使命は世の中に出て行って、そこをより良いところとし、祝福とし、文化を変え、地に正義をもたらし、人類の繁栄のために働くこと」と言ったら、きっと歓迎されるでしょう。しかし、ガル氏は、「…ではない」と言い切っています。教会はこの世を良くするためにあるのではない。神を、この世を良くする情熱をかきたててくれる「道具」と考えてはいけない。神は世界のためにあるのではなく、世界は神のためにあると言います。そして、教会についてこう言います。「教会の天命と目的はキリストにあって、共に愛のうちに生き、神の栄光を讃えることである。」
6月26日(水)Christianity Today のガル氏の記事、今回は “The Church’s Sickness Unto Death” という、キェルケゴールの本からのショッキングなタイトルでした。ガル氏が言う「死にいたる病」とは、教会がこの世のために存在し、世の中を変えていこうとすることに努力を傾ければ傾けるほど、教会が疲弊してしまうことを指摘しています。メインラインの教会は時代に沿ったものであろうとしてかえって教勢を落とし、今、福音派も同じ轍を踏もうとしていると警告しています。
6月27日(木)ガル氏は、「この世に教会を定義させてはいけない」と言っていますが、同感です。教会がこの世の求めるものになってしまったら、教会は教会でなくなってしまうからです。「この世をよりよいところにする」という発想の根底には、「この世は良いものだ」という考えがあります。教会が福音によってこの世を超えたものを指し示すことがなかったら、教会はこの世に埋もれ、もはや神の国の大使ではなくなるのだと、私も思います。
6月28日(金)朝日新聞によると、京都仏教会は、さい銭や布施などは実際の金銭を献げる宗教行為なので、キャッシュレス化に反対するという声明を出し、全日本仏教会や日本宗教連盟にも宗教活動でのキャッシュレス化を受け入れないよう求めるとのことです。アメリカでは携帯電話での献金が広がっています。確かに便利で効率はいいのですが、利便性だけで物事を考えることはできないと思います。
6月29日(土)インターネットで注文したメガネがきょう届きました。注文したのが6月18日でしたので、10日以上かかりました。インターネットでの注文は不安だったのですが、届いたものは、レンズも薄く、とてもよく出来ていて、ほぼ満足しています。
6月30日(日)一ヶ月ぶりでコーナーストーン教会に行きました。多くの人が私たちのことを覚えていてくれました。牧師が腰の手術をしたので、きょうはふたりいる長老のひとりがメッセージをとり継いでくれました。牧師が回復するまで、7月は日曜日夕方の賛美を歌う会はおやすみだそうです。再開されればまた出てみたいと思っています。
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