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Philip の ちょっといい話

『ダ・ヴィンチ・コード』の「事実」と「虚構」(その5)

 「イエスは主である。」「キリストは神である。」というのは、キリストを信じる信仰において最も大切な告白です。ブラウンは『ダ・ヴィンチ・コード』で登場人物のひとり、リー・ティービングに、「『神の子』というイエスの地位は、ニケーア公会議で正式に提案され、投票の結果決まったものだ。」と言わせています。イエスは影響力に富んだ偉大な人物ではあったが、あくまでも人間にすぎなかった。しかし、コンスタンティヌス皇帝が政治権力を維持するために、イエスを神に仕立てあげたと言うのです。それはほんとうでしょうか?

 ブラウンが言っていることは、いかにも目新しいもののように見えますが、じつは他の人々の説を引用しているにすぎません。19世紀になって、シュライエルマッハー、ルナン、ハルナックなどの学者たちが、イエスは神ではなかった。彼は、神の国を待ち望んでそれを宣べ伝えるひとりの預言者にすぎなかったが、イエスの弟子たち、とくにパウロが、「宣教するイエス」を「宣教されるキリスト」に変えてしまったと主張しはじめました。20世紀には、ブルトマンが、イエスの十字架は史実であるが、復活は史実ではなく「宗教的象徴」である。復活をはじめとして、キリストに関する聖書の記述は「神話化」されているので、聖書の真実を理解するためにはそれを「非神話化」しなければならないと言いました。ブラウンが「イエスは人々によって神にまつりあげられた」と言っているのは、19世紀から20世紀初頭に現われた「近代主義神学」や「自由主義神学」からの借り物だったのです。

 では、「近代主義神学」や「自由主義神学」が主張していることは正しいのでしょうか? それらは「学問的」に見えますが、学問上の重要ないくつかの点を見逃しています。第一に、最初のクリスチャンはすべて、唯一の神を厳格に信じるユダヤ人でした。彼らにとってイエスを神とすることはきわめて困難なことでしたのに、なぜそれができたのでしょうか。第二に、新約聖書の大部分は教会が始まって40年以内に書かれ、読まれていますが、そのような短い期間に「神話」が生まれ、キリストの神格化が起こることは可能だったのでしょうか。第三に、初代のクリスチャンはキリストの復活を信じ、そのために殉教もいといませんでしたが、復活の事実を認めないとしたら、そのような復活の信仰はどこから生まれたのでしょうか。聖書と歴史を綿密に検討して得られる結論は、「イエスを神と信じる信仰は、イエスご自身から来ている。復活の信仰は、復活の事実から来ている。」ということなのです。

 聖書は、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)と言っています。私たちは、ニケーヤ信条に言うとおり、キリストを「神より出でたる神、光より出でたる光、真の神より出でたる真の神、造られず聖父と同質なるお方」として信じることによって、はじめて救いを得ることができるのです。イエスがどのようなお方として信じるかが、あなたの永遠を決定するのです。あなたは、イエスがどのようなお方かを知っていますか。教会は、あなたがイエス・キリストを知ることができるよう、喜んでお手伝いをします。このお方を本気で知りたいとの願いが、あなたに起こされるよう、祈ってやみません。(おわり)

(2006年10月)

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