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Philip の ちょっといい話

「らしく」生きる

 昔、ある国の、ある王子様は、どうも落ち着きのない人で、町を歩く時も、あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロ見て歩くものですから、お付きの人々は、いつもハラハラ、ドキドキさせられるばかりでした。そんなときは、この王子様のご意見番のような老人がツカツカと王子様のところにやって来て、「エヘン!」と大きく咳払いをしてから、「殿下、ご身分を!」と、耳元に語りかけるのです。すると、とたんに、王子様は、ピンと背筋を伸ばし、まっすぐ前を見つめて歩き出すというのです。王子様は「自分は、王子なのだ。」という自覚に立ち返り、それが彼の行動に威厳を取り戻させたのです。自分が何者なのかをわきまえる時、その人は、その人らしく振る舞うことができるのです。

 けれども、「らしく」ということが、人をある一定の枠にはめ込んでしまうために用いられることもあります。こどもの頃、活発だったため、まわりから「女の子らしくしなさい。」と言われて、反感を感じた人もいるかもしれません。また逆に、「男らしくしろ!」と言われて、惨めな気持ちになった人もいるでしょう。「日本人らしくない。」「クリスチャンらしくない。」という言葉もよく耳にします。「私は私。私らしく生きればいいのだ。」と気づくまでは、「らしく」ということが、大きな重荷だったと、話してくれた人もいました。しかし、どんなに「らしく」ということを嫌に思っても、私たちは「らしく」ということをすべて捨て去るわけにはいきません。「人間らしく」ということを捨て去ってしまえば、私たちは動物になってしまいますし、「私らしく」ということを失ってしまえば、個性のない存在になってしますからです。

 他の人から押しつけられた「らしく」というのは、押し返し、はねのけても良いのかもしれませんが、神が私たちに与えてくださった「らしく」は、しっかり守っていないと、「人間らしく」また、「私らしく」生きることができなくなります。聖書は、神が人間を「ご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼らを創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)と教えています。しかし、人間は神に対して罪を犯し、神のかたちを損なってしまいました。そこで、神は、人間がもういちど神のかたちを取り戻すことができるようにと、イエス・キリストを地上に送ってくださいました。キリストは見えない「神のかたち」(コロサイ1:15)であって、私たちに神を示してくださるとともに、神に造られた人間が本来あるべき姿を示してくださったのです。ですから、聖書が言うように、キリストを信じて、神の子とされ、キリストに従うことによって、キリストに似たものへと造りかえられていくことが、神のかたちを取り戻す、神の備えられた道なのです。

 イエス・キリストへの信仰によって、「私は偶然生まれたのではなく、神によって造られた。」「私は神に愛されている神の子どもだ。」という自覚が生まれる時、私たちは、ほんとうに「人間らしく」なり、また「私らしく」生きることができるのです。

(2005年7月)

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