Philip の ちょっといい話 |
シリコンバレーで働いている者たちが昼食を共にして職場や家庭での体験を交換しあう「ゼロ会」では、昨年、畑村洋太郎著『失敗学のすすめ』から学びました。昔から「失敗は成功の母」と言われますが、近年は、人々ができるだけ失敗しないように近道をしたり、失敗を隠したりするので、失敗が生かされず、大変な事故を引き起こすようになってきていると、著者は指摘しています。
著者は、現代の日本の教育には失敗体験を許さないものがあって、それが学生を駄目にしていると言っていますが、たしかにそういう風潮があるような気がします。こどもたちに対してあまりにも過保護で、こどもが失敗しないように、あまりにも手を回しすぎて、こどもたちは失敗した時、そこから立ち直る方法を知らないまま、失望してしまい、屈折した道を選んでしまうのです。また、学校も、社会も、失敗した人に「落ちこぼれ」というレッテルを貼りつけて、失敗から学び、そこから立ち直る力をそいでしまうということもあります。本当の成功は、多くの場合、さまざまな失敗を経てはじめて得られるものなのですが、人々は、手っ取り早く成功をおさめたいために、数々の「成功談」を聞いて、それを「真似る」だけの場合が多いのです。そういう「成功」は、ものごとの本質を何もつかんでおらず、一時的なものに過ぎません。
聖書は、単なる人生の教訓でも、まして、「成功談」のひとつでもありません。聖書は、そのはじめに、アダムとエバが罪を犯した物語を書いていますが、聖書全篇は、人間の失敗の記録のようなものです。聖書には、イスラエルの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブの失敗、十戒を与えたモーセの失敗、ダビデ王の失敗、キリストの一番弟子ペテロの失敗などが、あからさまに描かれています。しかし、それと同時に聖書の全篇には、失敗から立ち返る道がはっきりと示されています。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一、一章九節)という箇所はそのひとつです。聖書は、神の愛と恵み、知恵と力を示して、「失敗にくじけるな。」「失敗から学べ。」と教えているのです。
(2004年3月)