Philip の ちょっといい話 |
ある中国の青年が、夢を見ました。夢の中で彼は、深い井戸に落ちて足をくじいてしまいました。とても這出すことができず、助けを呼んでも誰にも届きませんでした。
そこに孔子さまがやってきました。井戸の中で苦しんでいる彼を見ると、「ああ、おまえが私の教えのように、注意深く人生を歩んでいたら、こんな目にあわなくてすんだのに。」と嘆いて、そこから去っていきました。
次にお釈迦さまがやってきました。お釈迦さまは井戸の中で苦しんでいる彼を見て、「ああ、なんてかわいそうな人でしょう。あなたが少しでもそこから登ってくることができたら、わたしは手をさしのばしてあげられるのだが…。足が直ったころ、また来てあげましょう。」と言って、そこから去っていきました。
孔子さまにも、お釈迦さまにも見放されたこの青年が「俺は、ここで死んでしまうのか。」と絶望していた時です。この井戸にひとりの人が飛びこんで来たのです。そして、何も言わないで、この青年を背中に担ぎ、井戸の壁を満身の力をこめてつかみ、一歩、一歩、それをよじのぼっていきました。手は、ごつごつした井戸の壁で切れ、足も傷つき、血が流れ出ています。深い井戸の底から出口までよじのぼるのに、どれほどの時間がかかったことでしょうか。青年は、この人にしがみつくのが精一杯で、無我夢中でしたので、それはあっという間の出来事に感じられました。地上に出ると、不思議なことに青年の足は直っていました。青年は、自分を救ってくれた人に感謝しようと、この人を見上げました。そこには茨の冠をかぶったキリストがおられました。
ここで、青年は、夢から覚めましたが、彼の見た夢は、キリストが、自分で自分を救うことができない者のため、その罪や弱さのどん底にまで降りて来て、ご自分を傷つけ、その命さえも与えるほどに愛してくださったということを教えていたのです。聖書に「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ人への手紙二章六〜八節)とあります。キリストの十字架の愛を知る人はさいわいです。
(2003年3月)