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信徒と牧師の教会論

第3回 キリストのからだ

牧師 前回は、教会が「神の民」であるということをお話ししました。今回は、教会が「キリストのからだ」であるということを考えてみましょう。聖書の多くの箇所に、教会が「キリストのからだ」であると言われていますが、それにはどんな意味があるのでしょうか。

保坂 コリント第一12:27に「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」とあります。教会が「キリストのからだ」であるというのは、教会は、クリスチャンが、…先ほど習った言葉を使えば、神の民が一体になって、調和を保っていることを言い表していると思います。

加納 教会がキリストのからだにたとえられているのは、とてもわかりやすいですね。人間の身体にはいろんな器官があってそれぞれが違っているけれど、それぞれが組み合わさって、ひとつのからだになっている。それとおなじように、クリスチャンはそれぞれ違った個性や、才能があるけれど、ひとつの団体をつくるということでしょう?日本語でも、「団体」、「共同体」と言って、ちゃんと「からだ」という言葉が入っています。

秋山 加納さん。私は、教会が「キリストのからだ」と言うとき、教会が「からだ」にたとえられているのでなく、それは、ほんとうにキリストのからだなのだと思うのですが…。

牧師 教会が「キリストのからだ」と言われる時、そこには比喩以上のものがあります。教会を「キリストのからだ」と呼ぶ時、「からだ」という言葉に重点を置いて、教会に属する者たちの調和や一致といったことに目を向けやすいのですが、その前に、教会が「キリストの」からだであるということをしっかりとらえていなければなりません。

加納 それはどういうことですか。

牧師 キリストがかしらであり、教会がそのからだであるということです。かしらであるキリストとからだである教会とが命のつながりをもって結合しているということです。使徒パウロは、もとの名をサウロと言い、熱心なパリサイ人で、エルサレムの教会だけではあきたらず、ダマスコの教会までも迫害しようとしていました。そのサウロに現われたキリストは「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と言われました。「教会を」と言わず、「わたしを」を言われたのです。教会はキリストのからだであって、教会への迫害は、そのかしらであるキリストへの迫害となるのです。キリストは、教会とご自身とが文字どおり一体だと言われたのです。教会とからだである教会にはいのちの結合があるのです。

保坂 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)というような結合ですか。

牧師 そうです。ぶどうの枝が、幹から切り離されたら、実を結ぶことができないばかりか、やがて枯れてしまいます。ぶどうの枝がぶどうの木につながっていることによって、そこから養分を受けて生かされているように、教会もまた、かしらであるキリストとつながっていることによってはじめてキリストのからだとなるのです。

秋山 ちょうど頭脳からからだのすみずみまで神経がはりめぐらされて、それによってからだのそれぞれの器官が動いているのと同じですね。

牧師 人間のからだは実に巧みにできており、さまざまに違った器官があっても、それがお互いに衝突したり、他をコントロールしたりしないで、みごとな調和を保っています。しかし、それは、各器官が互いに交渉しあって役割分担を決めているからではなく、それぞれの器官が頭脳の命令にしたがっているからなのです。教会は「キリストの」からだであって、すべてをキリストに依存しています。各自が互いに調節しあってまとまりを保っている「団体」や「共同体」ではないのです。

保坂 私たちが「キリストのからだ」であるというのは、「みんな仲良く、ひとつになって」ということではなく、ひとりびとりがキリストにつながることによって、結果としてひとつになっていくということなのですね。

秋山 そういえば、コンピュータも人間のからだや、キリストのからだと同じように動いています。コンピュータには、キーボードやマウスなどの入力装置、ハードドライブといった記憶装置、ディスプレー画面やスピーカーなどといった出力装置がついていますが、こうしたものはすべてCPUと呼ばれる、コンピュータの指令室のようなところにつながっていて、そこからの指示によって互いに衝突しあうことなく、動くようになっています。キリストのからだである教会でも、からだの各器官がまずキリストにつながることの大切さが良く分かりました。

加納 秋山さんは、コンピュータ関係の仕事をしているので、コンピュータのことには詳しいですね。私は、もう退職して長くなりますが、航空会社に勤めていました。航空会社といっても、経理関係でしたから、直接飛行機には関係しなかったのですが、そう言えば、飛行機のことを考えても、同じですね。離着陸の時には、飛行機同士が互いに連絡を取り合うのでなく、それぞれが管制室の指示に従います。それで、事故がなく飛行機が離着陸できるようになっているのです。もっとも、最近はどこの空港も過密スケジュールで、管制官が間違った指示を出してしまうことがありますが…。

秋山 それはコンピュータも同じで、プログラムの不具合によって、コンピュータが思うように動かない、大切なデータを消してしまうということもあります。人間の作ったものは、神さまが造られたものにくらべれば、不完全なものにすぎません。

加納 私のコンピュータなど、いつも調子が悪くて、息子を呼んでは直してもらっていますよ。

保坂 それは、加納さんの使い方が悪いからじゃないですか。

加納 おや、保坂さんも、なかなかきついことを言いますね。当たっているだけにくやしいですね。しかし、人間の作ったものは不完全なのは分かりますが、私のからだは神さまが造ってくださったのに、どうしてこうも故障が多いのでしょうね。教会がキリストのからだといっても、完全ではありませんよ。

牧師 それは、この世界に罪が入り、死が入ってきているという現実があるからです。健康管理を怠るという罪もあるでしょうが、環境破壊という罪もあります。世の中が便利になればなるほど、かえって私たちは忙しくなり、精神的なストレスがたまってきます。神が「良し」と言われて造られた完全な世界が罪のために壊れているのです。教会も世にあるかぎりは、罪と世の影響を受け、「キリストのからだ」としての一致や調和が乱されることがあります。だからこそ、私たちは教会のかしらであるキリストとのつながりを強調しなければいけないのです。

保坂 コロサイ2:18〜19に「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくをしません。」とありますが、キリストを教会のかしらとしないことが、キリストのからだである教会を壊すもっとも大きな原因なのでしょうか。

牧師 その通りです。コロサイ2:19には続いて「このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、彼によって成長させられるのです。」とあります。かしらから離れては教会の成長はないのです。

秋山 コロサイ人への手紙では、キリストは「すべての支配と権威のかしら」(コロサイ2:10)と呼ばれています。私たちひとりびとりが、キリストをかしらとしていくことによって、教会は健全なものになっていくのですね。この主題については、先生から聞きたいこと、みんなで話し合いたいことがいっぱいあるのですが、時間になりましたので、次回にゆずりましょう。

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