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信徒と牧師の教会論

第1回 教理と倫理

秋山 先生。今回は、教会の教育部を代表して、私、秋山浩一と、保坂美枝さん、加納克彦さんが、先生から「教会論」についてお話を伺うことになりました。「教会論」は先生の得意分野と聞いていますので、期待しています。だいたいどんなお話になるのでしょうか。

牧師 そうですね、最初に「教会とは何か」ということをお話しし、次に「教会の使命」、「教会の組織」、そして「教会の将来」というところへ、話を進めていきたいと思っています。つまり、教会とは何であり、何のために存在し、そして、その使命をどのようにして果たしていくのか、また、教会は何を目指していくのかということです。

加納 なんだか難しそうですね。私は、どうやって教会生活をするのかというお話だと思っていました。

牧師 もちろん、教会生活にも触れていきますよ。聖書の教えはきわめて実際的なもので、「教会論」が私たちの実際の教会生活に反映されなければ意味がありませんから。けれども、教会生活が、聖書に基づいたものになるためには、少々面倒でも、まず、聖書が何を教えているかをしっかりと学んでおく必要があるのです。

秋山 それは、先生が常々言っておられる「教理から倫理へ」ということですね。

牧師 そうです。私が「教理」という場合、それは「神が私たちのためにしてくださったこと」、「倫理」という場合、「私たちが神のためにすべきこと」という意味で使っています。そして、聖書では常に「教理」が先に来て、それから「倫理」が続くのです。

保坂 たとえば、出エジプト記にある「十戒」は、イスラエルの民をエジプトから救い出してくださったという、神の救いが先にあって、この救い主である神への応答として十の戒めが教えられているということですね。

牧師 そうです。十戒の最初のことばは「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト20:2)で、神の救いがまず宣言されています。私たちの行いは、この神の救いに対する応答なのです。

秋山 私も、先生がエペソ人への手紙から説教された時、エペソ人への手紙の前半(1〜3章)は、神が私たちのためにしてくださったこと(教理)が語られ、後半(4〜6章)は、それにもとづいて私たちが神のためにすべきこと(倫理)が語られていると、話されたのを思い出しました。

保坂 ローマ人への手紙の1〜11章と、12章以降も同じような関係にありますね。ローマ12:1に「そういうわけですから、…」とありますが、「そういうわけとは、どういうわけでしょうか。」と先生が言われた時、私は、ハッとしました。聖書の倫理は、「これをしなさい。あれをしてはいけない。」という道徳の教えではなく、神の救いのみわざに深く根ざしているということに気づきました。そして、それ以来、聖書の読み方が変わったように思います。

牧師 それは良かったですね。「そういうわけとは、どういうわけでしょうか。」というのは、私の母教会の牧師が常々、口にしておられたことで、私も、その先生から教えられて、保坂さんと同じように、聖書を「教理→倫理」の順で読むようになったのです。

加納 秋山さんも、保坂さんも、説教をよく聞いていますね。その説教は、私も聞いていたはずですが、この年になると、右の耳から入ったことばが左の耳から出ていって、すこしも残らないのです。私は、教会生活といえば、要するに教会の「しきたり」を勉強して身につけることだと思っていました。

牧師 教会での「作法」は、一年も教会に来ていれば、誰でも身に着くでしょう。特に、プロテスタントの教会の礼拝は簡素で、他の教派のように跪いたり、十字を切ったり、応答のことばを発したり、ローソクをともしたり、前に進み出て聖餐にあずかったりすることがなく、ほとんどが座ってお話を聞いていれば良いだけで、時々立って歌うぐらいですから、他の人を真似てそうすることは難しくはありません。しかし、それが上手にできるようになったからといって、それで「礼拝」をしたことにはならなりませんし、ほんとうの意味で教会生活ができるようになったわけではありません。教会生活とは、教会とは何かということを聖書に基づいてきちんとわきまえてするものなのです。

加納 聖書は大切だと思いますが、私たち信徒には、聖書は難しすぎますし、「教会論」などという「理論」は牧師先生にまかせておいて、私たちには、もっと手っ取り早く、「教会生活のABC」を身に着ける方法はないものでしょうかね。

牧師 私は、多くの人から、加納さんと同じようなことを求められます。私がすこし理論的な話をすると嫌がる人がいます。私も、理論だけで終わらないように工夫しながら話をしているのですが、牧師が聖書の論理を教えないで、いわゆる「ハウ・ツー」だけを教えるとしたら、それは、数学の問題の答えだけを教えて、その解き方を教えないようなものだと思います。人生には、練習問題の答え通りにいかないものがいくらでもあります。むしろ、そのほうが多いでしょう。人生の応用問題を解くには、聖書の論理を身に着けておく必要があります。

加納 そのためには、いっぱい勉強しなければならないのでしょうか。さっきも言いましたが、私の場合、「右の耳から入ったことばが左の耳から出ていく。」という状態なのですが…。

牧師 もちろん、たくさん勉強できればそれに越したことはないのですが、聖書の教えはたんに「勉強」だけで分かるものではありません。「御霊のことばをもって御霊のことを解く」「御霊のことは御霊のことばによってわきまえる」(コリント第一2:13〜14)からです。毎日聖書を読み、毎週の礼拝説教を咀嚼し、他のクリスチャンとともに聖書を学ぶ、そうした積み重ねによって聖書がわかるようになるのです。

加納 「聖書早わかり」というのは無いのですね。

牧師 ないのです。現代は、とかく「お手軽」なものが求められる時代です。信仰というは、「なおもみ恵みを」「いよいよ汝がそばに」という賛美にあるように、より多くを、より豊かなもの、より深いものを求めることなのに、人々は「ミニマム」しか求めなくなったのは悲しいことです。

保坂 私も、加納さんと同じよう考えていました。女性にも理論的なことがよく分かる人がいますが、私は理論的なことが苦手で、最初、先生のお話を聞いた時、「理論なんてどうでもいいわ。もっと心にジーンとくる話をしてくれないかしら。」と思ったものです。でも、「ジーンとくる」という感情的なものは、一時間もすればなくなってしまいます。でも、先生に理論的に教えていただいて、自分でも納得したことは、しっかりと心の中に残っています。

秋山 実は、私も、聖書の勉強というものは牧師がするものだ、信徒は牧師の教えに従っていれば良いのだと考えていました。私たちが考えてもわからない難しい問題は、教団や教派の神学委員会などといったところで答えを出して、「お達し」が来るだろうと思っていました。ところが、キリスト教でも、その指導者が信徒をマインドコントロールしてとんでもない犯罪を犯すということがあって、これは、たんに指導者の罪だけではなく、みずからも聖書を学んでいない信徒にも問題があるということに気付いたのです。

保坂 パウロの話を聞いたベレヤの人々が「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11)ように、私たち信徒が聖書を学ばなければならないのですね。

秋山 そうなんです。「牧師が聖書を勉強する」のでなく、「牧師が聖書を教え、信徒が聖書を勉強する」のだということが分かったのです。そのような気持ちで聖書研究会に参加しはじめましたら、聖書の勉強が楽しくてたまらなくなりました。

保坂 それで、秋山さんは、教会の教育部の奉仕をするようになったわけですね。

秋山 そうなんです。この奉仕をするようになって、教会でなされることは、どんなことでも、聖書にもとづいて考えられ、決められなけれなければならないことが分かるようになりました

加納 秋山さんも、保坂さんも、最初は私と同じように、聖書を学ぶことに抵抗があったということを聞いて安心しました。でも、安心ばかりしていないで、私も、秋山さんや保坂さんのように聖書を学んでみたいと思います。

牧師 加納さん。良い決心ができて良かったですね。神さまがその思いを強め、助けてくださるよう、祈ります。

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