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Philip の ちょっといい話

復活の信仰と復活の事実

 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。(第一コリント十五・十七)

 クリスチャンの信仰は、「キリストの復活」という一点にかかっています。クリスチャンが十字架に死なれたキリストが復活されたことを信じているのは、「教会がそう教えるから、そうしておこう。」というのでも、「復活したと信じたほうが希望が湧くから。」ということでもないのです。キリストの復活を歴史の事実として信じているのです。もし、キリストの復活がなければ、聖書が教えるすべてのことは偽りとなり、クリスチャンはこの世で最もみじめなものとなってしまいます。

 キリストの復活の証拠ほど数多くあるもの、確かなものはありません。まず、第一に、「空の墓」です。キリストの弟子たちは、キリストの復活を伝えましたが、これは、当時のユダヤの指導者にとっても、ローマの為政者にとっても頭の痛い問題でした。しかし、キリストの遺体を持ってくれば、キリストの弟子たちを黙らせることができたのです。けれども、彼らはそうすることが出来ませんでした。なぜなら、キリストの墓は空であり、キリストの遺体はどこにもなかったからです。

 第二に、「数多くの目撃者」です。キリストの十二弟子だけでなく、五百人以上の生き証人がいたのです。これは、弟子たちがキリストの復活を強く希望したので、キリストが復活したという幻覚を見たのだという説を退けます。彼らはキリストの復活について、何の期待もせず、それをよく理解していなかったのです。

 第三は、「弟子たちの変化」です。キリストの弟子たちは、頑固で臆病な人たちでした。ペテロはキリストが裁判を受けるところまでついていくのですが、女中のひとりから「あなたは、イエスの弟子でしょう?」と言われて、三度もキリストを否定しています。パウロは、キリストが復活したと信じる人たちを捕まえては牢に送り込むことに執念を燃やしていた人物でした。ところが彼らは、どんな人間の権威にも屈することなくキリストの復活を宣べ伝える者となり、復活を信じる信仰のゆえに殉教の道を歩んだのです。なぜ、そんなことができたのでしょうか。それは、彼らが復活のキリストに出会ったこと以外に説明することはできません。復活の信仰は、復活の事実から生まれたのです。

(2006年4月)

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