USA Diary

September, 2009

Home Prev Year Prev Month Curent Next Month Next Year
9月1日(火)第11章で次にとりあげられているのは、福音宣教の目標は隣人への奉仕であり、人々の魂の救いが第一ではないといる考え方です。これは「世俗的福音宣教」などと呼ばれているもので、世から分離するよりは世と連帯する、福音を告知するよりは社会の問題に応答する、説教よりは対話に重点を置くものです。教会は神のことばから始まるのでなく「文化」から始まるというのです。ブローシュはこの「新しい」と言われる「福音宣教」に対して批判的で、「真理は人間の中にあるのではない、それゆえ人間の外側にある権威によって告知されなければならない。」と言い、「彼らは世俗的人間を福音に到達させるために、世俗社会の用語や諸概念を利用しようとしている。しかし彼らが、実際に罪人をイエス・キリストとの救いの関係に導くことに成功するかどうかは、大変疑問である。」とも言っています。これは、今日の私たちの伝道を考えるときに、耳にすべきことばであると思います。
9月2日(水)ブローシュが言う「世俗」というのは、道徳的にいかがわしいものという意味ではありません。信仰が神に近づき、神に依存していることを指すとしたら、世俗はその逆のことを指しています。つまり、神から離れ、神から独立的であろうとすることです。彼が「世俗的福音宣教」というのは、教会でカラオケ、演芸ショー、宴会的なことをするということではありません。この世を超越した聖なる神のことを語らず、神を常に人間の世界の一部と考えることです。神の啓示はイエス・キリストによらなくても、いたるところに見られ、聖書による解釈によらずとも、『方丈記』や『奥の細道』にも見られるとするものです。それでいて、「世俗」思想は人間と社会を神から独立したものと考え、自らの力による改革を信じています。「道徳的世俗」は誰の目にもあきらかで、それに眉をひそめる人も多いのですが、「知的世俗」はそれを見抜く人が少なく、そうしたものに容易に陥りやすいのです。この知的世俗との戦いはやっかいですが、これを避けると教会はやすやすとこの世の一部になりさがってしまします。
9月3日(木)第11章でリバイバル的伝道と世俗福音宣教の両方に注文をつけたブローシュは、その最後の部分でほんとうの福音宣教とは何かを述べて、「福音宣教は、人々を福音的・ケリュグマ的宣言と、悔い改めへの呼びかけとに直面させることである。それは本質的には、言葉による宣言である。」と言っています。慈善のわざ(ディアコニア)だけでなく宣告(ケリュグマ)が必要であることを力説しています。福音宣教は社会の問題に目をつむることではありませんが、社会の改良の前に、個人の救いが必要なのです。ノン・クリスチャンに回心を、クリスチャンに回心を深めさせるもの、それがほんとうの意味での福音宣教であると、私も思います。
9月4日(金)12章は「霊的訓練」についてです。これは私が今取り組んでいる課題で、今年の Pastor's Bible Study でも Celebratio of Discipline をテキストに12の霊的訓練について学びます。今でこそ、霊的訓練は教会の中でとりあげられ、復興しつつありますが、ブローシュがこの本を書いたときには「内的生命の訓練は、今日のプロテスタント主義においては失われた次元であると考えることができる」という状態でした。プロテスタント主義は聖と俗の区別を取り去ったかのように考えられていますが、ブローシュは、宗教改革者たちは聖なるものを守り、人への奉仕と神への崇拝との間に区別を設けたと言っています。ブローシュは「霊的訓練がローマ・カトリック主義や敬虔主義的なプロテスタント主義内では誤用されたきた」と言っていますが、「現代プロテスタント主義の主流において、それははなはだしく無視されてきた」とも言っています。しかし、私の観察では、ルター派、長老派、メソジスト派といったプロテスタントの主流の教会のほうが霊性の訓練を取り入れているのに、福音派のほうがそれに対して無頓着なように思います。しかし、この動きはアメリカではまだ定着しているとは思われません。ブローシュの次のことばは耳を傾けるのに値します。「わたしたちの教会は、今もにぎわっている。しかしわたしたちはどれほど多くのものを失ったかを問わねばならない。教会の人々は、教会の仕事ややりがいのある共同体的活動で忙しくしている。けれども彼らは、内的な目的や方向をもってはいないのである。現代のプロテスタント教徒、特にアメリカのプロテスタント教徒は、永遠なることがら、また本質的なことがらに根ざしてはいない。なぜなら、彼らは神的リアリティとの内的結びつきとか交わりを、育て培うことをしてこなかったからである。彼らの社会的生活は肥満状態であるが、彼らの霊的生活は、事実上皆無である。わたしたちは組織を拡大してきたが、その過程で、わたしたちは自分の魂を失ってしまった。実に今日の焦眉の急は、信仰の内的生命を回復させることである。」
9月5日(土)ブローシュは霊的訓練の項目として、祈り、学習、質素であること、断食、純潔、奉仕、交わりについて触れています。こうしたものは、Richard Foster の Celebration of Discipline でとりあげられていることなので、そこで詳しく学んでいきたいと思っています。
9月6日(日)ブローシュは霊的訓練の「交わり」の項目で、死んでしまった教会にいつまでも属している必要はないと言って「したがって〔その教会の〕キリスト者たちは、み言が宣言され、忠実に解き明かされており、さらに聖礼典を守ることのできるような、他の交わりを求めなければならない。…一方、この世が教会生活の中に侵入し、福音そのものをもはや期待できないような場合には、キリスト者たちは今や社交クラブとなっているものから身をひき、み言の共同体に復帰する義務がある」と書いています。しかし、私が今まで体験してきたのは、福音のチャレンジを好まない人々が福音や聖礼典よりもこの世のものをふんだんに取り入れ、社交がさかんなところに移っていくということです。これを防ぐのにはどうしたら良いのでしょうか。
9月7日(月)ブローシュは「黙想と訓練のためのセンター」の必要性を12章の最後で訴えています。オーソドックスやカソリックの「修道院」が果たしている役割をプロテスタントはよく理解してこなかったのです。神学校でも霊的訓練が忘れられ、そこが単にアカデミックな場で終わってしまっているのはとても残念です。こうした「センター」は神学校の訓練を補うばかりか、日々の忙しさに追われている牧師たちの霊的回復のためにも役立つことでしょう。私もこうした霊的リハビリテーション・センターをつくることを夢見ています。
9月8日(火)きょうは北カリフォルニアの牧師会がありました。いつも9月の第二火曜日にある牧師会に出るたびに、8年前のことを思います。2001年9月11日は第二火曜日だったからです。朝出かける前にニュースで高層ビルに飛行機が衝突したことを知りましたが、その後ビルが崩れ、多くの被害者が出たこと、それがテロであったことを知ったのは、牧師会を終えて家に帰ってからでした。
9月9日(水)教団の規則改正について、多くの教会ではみずから学んで理解しようとせず、「よく分からないけど賛成」という態度をとっています。日本人がものごとに賛成したり反対したりする場合、他の人が賛成しているか反対しているかを見て、「和」をこわさないように、自分が不利にならないようにということが先に立つように思います。「真理」よりも「心理」に左右されやすいのです。けれども私たちの教会では教団の規則改正を検討する委員会が作られ、その資料をまとめたウェブページも作られました。ほんとうなら教団にこうしたウェブページがなければならないのですが、残念ながらそうしたものを求める諸教会からの声がありませんでした。私たちの教会の委員会が教団の規則改正をリードしたらいいものができあがるかもしれません。教団にせよ、教会にせよ、それぞれ忙しい人たちがさまざまな制限のある中で働いています。その労が良く実るようにと願っています。
9月10日(木)夜の宣教委員会に、タイで虐待されているこどもたちを救い出し育て、また若者たちのために学校を開いている団体に見学に行ってきた人たちが来て、報告をしてくれました。そこの学校では朝5時起床で、6時まで聖書を読み、祈る時間となっており、とても規則正しく熱心に勉強していて、自分のこどもをこの学校に入れたいくらいだと言っていました。アメリカの物質的豊かさと霊的な貧弱さについて反省させられたレポートでした。
9月11日(金)きょうは「9・11」でしたので、白百合会でそれにちなんで、ニューヨーク消防署のチャプレンだった Mychal Judge 神父のことを話しました。きょうの白百合会は料理講習会で、食事の前には重たい話題だったかもしれませんし、食事のときの会話にはつながらなかったようですが、他者のために命をささげた人のことが誰かの心に残ればと願っています。Judge 神父の生涯を描いた映画「Saint of 9/11」があるのですが、まだ見ていません。そのうち手に入れて見てみたいと思っています。
9月12日(土)昨日は、四つのミーティングがあってとても忙しくしましたが、今日も、夕方、牧師用の車を教会で新しく買うことになり、そのためにデーラーで長い時間を過ごすことになりました。このためにボランティアしてくれた人が急に「今日の夕方、大丈夫か」と聞いてきたので、一緒にデーラーに行くことになりました。彼は今日の午前中もデーラーに行って値段の交渉をしてくれていたのです。たくさんの時間を使ってくれ、感謝しています。
9月13日(日)日本大学の学生が教授に連れられ、シリコンバレーの見学に来ました。礼拝にも出てくれたのですが、着いたのが正午近くで、説教の途中からでした。礼拝に続いて教団の規則改正案の説明会があったため、この方々には中座してもらいました。教授には少し挨拶ができましたが、学生たちとはゆっくり話す機会がなかったのが残念でした。
9月14日(月)"Marley and Me" を DVD で観ました。若い夫婦がラブラドールの子犬を育てるのですが、しつけが全くできていないダメ犬なのですが、この夫婦と子どもたちに数々の思い出を残して世を去っていくという物語です。犬の Marley がどこかでヒロイックな行動をするのかと期待していましたが、結局何もしないままで年老いて死んでいきました。警察犬、救護犬、盲導犬、介護犬以外の大多数の犬は、決してヒロイックなことはしませんし、利口でない犬は飼い主に迷惑ばかりかけるかもしれませんが、それでも、飼い主の「愛を受ける」という一点においてだけでも、飼い主に貢献できるのだろうと思います。キリストの羊であるキリスト者も羊飼いの「愛を受ける」だけの存在かもしれません。羊は決してヒロイックにはなれない動物で、キリストが弟子たちを羊にたとえたのは意味深いことだと思います。
9月15日(火)ブローシュの『教会の改革的形成』の13章は教会の社会的関与について書かれています。旧約の預言者たちがそうであったように、教会は国家の罪や社会の悪に対しても大胆なメッセージを持ていなければなりません。イエス・キリストを救い主として受け入れるだけでなく、キリストを主として服従することがキリスト者には求められています。しかし、それは教会が福音の宣教をそっちのけにして社会奉仕だけに没頭するとか、教会が政策集団となって政府を牛耳るということ意味してはいません。教会が国家権力のようなものを持ち、政党の一つのようになるのでなく、宣教のつとめのひとつとしなければならないのです。イエスがペテロに言われたように神の国は、権力や武力、あるいは数や金の力といった「剣」によってではなく、みことばの「剣」によってのみ守られ、この社会に奉仕することができるのです。ブローシュは「心にとめておくべきことは、福音は人間の苦境に対して究極的な解答を与えるのであって、次善の解答ではないということである。」と言っています。
9月16日(水)ブローシュの本の最後の章、14章は教会の一致、いわゆるエキュメニズムについて書かれています。ブローシュは教会を「公同」のものとして位置づけています。父なる神の永遠のみこころの中にあり、キリストによって建てられ、聖霊によって歴史を通してはぐくまれてきた教会のことです。彼はこの「公同の」ということばに "catholic" をあてています。このことばは使徒9:31で「全地にわたり」と訳されている「カス・ホロス」というギリシャ語からきたもので、教会の「普遍性」や「連続性」を表すことばです。ローマ・カソリック教会は自分たちこそこの普遍教会であると主張して、このことばを使っていますが、ブローシュはローマ・カソリック教会やオーソドックス教会、そしてプロテスタント諸派を含む、さらに大きな公同の教会を心に描いており、すべての教会はこの「公同」教会につながるべきであり、そのためには教会は福音的でなければならないと主張しています。これがブローシュの言う "Catholic Evangelicalism" です。
9月17日(木)エキユメニカル運動は当初は良い意図で出発したのですが、自由主義神学の影響をうけて福音の真理によらない政治的なものになったり、他宗教との安易な一致を目指そうとしたりしてしまいました。ヨハネ・パウロ二世はエキユメニカル運動に前向きでしたが、ベネデクト十六世はやや後ろ向きと言われます。教皇の昨年のアメリカ訪問のおりには、エキュメニカルの集まりで「わたしが道であり、真理であり、命なのです。」(ヨハネ14:6)を引き、キリストによらない一致はないと警告を与えていましたが、もっともなことだと思います。ベネデクト十六世は「真理の擁護者」というタイトルが与えられているすぐれた神学者で、真理が第一にされるところに本当の教会一致があることを再確認してくれました。ブローシュは福音的なものとカトリック的なものとをとりまぜるのでなく、「真の意味で福音主義的かつ公同的であるものが前面に出てくるために、神の光のもとで、それらのものが相互に純化されていくこと」を目指すべきだと言っています。プロテスタントの中には自分たちはすでに改革され、純化された教会であり、カソリック教会は歴史で数々の過ちを犯し、その過ちを今もなお引きずっている教会であると思い込んでいる人々があります。それに対してブローシュは次のように語っています。このことばはこの本の最後のことばでもあり、耳を傾けるのに値するものです。「プロテスタント教徒であるわたしたちは、わたしたちの先達もまた間違いという罪を犯し、さらには宗教の名において犯罪すら犯したことを知って、カトリックや東方正教会の兄弟たちに近づいていかねばならない。キリスト教一致の道は、キリストの十字架の下における悔い改めの道である。」
9月18日(金)今日のゼロ会では『ロジカル・シンキング』という本を使って、相手に納得させ、行動させるコミュニケーションをとるにはどうしたらよいかを考えあいました。この本が言っていることはきわめて当たり前のことですが、実例が多く引かれていて役に立つ本だと思いました。ところで、この会に、この日曜日に教会に来た学生たちの企業見学を助けた人がいるので、学生たちの様子を聞いたら、「活発な質問はなかったが、ぼくが学生だったころも、どんどん質問できるほど分かっていなかったから、やむをえないのでは…。」という暖かいことばがありました。
9月19日(土)ブローシュの本について書いた記事を読んだ二人の若い牧師たちから、「刺激になりました。」というメールをもらいました。私は常々、後進の牧師たちの役に立ちたいと願っていますので、こうした方たちの役に立ったことをうれしく思いました。
9月20日(日)きょうの教会ピクニックは心配していたほど暑くならず、さわやかな秋の日を楽しむことができました。いろんな行事が重なったためでしょうか、人数は多くはありませんでした。日本語部からも限られた人しか参加せず、先月の日本語部の BBQ ピクニックのフォローアップとしての位置づけもうまくはいきませんでした。教会のさまざまな集まりが連携していけばよいのですが、人間の考えどおりにはいきません。人が神のもとへと導かれていく過程は神のみがご存じなのかもしれません。
9月21日(月)2009年8月25日に亡くなったエドワード・ケネディ上院議員の自伝が出版されており、その中に「人は過ちを犯すが、そこから学び、前進しようとする。失敗が、人のすべてを決するわけではない。」いうことばがあるそうです。彼は大学から退学処分を受けたり、酒におぼれたり、無謀運転で女性秘書を死なせたりなど数々の失敗を重ねましたが、それを乗り越え、長い議員生活を全うした人でした。彼のことばは今度の説教で使うつもりです。
9月22日(火)ある国で働いている宣教師を迎えました。顔はよく覚えているのですが、12年ぶりのことですので、見間違えてはいけないと思い、空港に彼の名前を書いたカードを持っていきましたが、その心配は無用でした。出口通路を真っ先に出てきたのは、まぎれもなく、12年前に会った彼でした。少しも変わっていませんでした。けれども彼は私を見て開口一番「先生、老けましたね。」と言いました。たしかに自分でもこの10年でずいぶん変わったと思っています。しかし、外見は変わっても、こころにある神のための思いはすこしも変わっていないつもりです。
9月23日(水)この宣教師は車にとても興味があり、ハイブリッド車やイギリスとのスポーツタイプの車、ジャガーに乗ってとても喜んでいました。女性はあまり車には興味がないのですが、やはり男性は一般的に車が好きなようです。
9月24日(木)きょうは、お迎えした宣教師にサンノゼの市内を少し案内し、昼食後、ウォールナッツ・クリークまで送りました。フリーウェーが整備されているのにとても驚いていましたが、「自分はとてもアメリカでは生活できない。」と言っていました。やはり自分の宣教地が一番良いとのことで、私は彼のことばの中に、宣教地に対する彼の愛を感じてうれしく思いました。
9月25日(金)今日、昼休みに少し出かけるつもりでいたのですが、いろんな仕事がたてこんで、一日中オフィスにいました。そうしたら冷房のためからだが冷たくなりジャケットを着なければいけませんでした。やはり、少し外に出ればよかったかなと思いました。
9月26日(土)暑い日になりました。天気予報では、しばらく暑さが続いてその後また気温が下がるようです。今年は気温の変動の大きい年です。
9月27日(日)夕方祈りのためにまた教会に行きました。礼拝のお花がないときはかわりにグリーンのプラントを飾ることにしたのですが、礼拝堂が暗くて、ここに置いておくとプランとが枯れるので、それは明るい部屋に持っていってありました。礼拝堂ではプラントが育たなくても祈りが育つようにと願っています。
9月28日(月)教会の書類も、家の書類もなかなか片付きませんが、コンピュータのファイルもごちゃごちゃになっていて、必要なファイルを探すのに苦労しています。あちらこちらにとっていたバックアップをまとめていますが、これに時間をとられています。
9月29日(火)散歩をしていると電灯の飾り付けをしてある家がありました。「もう、クリスマスの飾り付け?」と家内が言いましたが、良くみるとオレンジ色で、ハロウィーンのためのものでした。ハロウィーンまでまだ一ヶ月あるのですが、もうグロッサリ・ストアでもハロウィーンのものが売り出されています。私たちの地域はこどもが多いところで、キャンディを用意しないわけにいかないので、来月になったら早めにキャンディを買っておかなくてはと思っています。
9月30日(水)私の家の近くのショッピング・センターの駐車場で毎週水曜日の午後4時から8時までファーマーズ・マーケットがあります。5月から9月の間だけ行われています。水曜日は朝、夕の祈り会があるので、ふだんは行かないのですが、今日が今年最後の日というので、すこしだけ行ってきました。10月からはここはパンプキン売り場になり、それが終わるとクリスマス・ツリーの売り場になるのでしょう。アメリカは駐車場が広いので、駐車場でいろんな催しをします。
Home Prev Year Prev Month Curent Next Month Next Year