USA Diary

August, 2009

Home Prev Year Prev Month Curent Next Month Next Year
8月1日(土)今日午後英語部メンバーのメモリアル・サービスがあったのですが、頭痛で気分が悪く午後から家に帰って休みました。治療が終わっていない歯のせいかもしれません。
8月2日(日)礼拝では第一日曜日には創世記の「創造の七日」シリーズを、その他は「ペテロの信仰」をとりあげています。今年はダーウィン誕生からちょうど200年なので、礼拝メッセージでダーウィンについて少しだけ触れました。彼が『種の起源』を書いたのが50歳のときですから、『種の起源』以来150年ということになります。150年はそんなに長い時代ではありませんが、この150年の間に、ダーウィンが学んだ「博物学」は自然科学の諸科学に分化していき、今は「自然史」という分野に姿をとどめているだけになってしまいました。『種の起源』には今日の科学データから見て訂正されなければならないところの多いものであると言われていますが、この書物は学問を宗教の権威から解放したものとして重んじられていますが、『種の起源』以来、「進化思想」が新しい宗教として生物学ほか他の自然科学、あるいは社会現象までも支配する権威になってしまったのではないかと、私は考えています。
8月3日(月)午前中、ずいぶん曇っていたので、これなら今日は涼しくなるだろうと思っていましたが、お昼からはいつもの青天になっていました。もっと海岸に近いところでは朝曇っていればすこしばかりのシャワー(にわか雨)を期待できるのでが、内陸よりのサン・ホゼではそれは期待できません。
8月4日(火)今日はある人とランチ・ミーティングをしました。それぞれに忌憚のない意見交換ができ、ランチもおいしくいただくことができました。レストランの食事も結構高くなってきましたし、毎回レストランで食べていると栄養もかたよりますが、たまには、良いものだと思いました。
8月5日(水)祈り会では今日から聖書の祈りをとりあげています。祈り会の参加者で当番を決めて発題してもらうことにしました。これによってそれぞれが祈りを深めることができたらと願っています。
8月6日(木)宣教委員会が、委員長の仕事のスケジュールで一週間くりあがりました。同僚の牧師も10年ぶりかで出席しました。有意義な話し合いができ、良いコミュニケーションを持つことができました。
8月7日(金)今日、ゼロ会の打ち合わせがあり、新しいアイデアを取り入れるとともに、さまざまな本を読んで、それについて話しあっていくことは続けることになりました。日本語の本は英語の本にくらべ高いので、「本代が、ちょっと負担だなぁ。」という意見も出たのですが、「レストランで食事をすることを思ったらうんと安いですよ。」という意見もありました。本は思考の種です。本への投資を惜しまない人がいてくれることに感謝しました。
8月8日(土)今日は静かな土曜日を過ごしました。土曜日や日曜日というと、いろいろなアクティヴィティでびっしりという人が多いのでしょうが、私は、土曜日や日曜日はできるだけ静かに過ごしたいと思っています。ところが、今晩は、裏の家がバースディ・パーティで、窓を開けると賑やかな音楽がガンガン響いてきます。少々暑いのはがまんして、窓を閉めて過ごしました。
8月9日(日)昨日「土曜日や日曜日はできるだけ静かに」と書きましたが、今日はそういうわけにはいかず、午後から隣町の教会で行われる会議に出席するため、忙しく過ごしてしまいました。
8月10日(月)きょうはコンピュータのアップグレードのためにインターネットでいろいろ調べごとをしました。私は部品を買ってコンピュータを組み立てているのですが、部品の組み合わせが悪いとうまく動かないことがありますし、通信販売では返品が面倒なので、下調べをよくしておく必要があるのです。
8月11日(火)アウグスティヌスの『告白』は私の宝の本のひとつで、私は京都大学教授・山田 晶氏翻訳のものを持っています。山田氏のアウグスティヌスについての解説にアウグスティヌスが古代において先進的であり、同時に現代においても古びることがないのは彼が永遠を目指していたからだとありました。彼はそう書くことによって、アウグスティヌスを教父に持つ現代の教会に、アウグスティヌスと同じように「永遠」を目指すべきことを呼びかけています。彼がこの解説を書いたのは1968年のことで、山田氏はすでに故人となっていますが、もし、彼が今の時代の教会を見たならどういう論評をしただろうかという興味を持ちました。
8月12日(水)プロ・ライフの団体から、カリフォルニア選出の議員に嘆願書を書いてほしいとの手紙がきました。オバマ氏の健康保険改革案のなかには中絶業者への援助が含まれているので、「生命の誕生は受精から」ということを明確にしようというものです。日本の政治の世界ではプロ・ライフ対プロ・チョイスという構図はありませんが、アメリカではこの問題は大きな問題のひとつとなっています。
8月13日(木)英語部の「老年三勇士」がチャイムをとりつけに来ました。秘書の事務所が奥まったところにあるので、荷物の配達などで人が来ても気がつかないことがあるので、取り付けることになったとのこと。朝から始めた工事でしたが、午後までかかりました。工事の途中、クルーズ旅行の宣伝に来た人がいました。私たちには無関係なものでしたので、引き取ってもらいましたが、この工事をした人に「ご褒美にクルーズ旅行なんていいね。」言ったら笑っていました。
8月14日(金)きょうは日本語部の「三姉妹」が会計のことで奉仕に来ました。夕方には教団の新規則の検討委員会に英語部、日本語部からそれぞれのメンバーが集まりました。教会は日曜日がいちばん人が多く集まる日ですが、日曜日だけでなく、ウィークデーも多くの人の出入りがあります。見えないところで働いている人が多くあるのです。
8月15日(土)同僚の牧師が「ぼくはもう帰るけど、12時15分ごろ○○さんがぼくのローブを持ってくるので、ぼくの部屋を開けて入れてもらってくれないか。」と言いました。「いいよ。でも、なぜ○○さんが牧師のローブを持っているの。」と聞いたら、「彼がローブの裾がほつれているのに気づいて、クリーニングに出して、ほつれを直してもらうようにするからと言って持って帰ったんだよ。」との答でした。実際に○○さんがやってきたので、彼に「○○先生はいいなあ、あなたみたいにローブのことまで気がついて世話してくれる人がいて。」と言うと、彼は「日本語部の先生はかわいそうね。」と冗談で言いました。日本語部にも気遣ってくれる人はいますが、私のローブの管理は家内がしてくれています。
8月16日(日)私が尊敬する神学者のひとり Donald Bloesch の『教会の改革的形成』を20数年ぶりに読みかえしています。この本は1970年に書かれ、日本基督教会の久野 牧師が翻訳し、1982年に新教出版社から出版されたものです。1982年といえば、私がまだ日本にいたころで、教会成長論の華やかなころ、カリスマ運動の盛んなころでした。ブローシュ先生はそういう時代がやがて来ることを見越して、来るべき時代とその後に対して、指針と警告を与えています。その指針と警告がとても適切なので、このダイアリーで少しづつ紹介してみたいと思います。
8月17日(月)『教会の改革的形成』は全部で14章あります。第1章は「説教」の問題をとりあげています。今日、説教は現代的で魅力的でなければならないとされていますが、それがたんに聴衆の興味や心情を満足させるだけのもので、福音が語られていなければ意味がありません。ブローシュは「わたしたちが必要としているのはいろいろな説教ではなくて、説教が抹殺してしまっている福音そのものである」というフォーサイスのことばを引いていますが、私も説教者として肝に銘じたいことばのひとつです。フローシュはこの章の終わりにこう書いています。「このような退廃の時代に、わたしたちは伝道の新しい宣伝的策略や新しい型の伝道方法に頼るよりも、神のみ霊を待ち、それを求めて祈る方がよいのかも知れない。恐らくわたしっちが生きているこのような時代に必要とされるものは、祈り・学習・瞑想であろう。」Eugene H. Peterson の "Working the Angles - The Shape of Pastoral Integrity"(邦訳『牧会者の神学 祈り・聖書理解・霊的導き』)には、このことばが意味するところがくわしく展開されているように思います。
8月18日(火)第2章は「礼拝」の問題です。ブローシュは「礼拝は今日では、神の栄光への奉仕ということよりも、教養・文化・信心のための儀式と一般にはみされうる」と書いています。「この種の礼拝においてわたしたちが出会うのは聖霊ではなくて、時代の霊である」とさえ言っています。それは、教会に「聖なるもの」がなくなったからではないかと問いかけています。ブローシュは典礼運動に好意的ですが、それでもそれが美学主義、形式主義、内向性などに注意するよう説いています。教会が失った「聖なるもの」は「わたしたちが聖なる神に生のあらゆる領域において服従しようと努め、そしてその神にすべての人々の前で栄光を帰そうとするときに」回復されると言っています。
8月19日(水)第3章は「バプテスマ」についてです。この章では、キリスト教社会で、幼児洗礼が誕生したこどもの奉献式としてしかとらえられていないことを嘆き、それは「自然的誕生のしるし」ではなく「霊的誕生のしるし」でなければならないと言っています。ブローシュは洗礼における恵みの現臨を認め、聖霊の働きを信じています。しかし、それは信仰から離れて機械的に救いの保証を与えるのではないと言っています。ブローシュは信仰のない洗礼も、洗礼のない信仰も否定しています。洗礼は出発点であり、洗礼のときに与えられる聖霊の賜物は、洗礼を受けた者を神に向かって成長させる賜物であって、完成させるものではないと言っています。この章の最後に「わたしたちのバプテスマは、十字架の下での日々の悔い改めの生活においてのみ実を結ぶことができる」とありますが、まさにその通りと思います。
8月20日(木)今日、やっと一番奥の歯のクラウンをはめてもらいました。最初に入れたものが外れて駄目になり、二度目のものはクラウンがあわなくてだめでした。二週間前に型をとったものは良くできていて、噛み合わせを調整してやっと完成しました。歯はかなり本物に近いものを作ることができるようになってきたと言われていますが、義歯は義歯でそこには神経も血液も通ってはいませんし、虫歯にならないかわりに成長することもありません。経験を積んだ歯科医が時間をかけないと噛み合わせを調整できないのにたいして、自然の歯はそんな必要もなく、最善の噛み合わせを最初から持っているのです。自然界や天体ばかりでなく人体もまた創造者の知恵と力を現しています。
8月21日(金)第4章は「聖餐」についてです。ブローシュはここでも P. T. フォーサイスの「社交ではなくて、聖礼典こそが、わたしたちの教会生活と社会的結びつきの中心をなすものである!」ということばを引用しています。フォーサイスのこのことばは、おそらく、実際は聖礼典によるよりも社交によって教会が成り立っていることへの警告であろうと思われます。ブローシュはカトリックの聖餐論を批判していますが、プロテスタントで聖餐がないがしろにされているよりは、礼典主義のほうがまだましであると言っています。その理由について「なぜなら、保守的になったり悪用されたりしているものは、ほんものへと再び回復され得るが、しかし溶解してしまっているものはもはや存在していないからである」と言っています。聖餐の「溶解」ばかりでなく、今や福音の溶解が起こっているのかもしれません。
8月22日(土)今日は日本語部のピクニックがありました。国際結婚者の会で会った人に声をかけたところ、彼は自分で聖書を勉強しているということでしたので、いろいろ話を聞いたりしたりして時を過ごしました。英語での対話でしたが彼の質問に対する私の答を良く理解してくれました。まだたくさん質問があるそうですので、いつかゆっくり話をしたいと思っています。
8月23日(日)第5章は「告白」を扱っています。アメリカではカウンセリングが盛んで、それは教会でなされるべき「告白」の代用と考えられてきました。しかし、カウンセリングは神の前における義認に何の力もなく、人に罪の赦しを与えることはできません。プロテスタントにおいても罪の告白は保たれ、カルヴァンは聖餐への準備として勧め、罪の告白を聞くのにふさわいい人物は牧師であると言い、ウェスレーも霊的指導者にむかっての私的な罪の告白を提唱しています。なのに、これが19世紀に姿を消したのは、他の人に罪を告白して赦しのことばを聞くなどというのは自立した人間のすることではないという啓蒙思想の影響や、プロテスタント諸派の反カトリック感情から来ているのではないかと分析していますが、最大の原因は、自己を「順法的な人々の社会」と考えているプロテスタントの主流教会が、罪の意識を失ったからだと言っています。そこでは一般的な罪については語られても、個々人の具体的な罪が指摘されることがなく、人々は偽善の中にとどまり続けるのです。ボンヘッファーが言うように、罪の告白が回復されることによってはじめて、私たちはこの偽善から解放されるのだと思います。私自身が良い告白者となり、それによって愛と知恵をもってひとびとの告白を聞き、力強く赦しを宣言する者となりたいと思います。
8月24日(月)第6章は「教会規律」(戒規)についてです。「説教」、「礼拝」、「洗礼」、「聖餐」、「告白」など、すべて教会について大切なことがどんどん「崩壊」もしくは「溶解」していっている、そんな危機感の中でブローシュはこの本の一章、一章を書いているのですが、この章は「教会規律の崩壊」という節から始まっています。ブローシュは教会規律崩壊の実例をさまざまにあげていますが、いまから40年前の状況は今も変わっておらず、今はその崩壊がもっと進んでいるように思います。福音の中心は罪の赦しにありますが、罪の赦しを告げることは同時に悔い改めへの呼びかけでもあるはずです。ブローシュはボンフェッファーが教会規律について書いている「聖化とは、教会をこの世から分離するだけでなく、教会からこの世的なものを追い出すことなのである」ということばを引用して教会規律の回復を訴えています。「自己規律」は「教会規律」にとってかわられるものではなく、むしろ「教会規律」が「自己規律」を支えると、ブローシュは述べています。
8月25日(火)第7章では「堅信礼」が取り上げられています。堅信礼というのは幼児洗礼を受けたこどもたちがある一定の年齢になって(おおむね中学生から高校生)教理を教えられ、成人会員として受け入れられるためのものです。ブローシュはこれもまた、多くの教会で、こどもの成長を祝う通過儀礼になっていないかと疑問を呈しています。幼児洗礼を行わない教会では基本的には「堅信礼」がないのですが、それに準じたものがあって良いと思います。小学生や中学生で洗礼を受けた場合、そのこどもたちはある一定の年齢になるまでは「準会員」として教会での選挙などにかかわることができません。私はこのこどもたちが「正会員」になる前にきちんとした教理教育をし、「堅信礼」をして正会員として受け入れるのが良いと思っています。ブローシュが「成人のための堅信礼」を主張しているのには私も賛成です。長く教会を離れていた人が教会に戻ってくる時には「堅信礼」をもって迎えてあげたいと思っています。
8月26日(水)第8章では教会の「制度」がとりあげられています。ブローシュはエキュメニカルな集団に硬直化した制度的教会に霊的な息吹を吹き込む役割を期待しています。ブローシュはトレヴェカ共同体、シェーカー共同体、アマナ共同体、ディアコニッセ共同体、ヘルンフート会、チャーチ・アーミー、イエスの小さな兄弟会、箱舟会、ファコラーレ会、オプス・ディ会、グレンマリー姉妹会、テゼー兄弟団、マリヤ姉妹会、キリストの兄弟会、リー・アベイ共同体、十字架の仲間たち、マリヤの娘会、グランシャン姉妹会、アガペー共同体、聖ユリアヌス共同体、アイオナ共同体、イムスハウゼン共同体、共同生活兄弟団、ベタニヤ会などの名をこの章の中であげています。私はこのうちのいくつかしか知りませんが、カリフォルニアにもそのような団体があればぜひそうしたところから学んでみたいと思っています。ブローシュはこれらの人々が奉仕の生活とともに祈りの生活を送っていることを高く評価しており、現代の教会の「リトリート」があまりにも「セミナー」や「カンファレンス」のようになってしまい、その本来の目的を果たしていないことを嘆いています。ブローシュがこの本を書いたときでさえそうなら、今は、多くの「リトリート」が「エンターテーメント」の場になっていると言ったら言い過ぎでしょうか。「わたしたちは、霊的なリハビリテーション、学習、黙想などのためのセンターを建てるために努力しなければならない。」とブローシュが述べていることにはまったく同感です。まず、教会がそのようなところにならなければならないと思っています。
8月27日(木)第9章では、ブローシュがこの本を書いたころ盛んになってきた「カリスマ運動」について触れています。ブローシュは改革長老系の人ですが、いやしなどの賜物は初代教会以降は姿を消したとは考えていません。そうした考えは聖霊のはたらきを制限することであると言っています。カリスマ運動の持つ弱点を考慮しながらも、ブローシュは「カリスマ運動」を暖かい目で見守り、あまりにも世的になった教会がそれによって回復することを期待しています。
8月28日(金)第10章では「いやし」と「悪霊追放」が論じられています。聖書の「いやし」や「悪霊追放」を合理化しようとする試みに対してブローシュは「ノー」を言っています。神による超自然の癒しがあり、「悪霊」による精神の異常というものがあることをブローシュは認め、同時に医学や精神医学の役割をも肯定的に受け入れています。そして、なによりも大切なこととしてブローシュはいやしや悪霊追放が福音の宣教に仕えるものであることを強調しています。「教会の主要な職務は、福音の説教と人々の魂の救済であり、癒しは、この救済の結果であるとともに、それへの踏み石でもある。」ということばは、教会におけるいやしの位置をしっかりと指し示しています。
8月29日(土)第11章には「世俗化時代の福音宣教」というタイトルがつけられています。ブローシュの時代は「世俗化」の時代と呼ばれ、今は「ポスト・モダーン」の時代と呼ばれています。世俗化時代の中にいる人は自分たちの社会が世俗化していることがわかりません。ポスト・モダーンの時代の中にいる人は、その社会が絶対的な基準をもたず、すべてが主観的なもので動いていることがわかりません。「井の中の蛙」ということばがあるように、他の世界を知らない人々は、自分のいるところが最善であると、何の疑いもなく信じ込んで、他を見ようとしないのです。しかし、神のことばを学び永遠の視点からものを見ることができる人は今の時代を見極めることができます。アウグスティヌスはそのような人のひとりでした。アウグスティヌスは、滅亡の危機にあったローマ帝国を永遠の神の国の視点でみつめ『神の国』という大作を書きました。私たちも、時代に呑み込まれるのでなく、その時代にあって永遠をあかしするものになりたいと思います。
8月30日(日)ブローシュは第11章のはじめで、そのころ盛んであった「クルセード」形式の大衆伝道をとりあげています。これらの大衆伝道が福音を商品のように「販売」しょうとしていること、社会や国家の罪を指摘せずに罪を抽象的にしか語らないこと、心理学的な方法で「決心」を募り、その「決心」が安易なもので終わってしまっていることを批判しています。しかし、これによって多くの人がキリストを見出しているという事実にも目を向け、こうした伝道によって導かれた人々が健全な教会によってしっかりと信仰を育てられるようにと願っています。大衆伝道がアメリカ的な「数の力」に頼るものではなく、真に聖霊の力に頼るものとなり、リバイバルへの道筋となるようにと願っています。
8月31日(月)この著作の中でブローシュは何度もボンヘッファーを引用していますが、大衆伝道とリバイバルについての項目の中で、彼は「ディートリヒ・ボンヘッファーは、アメリカの教会は、多くのリバイバルを体験してきたけれども、真の意味での宗教改革を体験していない、ということを賢明にも見抜いていた。」と言っています。これはボンフェッファーの No Rusty Swords(『錆びついていない刀』)という、彼の手紙などの小品を集めた本にあるそうです。「宗教改革を体験していない教会」は、アメリカの教会のみならず日本の教会についても言えることですし、宗教改革から500年近く経ったほとんどの教会は、「教会の組織や活動、教えや実践を神のことばの批判の下にさらす」ことをしていないように思えるのです。Reformation と Rivival は両方が伴ってこそ、はじめて教会を生かすものとなると思います。
Home Prev Year Prev Month Curent Next Month Next Year