USA Diary

June, 2008

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6月1日(日)日本にいたころ、その月の一日が日曜日のときには、その日を「礼拝出席奨励日」にしていました。アメリカでは「クリスチャン」の三分の二が礼拝を定期的に守っていません。クリスマスやイースターなど、特別な時だけ出席して、それで問題を感じていません。ここでも「礼拝出席奨励日」が必要かもしれません。
6月2日(月)毎年のことですが、年度報告の校正をしています。報告書は「恵まれました。」などという「感想」ではなく、「いつ、どこで、何をしたか。」という基本的なことがらを書くようにと伝えているのですが、なかなか徹底しません。そういう私の「牧会報告」がいちばん具体的でないかもしれません。
6月3日(火)しなければならないことが山ほどある中で、年度報告の印刷を手伝ってくれる人たちができなくなり、どうしょうかと思っていたら、こういう仕事に慣れた人が、日本語部の分をひとりで印刷してくれました。とても助かりました。
6月4日(水)水曜聖書の学び会の一クラスでは、信仰の基本的な30の項目を学びました。今日が最後のクラスになりましたが、このコースを通して考えることになっている「ひとびとに福音を伝えるための独自な方法」について発表しあいました。今日の発表では、高齢になって車を運転しなくなって家に閉じこもりがちな人たちへのケアと伝道が話題の中心となりました。
6月5日(木)水曜日の聖書の学びのために次年度の準備をしなければなりません。ほんとうはカリキュラムがあって、それを繰り返せばいいのですが、参加者のことを考えながら、そのつど主題や方法を変えています。「どんなことをどんなふうに学びたいですか。」と尋ねても、まだ「これを学びたい。」という答は返ってきません。私のほうでさまざまなことを考えながら、準備するしかないようです。
6月6日(金)水曜日の聖書の学びのために、オリジナルの教材を作ってきました。時間はかかりますが、私自身にとっても良い学びの機会となっています。それを使ったあと改良していく必要があるのですが、それがなかなかできないでいます。
6月7日(土)年度報告の製本作業がありました。今年は部数が少なかったので、すぐに終わりましたが、こんなに部数が少なくてよいのだろうかと疑問に思いました。英語部は、早くきた人から順に年度報告を渡すということで、あとは PDF で配布ということらしいですが、日本語部は総会にでられなかったアクティブ・メンバーにも配るという方針を持っていますので、全員の部数を確保しました。
6月8日(日)教会の年度総会が日本語礼拝の前にありました。いつもはみことばの学びと祈りがあって礼拝に臨むのですが、このように、ビジネスやディスカションが礼拝前にあると、なかなか礼拝に焦点があわさりにくいことを感じます。日英両語部の教会では、他に選択肢がないので、苦労します。
6月9日(月)本のカタログがいろいろと送られてきます。全部の本を読むことができなくても、今、どんな本が読まれているのかが分かるだけでも、ずいぶん役立ちます。互いに対立する立場での本もあり、読み比べてみたいと思いますが、ゆっくり本を読む時間がとれないのが、とても残念です。
6月10日(火)山火事のため、灰が降ってきて、それでなくても汚い私の車がもっと汚くなりました。今年の春は雨が少なかったため、空気が乾燥しきっているのが、災いしているとのことです。
6月11日(水)「千の風になって」という歌が日本で流行りました。この歌を、キリストの復活と結びつけていた説教がありましたので、「ほんとうにそうだろうか」と思って、この歌について調べてみました。この歌の詞は 1932年に Mary Frye さんによって書かれました。彼女のユダヤ人の友人が、ドイツにいる母親が亡くなったが、そのころのドイツは反ユダヤでしたので、母国に帰って、母親の墓前で涙を流すこともできないと言ったのを聞き、ひらめきをえて、ショッピングバッグに走り書きをしたものだそうです。"Do not stand at my grave and weep" という最初のことばには、母親の墓を訪れることさえ許されなかった状況が意味されていたのです。しかし、そのあとに続く "I am a thousand winds that blow/I am the diamond glints on snow/I am the sun on ripened grain/I am the gentle autumn rain." というのは聖書的ではありませんし、復活を指しているとは、私には思えませんでした。私たちは死後、風や光、太陽、雨になり、地上にいるのでなく、たましいは神のもとに帰るからです。肉体は灰になり土に返ります。しかし、キリストの復活により、再び栄光のからだが与えられる、それが聖書の教える復活です。この歌をそのままキリストの復活、クリスチャンの復活に結びつけるのは無理があります。
6月12日(木)教会のウェブページのサーバーが設定を突然変え、しかもこの一ヶ月の間に新しくアップロードしたファイルが消えてしましました。さっそくバックアップをアップロードしてもらったり、プログラムを書き直したりして、修復しましたが、手をつけていない部分がいっぱいあります。思わぬトラブルに時間をとられました。
6月13日(金)日曜日や水曜日に学ぶ機会をつくれない人たちのために、せめて月一回でも聖書の学びを提供したいと思い、Pastor's Bible Study をはじめたいと願っていました。ここ数年、個人的に、また男性のかたがたに呼びかけてきたのですが、実現しませんでした。ところが、ようやく、有志が与えられ、第0回目をしました。「第0回目」というのは、まだ執事会で許可されていないので、公式になっていないからです。主題以外の質問が多く、予定したことの三分の一もできませんでしたが、「第1回目」に向けて、すこしは前進できたかと思います。
6月14日(土)任期が満了した執事への感謝会をしました。残念ながら、ひとりは家族にご不幸があり、もうひとりは病気で、全員がそろいませんでしたが、楽しい時を持ちました。そのとき、夢を求めて生きるタイプの人を「アーティスト」と言い、日常のことを計画的にやっていく人を「エンジニア」と言うのだという話になりました。この世には両者がいて互いに補いあっているのでしょう。大学でも学問は「アート」と「サイエンス」に分けられていますが、両方とも必要なのですね。
6月15日(日)教会で病気の人たちが多く、祈りを必要としています。聖書は「神の力は弱さの中に現れる。」と言います。聖書ならでは逆説ですが、これ以上の真理はありません。病気の人々を訪ね祈るたびに、この真理の偉大さが見えてきます。
6月16日(月)きょうは、二つの店で買い物をしました。多くの人にとって店を二つ、三つと「はしご」するのは、当たり前なのかもしれませんが、私たちは、そういうことはありまりしませんので、帰ってきてから少し疲れました。月曜日というのに人出が多かったのも疲れの一因かもしれません。
6月17日(火)学校が休みになって、登下校時の混雑がなくなりました。近所のあちこちで行われていた「卒業パーティ」もそろそろ収まってきました。長い夏休み、こどもたちがさまざまな悪から守られるよう祈っています。
6月18日(水)年度代わりのさまざま処理で追われています。今年、会計担当者が交替したので、もういちど、説明しなおす必要があり、執事が足らないぶんだけ、私の仕事が増えました。
6月19日(木)新年度最初の執事会がありました。執事会では、あたらしく執事になった人に手をおいて祈るならわしがあります。「手をおく」祈りは「委託」や「同情」などをあらわしますが、もともとは聖霊を求める祈りでした。教会の執事は、たんなる組織の役員ではなく、信仰の奉仕ですので、真剣に聖霊を求めなければならないと思います。
6月20日(金)夏期修養会の主題聖句などをリボンに印刷したブックマーカーを注文してあったのですが、それが今日、届きました。注文の段階で、電話やEメールで親切に対応してくれたのですが、できあがった品物もとてもよくできていました。今は、印刷原稿をファイルで送るようになっており、高級なグラフィックス・ソフトウェアを持っていない私は、あまり質のよいファイルを送ることができなかったのですが、できあがりには満足しています。
6月21日(土)今回の説教はずいぶん難産で、きょう夜遅くまでかかってしまいました。今月は「奉仕」についてのメッセージなので、具体的なことにも触れていきたいと思っていますが、説教の基本は、具体的なものの背後にある原理、言い換えれば「教理」を示すことにあります。プラクティカルなものだけが求められる時代ですが、私はたんなる「実践」だけを語りたくはないので、いつも「教理」と「実践」とのつながりを説くことに苦労しています。
6月22日(日)朝の成人サンデースクールで、ゲストの方が、「ブラジルでは、何を話したかで、それが聞かれたり、聞かれなかったりするが、日本人の間では誰が話したかで、それが聞かれたり、聞かれなかったりする。」と話していました。それで、教会の集まりでも「○○先生来る!」などと、講師が前面に出すのです。私は、誰が話すかではなく、何を話すかというほうを大切にしたいので、自分たちの小さい世界の中だけの「有名人」を特別視するようなことは、好みません。そんなことをすると、神のことばそのものが私たちに語りかけることを妨げるように思うのです。
6月23日(月)教会から、私が「祈りのリトリート」の働きをするのを承認してもらいましたので、日曜日にさっそく、数人の人たちにその呼びかけをしました。そうしたら、今日、英語部の人からさっそく返事のメールをもらいました。以外と多くの人が応答してくれました。これから教会外の人々にもコンタクトをしていきたいと思っています。
6月24日(火)今月の半ばに、ウェブページサーバの設定が突然変わり、教会ウェブページのデータを失うという、とんでもないことが起こりました。私個人のウェブページや私が管理している教団のウェブページも同じ会社のものを使っており、同じようにサーバ設定が変わったのですが、こちらは幸いデータは失われていませんでした。しかし、三つのウェブページのほとんどの CGI プログラムを書き換える必要があって、そのためにたくさんの時間が取られました。ようやく、書き換えが終わりましたが、まだ、少し手をつけなければならないものが残っています。
6月25日(水)きょう夜の祈り会では John Stott の The Living Church から、教会についての「五つの夢」をいっしょに学びました。出席者は新旧の執事たちがほとんどでしたので、まるで執事会の祈り会のようでしたが、みんながこの学びを喜び、その後も教会にこうしたビジョンが浸透するようにと祈りあいました。
6月26日(木)教会でリモデル委員会がありました。日本語部からの出席が少ないと良くないので、私も出ましたが、きょうは、まだブループリントが出ておらず、以前の話のくりかえしになってしまいました。出席者は年配の方が多く、将来の教会を担う若い人々の出席がもっと欲しいと思いました。
6月27日(金)きょうの礼拝プログラムの印刷には長期に日本に滞在している係の人に代わって、新しい人が来てくれました。のみこみの早い人なので、少し教えただけでどんどん仕事をすすめてくれ、とても助かりました。礼拝プログラムは印刷だけで終わらず、PDF にしてウェブページにアップロードするのですが、その仕事は、印刷が慣れてからしてもらおうと思っています。
6月28日(土)今回の説教は、予定どおりに準備できました。来週は出かけるので、次週の準備もしておかなければならないのですが、まだ、手をつけていません。夏の間、詩編からともに学びたいと思っています。詩編は解釈するよりも、瞑想するものですので、次週の修養会の間、会場になっているウェストモント大学のきれいな庭を散策しながら、みことばを味わってみたいと思っています。
6月29日(日)礼拝後執事会があったので、帰りが遅くなり、礼拝メッセージをウェブページにアップロードするのも遅くなりました。きのう、礼拝メッセージの iPod への配信プログラムが動いていないということを聞いたのですが、私は、そのあたりのことが分からないので、分かる人に対応してもらえたらと願っています。
6月30日(月)ウェブページのプロラムの書き換えがようやく終わり、今度は、家内から頼まれていた CD の複製と、エッセーの印刷準備を始めました。来週からの夏期修養会に持っていくためです。信仰的な養いを求めて、私たちから何かを得たいと言ってくれる人たちがいてくれるのはうれしいことです。
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