USA Diary

March, 2009

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3月1日(日)映画「おくりびと」が外国映画部門でアカデミー賞を受けたので、日本では大勢の人がこの映画を観に行っているそうです。この映画は長年納棺師という仕事をしてこられた青木新門さんの「納棺夫日記」という本が土台になっているのですが、青木さんは映画の「原作者」というタイトルを外してほしいと願って、そうなったそうです。それは、青木さんの本が宗教的なものであるが、映画はヒューマニズム的なものになっており、映画は映画、本は本として受け止めてもらいたいと語っていました。次は、青木さんへのインタビューとその答です。考えさせられることが多くあります。
—宗教色や生死への哲学的な思索が薄くなって、わかりやすくなったということはないでしょうか。
複雑です。死者と生者のきずなが大事だよと映画は教えてくれるけど、最後は「癒やし」なんですよね。そこで止まっていたら、やがて人間中心主義・ヒューマニズムは、自己中心主義になるのではないでしょうか。癒やしだけだと、その場を取り繕うことになりかねません。におい消しみたいなもので、においそのものを断っているわけではない。においそのものを断つには、宗教的なものが必要になるんです。本を書いたときから、なぜ宗教を書いたのって、言われました。(より専門的に宗教を書いた)3章を書かなかったらノンフィクションの賞に推薦すると言った人もいました。でも宗教に目覚めたのは、3000体の遺体を送ってきた経験からですよ。元々勤めていた会社の社員に読ませようと思って刷ったんですから。
3月2日(月)こんど、私の奉仕する教会と同じキャンベルにある St. Lucy Church に赴任する Fr. Kevin からメールをもらいました。今、オクラホマだそうですが、旅先からわざわざメールを送ってくれました。彼が近くに来てくれるのはとてもうれしいのですが、牧会をはじめると、今までやってきた SpiritSite の働きに時間が割けなくなるのではと心配しています。カソリック教会の牧師就任式は見たことがないので、見てみたいと思っています。彼が私を招待してくれればのことですが…。
3月3日(火)2月28日の男性の会で、「在外選挙人登録」の話が出ました。外国に住む日本人も、日本の国政選挙に一票を投じることができるというもので、その日、サンフランシスコの領事館の職員がサンノゼまで出張して手続きを受け付けていたそうです。衆議院選挙が近いので、手続きをする人が多くいるのかと思いましたが、その比率は案外少ないそうです。永住ビザで長くアメリカに住んでいても、アメリカでの投票権は与えられません。せめて、日本の政治に関心をと思っても、アメリカに長くなると、その関心も薄れるのでしょうか。日本の政治には感心できないことがあまりにも多く、あきらめもあるのかもしれません。
3月4日(水)祈り会で「レントの黙想」を使っての感想を聞きました。朝の祈り会では多くのコメントが出ませんでしたが、夕の祈り会では良いコメントがいくつか出ました。教会の英語部ではレントのかわりに、リック・ワレンの "40 Days of Love" というのをしていますが、レントそのものは守っていませんし、教団の教会でも、私の知る限りでは、レントを守っている教会はほとんどありません。もう少し Christian Year(教会暦)について啓蒙していく必要があるように思います。
3月5日(木)教会に UPS の配達があり、"envelops.com からの荷物ですよ。今は、何でも「ドット・コム」だね" と言いながら、私にサインを求めました。思わず "nakao.com" とサインしそうになりましたが、間違えずサインしておきました。UPS も「ドット・コム」のおかげで仕事があるのですから、「ドット・コム」のことは悪くは言えないはずです。
3月6日(金)テゼ・ワーシップに行きました。歌詞カードをもらったのですが、正面の十字架のまわりと通路にキャンドルがあるだけで、礼拝堂はまっくらでしたので、歌詞カードを読むことはできませんでした。4月3日には Tenebrea がある予定なので、そのときは小さなライトを持って行ったほうが良さそうです。Tenebrea というのは、「暗闇」という意味のラテン語で、人間の罪が真理の光を次々に消していき、暗闇をもたらしたが、キリストはその復活によって、ふたたび世界に光をもたらしたということを、視覚的にもあらわす礼拝のことです。Tenebrea には今年も参加したいと思っています。
3月7日(土)アマゾンから本が届きました。以前、人に貸してあげたらそれっきり返ってこなかった本が「古書」として販売されていたので、注文してあったものです。おそらく本の箱を開けるときについたものと思いますが、表紙にカッターに切り傷があるだけで、実際には読んだ形跡のない新品でしたが、「古書」扱いされていました。これは、さまざまな人々の祈りを集めた本なのですが、それと同じタイプの本で Just One Year: A Global Treasury of Prayer and Worship という本も買いました。これは、世界中から集められたクリスチャンの祈りを教会暦に従ってまとめたものです。特に、貧しい国々、あるいは圧迫された人々の祈りが集められています。「序」の部分には社会正義に焦点を合わせた礼拝をどのように計画したら良いかの手引きがあり、とても参考になりました。
3月8日(日)ある雑誌に「十字架の七言」を主題にしたバイブルスタディ・ガイドの広告がありました。「十字架の七言」をとりあげたものはあまり多くないので注文しました。同じ著者が、その続編として、復活されたキリストが昇天までの間に語られたことばをとりあげたガイドもあったので、あわせて注文しました。このふたつはとても興味があり、実際3〜4月の説教としてとりあげる予定ですので、参考にしたいと思っています。
3月9日(月)家内の風邪がまだ良くならないので、買い物は私ひとりで行きました。私のお気に入りのグロッサリー・ストアです。なぜ、ここがいいかというと、男性の店員が多く、買い物客も男性が多いからです。べつに女性恐怖症ではありませんが、女性の多い中に男ひとりで出かけるのはあまり好きではありません。また、この店は、オーガニックの新鮮な野菜があり、しかも、安いのです。女性は見た目でものを買うといわれていますが、男性は値段を見てものを買うのです。
3月10日(火)教団牧師会で、昼食はいつもと違うレストランに行きました。サンドイッチが2ドルと、安かったので、同僚の牧師はテイクアウト用に注文していました。帰りの車の中で食べるのでしょうか、それとも、奥様へのおみやげでしょうか。
3月11日(水)「十字架のステーション」のこども版を作りはじめましたが、こどもにわかりやすくするのにどうしたらいいかと苦労しています。
3月12日(木)きょうは宣教委員会とリモデル委員会のダブル・ヘッダーでした。リモデル委員会で、図面をスクリーンに映し出すために、プロジェクターに直接つなぐことができるカメラを使ったのですが、それはなかなか便利なものでした。
3月13日(金)Pastor's Bible Study で「初代教会」の勉強をしてきましたが、今回の「宣教の拡大」で一応、ひとくぎりとしました。来月はグッドフライデーにあたるので、スキップして、次は初代教会から中世までの教会の歴史の概略を話したいと思います。あわせて、次年度のことも決めたいと思っています。私としては「霊性の神学」をやりたいと思っています。
3月14日(土)夕方家内とふたりで散歩のついでに、庭に水をやるシャワー・ワンドを買いに行きました。そうしたら、別の店の前で、教会のメンバーのひとりとばったり出会いました。「明日は学校の行事があって行けません」とのこと。路上でしたがとにかく連絡をもらってうれしく思いました。
3月15日(日)「忙中閑あり」で、夕方、コラールのコンサートに行ってきました。American Masters のタイトルでのコンサートでしたが、ヘブル語の詩篇の賛美がありました。ボーイソプラノが詩篇23篇をヘブル語できれいに歌い上げてくれました。コンサートの後半部はアカペラ曲がほとんどでアッシシのフランチェスコの「平和の祈り」もありました。
3月16日(月)先週、聖書研究の手引きといっしょに注文した Pope Benedict XVI の "The Joy of Knowing Christ" を読み始めました。この本には55篇の短い説教が収められており、そのほとんどは福音書をテキストにしています。Pope は以前教理部門の責任者をしたほどの神学者であり論客ですので、筋の通ったお話をします。しかし、Pope になってからは大衆に語りかけるための工夫をしており、この説教集もとてもわかりやすいものとなっています。しかし、「わかりやすい」といっても、それは内容が薄いという意味ではありません。近年の説教が「わかりやすい」ということだけを狙って、内容が貧弱なものになっているのとは違います。確かな内容を「わかりやすい」ことばで示しているこの本をこれから読みすすむのを楽しみにしています。
3月17日(火)受難週の祈り会のためにを準備していますが、以前作ったプレゼンテーションファイルが無くっていて、また作り直さなければならないかと思っていたのですが、別のところに見つけました。これをもとに新しく選んだ賛美を加えてスライドを作ることにしました。たいへん助かりました。
3月18日(水)きのう、きょうとひとりづつ洗礼準備会をしました。それぞれ時間が合わないこともありますが、One On One のクラスでないとなかなか信仰を確認できないので、そうしています。準備会に出ている人たちが喜んで真理を学び、それに応答しようとしていることは、私にとって大きな励ましです。
3月19日(木)アメリカの保険会社 AIG が政府からの補助金をもらっていながら、会社役員に高額のボーナスを支給したということで、大統領をはじめみんなが怒っています。そのボーナスに90%の税金をかけるという案が出ているのですが、それに対して法的に異議を唱える人もあります。大企業の道義的責任が問われています。
3月20日(金)ゼロ会では内村鑑三の『代表的日本人』から西郷隆盛がとりあげられました。内村の本に「命も要らず、名も要らず、位も要らず、金も要らず、という人こそもっとも扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難を共にすることのできる人物である。」という最後のことばがありましたが、西郷が言う「もっとも扱いにくい人」とはじつは西郷その人のことを言っているように思います。私はこれを読んでもっと隆盛について知りたいと思うようになりました。
3月21日(土)ブッシュ前大統領がカナダで講演会をしましたが、ブッシュ前大統領がカナダで講演するのに反対する人が大勢だったそうです。ブッシュ嫌いの人が多いのですが、私はブッシュ前大統領の人柄は好きです。オバマ現大統領はボーリングが苦手で、自分のボーリングを「パラリンピック並だ」と発言しました、ブッシュ前大統領はそんなことは言わなかったように覚えています。ブッシュ前大統領はエリート意識のあまりない人で、弱い立場にある人々を思いやる温かさを持っていたように思います。
3月22日(日)"The Joy of Knowing Christ" を少しずつ読んでいます。一篇一篇は短いのですがとても内容の濃いものです。これを聞く人は、その私もこんな短い説教をしたいと思いますが、私たちの場合、聖書や信仰の背景の少ない人々が対象となりますので、聖書のことばの一つ一つにいちいち説明が必要になってきます。たとえば、本の数ページが破られていても残っているところがわかれば全体がわかる、映画のいくつかのシーンを見過ごしても見ているうちに頭の中でストーリーがつながっていく、英語のいくつかの単語がわからなくても相手の言おうとしていることが分かる、そんな総合的な分かり方というものが、現代人はできなくなっているのでしょう。それで説教もいきおい、マニュアル的になっていくのでしょうが、私は、それは良いこととは思っていません。
3月23日(月)私の出身神学校での今年の夏の講座は「説教について」です。ひさしぶりに参加してみたいと思うのですが、日本まで行くのもたいへんですし、こちらで夏期修養会や教団総会がある時期なので、ずっとご無沙汰しています。しかしアメリカにまで案内を送ってくださることにとても感激しています。
3月24日(火)説教は牧師にとっていちばん大切なつとめです。しかし、いちばん難しい仕事です。アメリカでの説教は、「説教」というより、「レッスン」といったものが多いように思います。多くの教会では、説教のポイントを書いた紙が配られます。ポイントは完成された文章になっておらず、最初の一文字だけが書かれていて、あとはアンダーラインが引かれていて、ブランクになっています。聞き手は説教を聞きながらそれを埋めていくのです。ハンドアウトの代わりにスクリーンにそれを映し出す教会も増えてきました。まるで会社のプレゼンテーションのようです。そうすれば、聴衆はポイントは覚えて帰るでしょう。しかし、それではペーパーに答を書いて満足するということだけで終わってしまいそうです。説教に知性は必要ですが、それは単に知的興味を満足させるものではないはずです。神のことばを心に宿らせるというもの、人の心を、人生への態度を変えるもの、人を行動に導くものであるかと思うのです。アメリカの説教にはそうした霊的側面が足らないように思います。
3月25日(水)以前の教会では、素朴な形でしたが、霊的なものを共有できる雰囲気がありました。今、そうしたものがなく、ずっと霊的なものに渇いていました。そして霊的な旅の中で、黙想や観想の大切さに気づくようになりました。そして「黙想」(meditation)と「観想」(comtemplation)の違いはどこにあるのだろうと考え続けてきました。そうした中で気づいたことは、黙想は mind の働き、観想は heart の働きだということでした。黙想は自分と語ることですが、観想は神と語ることです。黙想ではこころの中のみことば(Scripture)と語りますが、観想ではたましいのうちに住んでいてくださる聖霊(Spirit)と語ります。黙想では唇にのぼることばは使いませんが、理性のことばは使います。しかし、観想では心の中で語ることばも失い、沈黙の中で神と語るのです。なぜなら神は「沈黙の中で語ってくださる」からです。「沈黙の中で語る」というのは矛盾ですが、私は、この矛盾の中に真理があるように思えてなりません。
3月26日(木)説教は語られるみことばですが、聖餐は見られるみことばです。聖餐は沈黙の中に行われます。私たちの教会ではパンと杯を配餐者が会衆に配り、みんなが行き渡ってから一緒にいただきます。とくに杯が配られるとき、杯とトレーが触れて「カチャカチャ」という音が聞こえます。静けさの中でその小さな音が聞こえてくる、私はその時間が好きです。配餐の間ピアノが弾かれますが、個人的にはピアノがないほうが良いと思っています。そうすればピアニストも席について配餐を待つことができます。聖餐は沈黙の中で行われます。しかし聖餐以上に雄弁に主の死を告げ知らせるものを私は知りません。私にとって聖餐のときがいちばんのしあわせな時です。
3月27日(金)「聖餐を前に、牧師とともに祈るときを持ちましょうと呼びかけてきました。」今回はレントの期間中ということもあって、いつもより多くの人と祈り合うことができました。悔い改めの祈りだけに限らないで祈っていますが、やはり、悔い改めの祈りをきちんとしていきたいと願っています。
3月28日(土)教会の電話のうち、私のオフイスのラインだけが故障しました。AT&T を呼ぶ前に修理を試みてくれた人がいたのですが、うまくいきませんでした。この故障は突然起こりました。電話線の接続版が倉庫の中にあって、しかもカバーのないものなので、荷物の出し入れのときにワイヤを引っかけたのかもしれません。カバーをつけたら良いのかもしれません。
3月29日(日)近所の方の庭に咲いた桜を見にいきました。私たちが行ったときには、教会の人たちがもう帰ったあとでしたが、この家のご夫妻のお友だちがまだ何人がいました。あとで教会に寄る用があったので、そんなに長居しないで帰ってきました。
3月30日(月)映画 Fireproof を見ました。奥さんと離婚の危機にあった消防士が、父親の勧めで40日の間、愛の実践をこころみているうちに、奥さんと和解するというストーリーでした。伝道用に作られた映画で、野外に立てられた十字架が何度も登場するのですが、キリストの十字架がほんとうの愛とは何かを語りかけているように思いました。
3月31日(火)イースターあけに日本語部の牧師たちの集まりがあります。私は「信仰の継承」をテーマに話すことになっており、その発題要旨を準備しました。ずいぶん以前から考え、準備してきたのですが、それを清書するのを怠っていました。きょうがその原稿締め切りで、きょうそれを完成させることができました。締め切りにぎりぎり間にあいました。
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