USA Diary

February, 2011

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2月1日(火)今月と来月の「しらゆり会」のために準備をしました。今年度はイエスのたとえ話から話してほしいとのリクエストがあり、そうしてきました。今月と来月はルカ15章から三つの失われたものをとりあげます。来月の「放蕩息子」のためにはスライド・ショーをするので、その台本を用意して、練習をお願いしておきました。
2月2日(水)きょうはグランドホッグ・デーです。グランドホッグはウッドチャック、ランド・ビーバーとも呼ばれるリスに似た動物です。土に穴を掘って冬眠するのですが、2月2日には穴から出てきます。そのときグランドホッグがとる行動によって、その年の春が早いか遅いかを占うのだそうです。カリフォルニアでは2月になれば木々に花が咲き、春の訪れを感じます。
2月3日(木)雨のせいか、また電話に雑音が入るようになりました。前回修理を頼んだときは、なかなか来てくれませんでしたが、今回は月曜日に頼んで木曜日の朝に修理に来てくれました。
2月4日(金)電話を AT&T からケーブル会社に変えようかとも考えてもいましたが、電話が一応直ったようですので、このまま続けることにしました。IP 電話を使っている人から電話が来ましたが、音がプツリ、プツリと途切れて聞きにくかったので、専用モデムを使っていない IP 電話は私の選択肢には入っていません。
2月5日(土)バレンタイン・デーが近づき、お店にはチョコレートがあふれています。バレンタイン・デーが終わると、今度はイースターのものが売り出されます。イースターにうさぎはつきものなのですが、チョコレートのうさぎが売り出されるのです。どのお祭りにもチョコレートは必需品なのですね。
2月6日(日)きょうからコロサイ人への手紙のメッセージを始めました。一字、一句を丁寧に扱う「講解説教」というわけにはいきませんが、できるだけ、テキストにそって話していきたいと願っています。説教とは本来は、朗読された聖書本文にそうものであるはずなのですが、いつしか、説教者が選んだ主題(その多くは聴衆が聞きたいと思っていること)にそうものとなってしまいました。そうなると、説教者と聴衆との一致は生まれても、神と聴衆との一致は生まれません。神が語りたいと願っておられることを聞きたいと願う聴衆を持つ説教者は幸いと思います。
2月7日(月)今までテレビで NHK国際放送を見ることができたのですが、急に見られなくなり、一ヶ月が経ちました。チャンネルが変わったのかと思い、チャンネルをスキャンしていたら、やはり別チャンネルでやっていました。ところが、今までのように録画できないのです。録画禁止の信号が流れてるようです。私が持っているレコーダーでは出来なくても、コンピュータでなら出来るかもしれません。そのうち試してみようと思っています。
2月8日(火)教会の礼拝プログラム・カバーは東海岸の季節が基準になっているからでしょうか、2月や3月のカバーに雪景色のものが多いので、カリフォルニアの季節には合わないように思います。独自の礼拝プログラム・カバーを使っている教会も多い中で、私たちは毎週違った景色の写真を使ったカバーシートを使い続けています。
2月9日(水)今年は雨の日が多く、山では雪になります。それで1月のマルチン・ルター・キングの日や今月のプレジデント・デーなどにはレイク・タホやマウント・シャスタの方面にスキーに行く人が多くなります。カリフォルニアでもウィンタースポーツは楽しめるのです。
2月10日(木)宣教委員会がありました。サポートする宣教師の数を増やすより、もっと祈りのこもったサポートができるようにしたいということでみなが一致しています。サポートしている宣教師の現場を訪ねたり、短い期間でも手伝いができるようになれば良いと願っています。
2月11日(金)きょうのバイブル・スタディでは「使徒信条」の「我は聖霊を信ず」をとりあげました。聖霊論をたった一回で終わるのには無理がありますが、聖霊のお働きは具体的には「我は教会を信ず」以下に展開されているので、続くクラスで深めていきたいと思っています。
2月12日(土)使徒信条の学びはどの牧師もとりあげており、さまざまな教材がありますが、同じ教団のホノルル教会の牧師もこれを礼拝説教でとりあげているようなので、できれば、その原稿をいただけたらとも思っています。
2月13日(日)バレンタインデーが近づくと駐車場の一角にテントを張って、人形や花束などが売られるようになります。きょうも、そんな光景を見ましたが、聖書が伝えようとしている愛は「バレンタインデーの愛」ではなく、もっと深い「神の愛」、「キリストの愛」、また「御霊による愛」です。きょうの礼拝の聖書箇所に「御霊による愛」ということばがあり、きょうは、それを説教のタイトルにして話しました。
2月14日(月)See's Candy のギフト・カードが残っていたので、それを使おうと、家内とふたりで See's Candy に行ったら、いつも空いている店になんと長い列が出来ていました。きょうはバレンタイン・デーだったのです。何も考えずに行った私たちは、あきらめて、別の日にまた来ることにしました。その長い列の中に英語部のメンバーがいて、私たちに手を振っていました。彼もかなり待たされてやっとチョコレートを手に入れたことでしょう。
2月15日(火)「レントの黙想」の編集と校正をしています。例年は私が書いたり、翻訳したりしたものを使っているのですが、今年は、教団の牧師、牧師夫人に原稿を依頼しました。今までも、いくつかの教会で使ってもらっていたのですが、今年は、もっと多くの教会で使ってもらえることと思います。
2月16日(水)まえに「NHK国際放送を録画できない。コンピュータで録画できるかどうか試してみたい」と書きました。そのためにはコンピュータにとりつけるテレビチューナが必要です。私が使っているコンピュータにちょうど良いのがありましたので、注文しました。
2月17日(木)きょうの教会役員会では5月のサバティカルを承認してもらいました。教団では5年につき2ヶ月のサバティカルが義務になっています。一度に二ヶ月取るのは無理なので、ちょうど外部奉仕のある5月と、教会行事の一番少ない8月にわけてとることにしました。
2月18日(金)サバティカルの5月の予定はほぼ出来ていますが、8月は未定です。日本に行きたいと思っているのですが、8月は航空券が高いので、決めかねています。せっかくの機会ですので、サバティカルを有効に使いたいと願っています。
2月19日(土)きょう、宣教大会があってサンロレンゾに出かけました。今週はずっと集会や会議が続いてかなり負担でした。何の責任もなく、ただ社交のためだけに行くミーティングなら、気楽に過ごせるのでしょうが、それぞれに責任があり、また、その実りが求められますので、そういうわけにはいかないのです。
2月20日(日)明日はプレジデント・デー。リンカーンとワシントンの誕生日が近く、両方を一緒にしてこの日が決まったと聞いています。礼拝では、政治に携わる人々のために祈り、また礼拝プログラムに同封している "Family Prayer" には「政治に携わる人々のために」を入れました。この "Family Prayer" はクリスチャンの TV 番組で放送されているものから取っています。
2月21日(月)月曜日は私の休日になっていますが、時々、用があって教会に行くことがあります。きょうも、「レントの黙想」の準備のため教会に行きました。夜は、ひさしぶりに「水門黄門」を観て楽しみました。今回のシリーズから入れ替わった新しい「助さん」、「格さん」にもようやく慣れてきたところです。
2月22日(火)ニュージーランドで大きな地震があり、多くの人が亡くなったり、行方不明になっています。日本からの留学生が多くいるとのことで、日本でも大きなニュースになっているようです。一日も早い人命救助と、震災からの回復を祈りました。
2月23日(水)「レントの黙想」の印刷と製本が終わりました。きのう手伝ってくれる人がいてずいぶん助かりました。教団の各教会には PDF で配信しました。日本にも送ったのですが、ひとりの牧師から、南米から来ている人たちのためにポルトガル語に訳して使いたいとのメールが返ってきました。広く用いられることをうれしく思いました。
2月24日(木)教会の年間聖句にコロサイ3:16を選んだのは、今年の礼拝メッセージのテキストをコロサイ人への手紙にしたからでもありました。私はいままでコロサイ人への手紙からの説教をほとんどしてきませんでしたので、クリスチャンに霊的な成長を促しているこの手紙を学ぶことによってさらに豊かなものへと、私も、教会も進んでいけたらと願っています。
2月25日(金)今日の多くの人々は、物質的には「もっと、もっと」と求めるのに、精神的には「もう十分」と、最小限のことで満足してしまうようです。教会に来てちょっと心が休まればそれで十分で、そこからさらに深い平安を求めようとしないで終わってしまう、聖書も表面を読むだけで、そこに蓄えられている真理を掘り下げようとしないといったことあるように思います。真理に飢え渇き、たましいの安息を求める人がすくなくなりました。ある教会の指導者はそれを「霊的怠惰」であると言いましたが、それは人のことではなく、私の罪でもあると思います。
2月26日(土)「四つの法則」はすぐれた伝道のツールですが、もし、「四つの法則」によって信仰に導かれた人がそののち、「豊かな命をえるために」という次の段階に進まず、そこだけにとどまってしまったなら、福音派は霊的ミニマリズムに陥ってしまいます。きよめ運動やカリスマ運動は、霊的な豊かさを求めた運動でもあるのですが、もし、そうしたものも、定式化されてしまうと、キリストのいのちの豊かさを体験するよりは、ある特定の「生き方」(ライフスタイル)に終わってしまう危険があると思います。キリストの「いのち」をたんなる生活の形式(ライフスタイル)にしてしまいたくないという思いが私のうちに強くあります。
2月27日(日)先週から、礼拝で、コロサイ1:9より始まる部分をとりあげています。ここでパウロは比類のないキリストの救いを覚えて感謝の祈りをささげるとともに、その救いを宣べ伝えるようにと自分に与えられた使命を確認しています。その使命の中心は「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです」ということばに表われていると思います。これは現代的に言えばパウロ宣教団のミッション・ステートメントでした。パウロは自分の使命をはっきりと自覚していた人でした。牧師には多くの要求があります。時代によって、地域によって、その要求は違うかもしれません。そうしたことは無視できないことですし、私は、ある特定のパターンを主張して自分の働きを狭めたくはありませんが、本来のミッションを忘れて、時代に流されたくもありません。パウロは続いて「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」と書いています。パウロの労苦にはとうてい及びませんが、その労苦の一部を味わっていることを誇りに思っています。
2月28日(月)「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです」との聖句は、私がまだ南カリフォルニアにいたころ、北カリフォルニアの新年聖会に招かれて話した主題でした。「キリストにある成人」とは「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ことにあると思います。ミニマリズムでなく、フルネス、十全、完全、充満を追い求めていく姿勢を忘れないでいたいと思います。
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