1月1日(木)きのうの「祈り会」では「聖書を祈る」という主題で、ヨハネの黙示録を読んで、それに対する応答の祈りをしました。「聖書を祈る」と言う場合、聖書にある「主の祈り」や詩篇の祈り、使徒たちの手紙の祈りをそのまま祈るだけでなく、聖書に教えられたことに応答して祈る、聖書に導かれて祈るということも含まれていると思います。神が聖書によって語りかけてくださる、それに祈りで応答する。このとき、祈りは私たちから神への一方通行のものではなく、「対話」の祈りとなっていくのだと思います。
1月2日(金)聖書に応答して祈るという主題について多くの人々が書物を書いており、家内は Elmer Towns の Praying the Psalms を愛読しています。彼の、断食の祈りについての本は有名です。主の祈りについての本も書いており、そのうち読んでみたいと思っています。加藤常昭先生の『祈り』もみことばへの応答としての祈りをまとめたものです。これは古代から行われている Lectio Divina の Reading, Meditation, Prayer, Contemplation というパターンにも即しています。最近、ニュー・エイジ的なメディテーションが流行しており、Lectio Divina のそれも、ニュー・エイジ的なものと混同されて、危険視されていますが、メディテーションのない祈りの世界は貧弱なものになります。今月の「女性の会」で Lectio Divina を紹介することにしていますが、指摘されている危険性についても触れ、みなさんに聖書的な祈りを教えるよう、注意したいと思っています。
1月3日(土)「聖句の黙想」は、聖書の勝手な解釈に導き、「観想の祈り」は、悪霊を心に招き入れてしまうと言う人々もいます。たしかに、勝手な解釈や「私的解釈」(ペテロ第二1:20)は許されるべきではありませんが、みことばを、神から「私」に語られたものとして受け止め、自分自身をみことばの光のもとにおく、「パーソナル」な読み方は、決して否定されるべきではないと思います。また、Lectio Divina が教える「観想」は、聖書から離れたものでも、ある特定の方法で到達する魔術的な霊的状態でもなく、それは、みことばに示された神の臨在の約束を確認し、その中に憩い、それを感謝することであって、それは聖霊が与え、導くものなのです。聖書には、「黙想」や「観想」を指し示すことばが数多くあります。そんな面倒なことをしなくても、聖書を信じて実行すれば良いのだと言う人もあるでしょうが、祈りをバイパスした行動は、たんなる「活動」で終わってしまう危険があります。もともと Lection Divina は一日の働きに備えるためのもの、また、一日の働きをふりかえり、次の日の働きに備えるものでした。祈りと活動は相反するものではないはずです。このふたつをきちんとつなげていくことは、私がやりはじめた Prayer Retreat にとっての課題です。
1月4日(日)月の第一日曜日には「創造」について話すことにしました。「創造」はキリスト者の信仰にとって基礎となるものだからです。多くの人が、神の愛や平安、慰め、力といった主題を好み、それを受け入れるのに、「創造」となると、とたんに心を閉ざすのは、「進化論」のせいかもしれません。日本人の98%が進化論を受け入れており、「創造」を物語と考えていますが、アメリカでは「ダーウィン学説は証拠によって証明されたものと思うか」との質問に「そう思う」と答えた人が35%に対し、「そう思わない」と答えた人も同数の35%ありました。また、「神が人を現在のような姿にした」と考える人は45%、「人は神の導きによって進歩してきている」と考える人も38%ありました。「人は神の助けなくして進歩してきている」と答えた人は13%に過ぎません。これは、進化論を認める人たちも、進化の過程に神の介入があったと考えていることを意味しています。
1月5日(月)「創造」と「進化」についていくつかの記事を読みました。近年、「創造科学」が起こっていますが、「進化論」は科学だが、「創造論」は疑似科学であるとの批判もありました。私は、いずれも「科学」であると思っています。科学は仮説を立て、それを証拠によって検証していくものであり、「進化論」にくらべ「創造論」は日も浅いので、これからの進歩が待たれます。創造論者には、それを「伝道」のために使おうとするあまり、進化論者から、「学術的でない、主観的だ」との指摘を受けます。進化論者も、創造論者も、主観に立った強引な結論づけを避け、謙虚に事実を受け入れて、その説を修正していくことが望まれます。両者の健康的な討論が科学の発達に寄与することを願っています。「信仰と科学」の歴史の中には、一方が他方を支配するという不幸な出来事もありましたが、現代科学の先駆者たちの多くが、聖書を信じる信仰者であり、最先端の科学者たちが、科学の世界の中に神を認めてきたのですから、「信仰と科学」の健全な関係が生まれるよう願っています。
1月6日(火)Richard McBrien の Catholicism が届きました。1286ページに及ぶ厚い本で、ちょっと高かったので、古本を半額で買いました。古本といっても新品同様で、郵便で送られてくるときに表紙が少し傷んだ程度で、とても買い得だと思いました。「メディテーション」や「ダーウィニズム」の項目を拾い読みしてみましたが、プロテスタント側からの警告も取り入れ、誠実な態度で記述されていました。彼の説によれば、"Catholic" は「名詞」であるとともに「形容詞」でもあり、"Catholic Christian" というように "Christian" を形容し、"Christian" もまた「名詞」であるともに「形容詞」であり、それは "human" を形容する。だから、神学は "humanity"、「人間存在」から説き起こすことができると言っています。
1月7日(水)McBrien の Catholicism を中古で買ったと書きましたが、彼の本をもう一冊中古で注文したのですが、これはまだ届いていません。このごろ、私の買い物はネット・ショップが多くなりました。この間は、amazon.com で無料のシェイバーを手に入れました。Panasonic の製品で、電池で動くものです。持ち運びができるように布の袋もついてきました。これを教会のオフィスに置いておきました。朝、ひげをそり忘れた時など、重宝するだろうと思います。どういう仕組みで無料のものを販売しているのか、またリベートで全額払い戻されるのか良くわかりませんが、ありがたいことです。先週は、近くの店でシャワーカーテンを買いましたがクーポンのおかげで 20% 引きでした。家内は New Year Sale で半額以下で気に入った服を手に入れました。スモッグチェックにも行ったのですが、クーポンを持っていったおかげで、ずいぶん割引をもらいました。神は、高価な救いを無代価で備えてくださいました。聖書は数多くの約束で満ちています。特典を利用するのは、信仰の世界でも同じかもしれません。
1月8日(木)昨日、テゼを詠った短歌を紹介してもらいました。フランス在住の杉浦のぶこさんが、テゼ共同体の創設者、ブラザー・ロジェが存命中にそこを訪れたときに詠んだ数首が、歌集『世界樹』に載っていました。
幼らに囲まれ座して祈りするはブラザー・ロジェを詠ったのもです。 二千人が祈る真中に巨大なるは大聖堂での礼拝を詠ったもので、 羨しとも聖堂の床にひれ伏しては、そのような礼拝の中で、神の臨在に触れ、自分を献げている若者を詠ったものです。最後の一首のような光景は、私もカソリックのリトリートで見ました。そういう姿は、かつて、プロテスタントのリトリートでもあったのですが、今は、プロテスタントのリトリートはエンターテーメントになりつつあり、そういう光景は見られなくなりました。「羨ましい」と思うのは、杉浦さんや私ばかりではないと思います。 1月9日(金)教会のアドベント・キャンドルやクリスマス・ツリーがそのままになっていました。ひとりの姉妹が来て、それを片付けてくれました。教会の奉仕には、見える奉仕もあれば、見えない奉仕もありますが、このように、教会で行き届いていないところがどこにあるかを見つけ出して、それを補っていく奉仕、人目に見えない奉仕こそほんとうの奉仕と思います。「賜物に応じて」ということが、いつしか、「自分のしたいことをする」ことと取り違えられ、教会にもっと大切な、大きな必要があるのに、自分のプログラムを教会に持ち込んで、自分のかかわること、自分の顔を出せるところには熱心だが、他のことには見向きもしないということがあるとしたら、悲しいことだと思います。
1月10日(土)ウォールナット・クリーク教会で新年聖会がありました。土曜日に新年聖会を持つのは初めてのことなので、ウォールナット・クリーク教会の方もご苦労だったと思いますが、講師の先生もご自分の持ち味を生かしたメッセージを語ってくださり、落ち着いた良い聖会になりました。来年はサンタクララ教会で行います。今回をお手本にして、もうすこし工夫して、さらに良い聖会になるように、祈り、準備しなければならないかと思いました。
1月11日(日)講師の先生と昼食をともにし、それからエアポートにお送りしました。帰りの飛行機の時間がちょうど良い時間で、ゆっくり食事をすることができました。エアポートに行くまで、すこしシリコンバレーらしいところをドライブして見せることができました。ゆっくり神学の話をしたかったのですが、できませんでした。もうすぐ牧師リトリートがあるので、そのおりにでもと思っています。
1月12日(月)先に注文していた McBreien のもう一冊の本 Encyclopedia of Catholicism が届きました。新品なら50ドルする本を、古書ですが、20ドル以下で買うことができました。この本のカバーには「28ページのカラー写真が入っている」とあるのですが、私の手にしたものは、ブラック・アンド・ホワイトの写真だけでした。もう少し目で見て楽しめる本かと思いましたが、残念でした。「ルター」の項目を読んでみると、カソリックでは、ルターを精神異常者として扱う段階から、もとカソリックであったという点で評価する段階を経て、今は、ルターの神学と改革を再評価しようとするところまで進んできた、とありました。「カソリックとルターの対話」という項目もありましたので、続いて読んでみようと思っています。
1月13日(火)北カリフォルニアの牧師会があって出かけました。今年、南カリフォルニアの牧師会が主催する牧師リトリートの準備や連絡が遅いのを反省して、来年のリトリートは、今からきちんと準備をしようということで、今月は、リトリート・マスターを決めました。今月末の牧師リトリートで他の地域の牧師の意見を吸収し、3月の牧師会ではテーマを、5月の牧師会ではプログラムを決め、7月の教団総会のおりには、他の地域の牧師に計画を発表し、9月の牧師会で、最終調整をし、登録を始めるという予定を考えています。
1月14日(水)私は1月生まれなので、毎年、1月に身体検査を受けています。頑丈ではありませんが、健康なので、私の担当医と「一年に一回しか会いませんね。」とおしゃべりしながら、診てもらいました。
1月15日(木)今日は眼の検査に行きました。くわしく診てもらいましたが、悪いところはなく、眼鏡を替えるだけでした。眼科医が「仕事は何か。」と聞いたので、「牧師です。」と言うと、「どんな教会か。ファンダメンタルか。」と言うものですから、「聖書を信じて、平和を求めている。」と答えました。「ファンダメンタル」というのは「基本に忠実」という意味では、決して悪くない言葉なのですが、これが「利己的」、「闘争的」、「反知性的」という意味で使われるようになっているので、私は、わざわざ「平和」という言葉を持ち出して話したのです。
1月16日(金)昨日も今日も、とても暖かい日になりました。「ロサンゼルスでは夏のようです」というメールが入りました。先週土曜日からずっと出かけることが多く、今日、ゼロ会から帰ってきて、ずいぶん疲れを感じました。仕事は山ほどあるのですが、なかなか効率があがりませんでした。
1月17日(土)15日、ハドソン川に飛行機を不時着させ、ひとりもけが人を出さなかったサレンバーガー機長の判断に称賛の声が上がっています。彼は士官学校を出て軍務についていたことがあり、そうした経験から出た判断が多くの人々を救ったのだと思います。アメリカでは、「若さ」や「力」が称賛される傾向がありますが、実際の現場では成熟した判断力を伴った「経験」がものを言うことを、私は改めて感じました。
1月18日(日)きょうは、礼拝で「デボーション」について、午後の女性の会ではLectio Divina について話しました。ジョージ・ワシントンの祈りについて話しましたが、彼の深い信仰に敬意を覚えました。夜は、来週の牧師リトリートで聖餐の司式をたのまれたので、その準備をしました。
1月19日(月)注文してあったステレオセットが届きました。本格的なものではなく、テーブルのうえにちょこっと置く、いわゆるマイクロシステムというものです。値段の割にはとても良い音質で気に入っています。スピーカーの位置を調整して、もっと音がひろがるようにしようと思っています。
1月20日(火)オバマ大統領の就任式がありました。演説はたいへん厳しいもので、オバマさんにもあまり笑顔は見られませんでした。ブッシュさんは、あまり評価されないで去っていくことになりましたが、私は、個人的にはブッシュ夫妻の人間味のあふれた姿は好きでした。彼は多くの失敗もしましたが、同時に大きな貢献もしたことを忘れてはならないと思います。
1月21日(水)私の誕生日でした。午前中の聖書クラスの人々からカードをいただき、夕の祈り会の人々から「ハッピー・バースデー」を歌っていただきました。午後、娘のためのミーティング、その後、眼鏡を合わせるために眼科に行きましたが、私のレンズが家内のフレームに、家内のレンズが私のフレームに入るという間違いがあって、とんだ無駄足を踏みました。眼科に行くときは家内といっしょに行き、いっしょに眼鏡を注文するのですが、今までこのような間違いはありませんでした。とんだ誕生日となりました。
1月22日(木)オバマ政権がスタートして、さっそく、ハウス・スピーカー(下院議長)が「家族計画は経済活性化に役立つ」などと発言し、アボーションをさらに容易にする法案が出ています。このため、プロライフの立場をとる人々が「マーチ・フォー・ライフ」や「ウォーク・フォー・ライフ」をワシントンとサンフランシスコで展開しています。政府が、「人口を減らせば、世話すべき人が減り、財政が助かる」という考え方はどこかずれていると思います。
1月23日(金)「プロチョイス寄りの法案が通らないように祈りましょう」というメールが来たので、それを知人たちに転送しましたら、そのうちのひとりの人からメールの返信が来て、ほぼ一年ぶりにメールのやりとりを始めました。彼女は学校の教師なのですが、もうすぐリタイアするので、リタイアしたら、本を書きたいとのことで、私に問い合わせてきたのです。彼女の質問に答えるだけの資料を持ち合わせていませんでしたが、良い本ができあがるよう祈りました。
1月24日(土)教会に新しいコピー機が入りました。以前のものは購入してから10年経ち、故障した場合(じつは故障が多かったのですが)、部品があるかどうか保証がないということで、新しいコピー機のリース契約を結んだわけです。このコピー機をネットワークでつなぐと、コンピュータから直接コピー機を操作できるようになるそうで、教会のネットワークを担当してくれている人がネットワークの配線にきてくれました。コピー機が私の部屋のとなりにあるので、私の部屋まできている配線を分岐してコピー機につなげるようになりました。彼はまた、サジェスションのあったインターネット経由の電話についてもさっそく調査してくれるとのこと。彼のように実際のアクションを起こしてくれる人は、とてもありがたく思います。
1月25日(日)明日から牧師リトリートに出かけるので、そのためにやっておくべきことが沢山ありました。早めに休むつもりでしたが、いつもの時間になってしまいました。明日持っていくものを用意しましたが、ミュージックを伴った聖餐式をするため、聖餐用の器具をはじめ、式服や CD プレーヤーまで持っていくことになり、大変な荷物になりました。
1月26日(月)牧師リトリートには、いつも、もうひとりの先生と一緒に出かけるのですが、その先生が急に行けなくなって、ひとりで行くことになりました。ラジオや MP3プレーヤーに入れていった音楽やレクチャーを聴いているうちに、会場に到着しました。途中、レストエリアとガス・ステーションに、計3回寄って休憩したのですが、ずいぶん早く、午後2時前に到着してしまいました。ちょうど混雑のない時間に市街地を通過したからかもしれません。ガソリンも安くなったので、この場所なら、飛行機よりも車のほうが便利なように思いました。夜のミーティングで、教団に加入を希望しているふたりのと正教師按手を申し出たふたりの計四人の審査を一度にしたので、夜11時を過ぎてしまいました。
1月27日(火)今日の朝は、「ゲイ」の問題にくわしい牧師を招き、ワークショップを持ちました。聖書の教えとゲイの生活とは決して相容れるものではないが、その人たちへのコンタクトの道を閉ざすのはよくない、聞く耳を持ち、対話を保つことが大切ではないかという問いかけがありました。午後は、友人を訪ねました。ロスアンゼルスの交通渋滞は有名なのですが、ちょうど空いている時間帯だったので、思ったよりは時間がかからずに行き来できました。夕食時に、ロスアンゼルスのひとりの司祭の方と話す機会が与えられました。ヨハネ17章を読んで祈りましょうと、言っていただきました。夜は、宣教報告のあと、共に祈り合い、それは時間どおり終わったのですが、夏期修養会の話し合いがあったので、今日も部屋に戻ったのが11時を過ぎてしまいました。
1月28日(水)きょうの午前、午後はプライベート・リトリートのはずだったのですが、日本語部の牧師だけで夏期修養会と日本語牧師サミットの話があって、午前中、そのために全部の時間を使いました。午後は、このリトリートセンターの美しいチャペルに入って、ひとりで祈ることができました。私たち自身が聖霊の宮なのですから、いつでも、どこでも、祈ることができるのですが、しかし、祈りのために聖別された場所は必要です。使徒たちも神殿で祈ったのですから。最近の教会堂は、コンサートホール的になってきましたが、私は、それは祈りの家であるべきだと、思っています。夜は Kilborne 先生より奨励があり、祈りの時を持ちました。彼の祖父 Ernest Albert Kilbourne と Charles E. Cowman、そして中田重二が OMS を始めました。先生は、祖父から伝えられた宣教の情熱を、とくに、若い牧師たちに訴えてくださいました。
1月29日(木)解散前の昼食後、同じ食堂で食事をしておられたリトリートセンターの司祭に祈っていただき、大変意味深いことばをいただきました。これは、私がこれから取り組まなければならない課題です。おそらく今年のレントの、私の主題となるでしょう。ひとりの牧師から、レントやペンテコステをしっかり守っておられ、聖餐式のときも式服を着用されると聞き、とてもうれしく思いました。
1月30日(金)郵便局に行きましたら、私の前のお客さんが2ドル札で料金を払いました。局員は「ラッキー。2ドル札。何かいいことがあるわ。」と言っていました。それで、私の番になったとき「2ドル札なんてめったに見かけませんよね。」と言うと、「これ、欲しい?」と聞いてきましたが、あまりきれいなお札でなかったのでないので、遠慮しました。私が2ドル70セントの料金を1ドル札3枚で払いましたら、彼女は「ハッピー1ドル札!」と冗談を言って受け取りました。Heritage Village ステーションならではの光景でした。
1月31日(土)昨日、新しい眼鏡を取りに行きました。教会で何人かの人に会いましたが、今までのものとあまり変らないデザインなので、誰も、「眼鏡を替えましたね。」とは言いませんでした。たぶん気付いていないのでしょう。以前、私が散髪してくると、めざとくそれを見つけて、「先生、ヘヤーカットに行きましたね。」と声をかけてくれる人がいましたが、今は、そういった人たちの多くが引っ越して私の身近にいません。そうした人たちの顔を想いうかべると、ちょっとさみしくなることがあります。
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