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目 次



信じない者にならないで

            ヨハネ20;27

イエスさまは、死を打ち破って復活されてから、弟子たちに現れたのですが、弟子の一人のトマスは、その時そこに居なかったので、
他の弟子たちから「主にお会いした」と聞いても信じられませんでした。

「イエスさまは十字架の刑を受けて実際に死なれたのに、どうして今、主に会ったというのだ、ありえないことではないか」と疑いました。こんな事は、前代未聞のことですから、無理もないことです。
それでも他の弟子たちがあんまり「それは事実だ。事実だ」と言うのでトマスは、「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」と言い張りました。
十字架で死んだ主が、今生きているというのなら、「証拠を見せてくれよ」というわけです。

そこにイエスさまが現れて、トマスに「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に入れてみなさい」と言われ、
さらに主は、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とトマスを諭されました。それでトマスは、「私の主よ、私の神よ」と言って、自分の目の前におられるイエスさまを信じました。

さらに主はトマスに、「あなたは見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いである」と言われ、信じる心が重要であることを教えられました。
信仰とは目に見えないものを確信させる」へブル11;1と、聖書にありますから「見えるところによらず、信仰によって歩む」ことの大切さを教えられます。

この聖書の場面は説明など要らない、そのままでよく分かりますが
現代の私たち信仰者もトマスのように「信じない者」になってしまう誘惑はいっぱいあると思います。

目の前の困難があまりに大きく、祈っても祈っても解決の灯が見えないような状況が続いたりすると、疑いの心が頭をもたげて来るので、それに負けてしまうと不信仰に陥ってしまいます。信仰も希望もなくしてしまうと、物事の解決ができないばかりか生きる力を失ってしまいます。
人は、どんな状況の中でも、信仰と希望をなくさない限りは生きて行けるのですから、いつも信仰の足りない者ですが、私たちの信仰がなくならないように祈っていてくださる、イエスさまに頼って「私の信仰を増してください」と祈り、どんな時も「主を信じる者」として歩んで生きたいと思います。



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ペテロと同じ


するとイエスが言われた
「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言うだろう」。ルカ22;34

ペテロは、捕らわれているイエスさまの様子を見ようとして、大祭司の中庭に入って行ったのですが、そこに集まっていた人々から、「あなたもイエスの弟子でしょう」と言われて、「違う違う、イエスなんて、そんな人は知らない」と三度も答えてしまいました。

ペテロは、イエスさまのためなら、「獄も死もいといません」。と胸を張って断言したのでしたが、実際は、保身のために三度までも主を否定したしまったのです。イエスさまが言われたとうりでした。

その時まさに、鶏が鳴きました。これも主のおことばのとうりに、でした。
それでペテロは我に返って、自分の大罪に気づき、外へ出て激しく泣きました。深い自責と後悔とにつぶれそうになって、、、

私ももし、ペテロと同じ状況に遭遇したら、ペテロと同じようにしたかもしれないと思いました。自分を守るために、「主なんて知らない」と言ってしまったかもしれないのです。その弱さと愚かさは、私にも十分あるからです。

しかし、そんな弱くてふつつかな者に対して、イエスさまの愛のご配慮、いたわりのおことばは、何と温かいことでしょう。
私たち人間の弱さと、脆さのすべてをご存じの上で、まるごと受け止め、赦し、あわれんでくださるイエスさま。弱く罪深い者たちの救い主よ、その深い愛に感謝します。

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主の掟を守る大切さと幸い


旧約聖書の時代、神さまはその民に、様々な細かい掟を定めておられ、神さまの掟を民が守れば、あらゆる面での繁栄と安全と幸いが約束されていました。

新約の時代に生きる信仰者には、旧約聖書にあるような細かな掟などは求められていませんが、しかしその精神、真髄は大切にすよう求められていると思います。

神が主であると告白し、神の僕として主に従う。
神が聖であると告白し、その聖さを覚えて神を怖れる。
神は真実であると告白し 真実な歩みができるように励む。

これは、旧約時代の信仰者にも、初代教会の信仰者にも、そして現代の信仰者にも、同じように大切な事です。
神を知っているということは、決して知識や、口先だけの事ではなく、
神を知っている者として生きること、実際の生活において、神を怖れつつ歩む事です。
そうでなければ、この素晴らしい、聖なる、真実なる、力と愛に満ちた神さまとの親しい交わりをもって、光の中を歩むことはできませんし、世に神さまを証することもできないと思います。

人間に与えられている、もっとも素晴らしい特権である、自由意志をもって、神を信じ、クリスチャンになった者は、その自由の中に生きることができますが、しかし、その自由は、神のご栄光や、他への影響を考慮して慎むことも要らない、自分の言動に気をつけることもしなくていい、なんでも自分の好きにしてかまわない、というような自由ではないはずです。

むしろ、主のご栄光を思って、また他へのつまずきを与えないようにとの愛の配慮から、自分のあらゆる言動を厳しく点検しながら、気をつけて歩む生き方が求められていると思います。そのためには、自分の好む言動に制限が必要な場合もあると思います。
それは窮屈な生き方ではなく、自ら進んで、愛の価値ある生き方を選ぶ幸いな人生だと言えると思います。



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光のつまずき 闇のつまずき


罪の事や、主の十字架や、悔い改め、聖めなどの事を語ったら、人はつまずいてもう、教会に来なくなるから、、、という言葉を時々聞くのですが、本当にそうでしょうか。確かにそういう場合があるのは事実だと思います。
多くの人は、耳に心地よい言葉を好み、人の自尊心を満足させるような事を聞きたいと考えているでしょう。

でも、実は人間の問題の最も大きな原因である、罪の解決がなければ、人はたとえこの世の多くの幸いを得ていても、決して真の希望も平安も満足も得られませんから、人を罪から救うために、十字架で死なれた神のみ子イエスさまの贖いが必要なのです。これこそが福音であり、神の愛です。
これを語らなければ、人は救われませんから、教会は、先に救われた者はどうしても福音は語らなくてはならないのです。
私たちも、そうして、人に受け入れられそうにもない、語りにくい福音を勇気と愛をもって語ってくれた人がいたから、この尊い神の救いに預かることができたのではないでしょうか。

この福音によって救われた人の多くも、かつてそうであったように、福音に対して、最初は、たいてい反発やつまずきがあると思います。でも、神の恵みはそんな人間を顧みて、なおも導いて、信仰に至らせてくださったので私たちは救われたのです。福音を聞かなければ救われませんでした。

十字架の福音は、誰にでも何の疑問も抵抗も葛藤もなく、すんなり受け入れられるような、インパクトのないものではありません。
むしろ、生まれながらの人間に真っ向から戦いを挑むような要素を持っています。それは、聖書を読んでも、歴史を見ても、信仰者個人の経験を見ても分かります。そして、だからこそ人を根深い罪から、闇の力から、永遠の滅びから救う力、真価を持っているのです。

ですから、福音へのつまずきは、光のつまずきです。そこを通って光を見い出すのです。

でも、信仰者の不誠実や、よくない言動、教会の本質に悖るような状態につまずくのは、人として当然ですが、救いを受けて神の子にされた者は、そのような闇のつまずきを人に与える事のないように、よくよく注意し、間違ってしまったら心から悔い改めて、主の光を消さないようにしなくてはならないと思います。人々に主の救いと光と真実と愛を伝えるように励みたいものです。

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十字架の七つの言葉から


(母マリヤと弟子のヨハネに)

イエスは母と、そばに立っている弟子とを見て、母に[女の方。そこにあなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
                ヨハネ19;26、27

神は、人がその罪のために滅びることがないように、人を救うために、み子を世に送られました。それが乙女マリヤより生まれたイエスさまです。
イエスさまは、地上において、大工ヨセフの子として、人と同じように育ち、生活され、人が舐めるあらゆる労苦、悲痛を経験されました。

そして、人を救うために、人の罪の身代わりに、十字架の刑罰を受けられ、死なれました。これが聖書が告げる十字架の福音、贖いのみ業です。

神は、人の魂を罪から、死から、滅びから救う事を何よりも願っておられますので、自分の罪のために霊的に死んでいる人を救って、再び生かし、本来人が持っていた神との交わりを、回復できる道を備えられたのです。

ヨハネ19章のこの場面でもわかるように、イエスさまは人の魂を救うために、
今まさに残忍な死を迎えようとしています。茨の冠をかぶった頭からは血が滴り落ち、十字架に太い釘で打たれた両手、両足からも、血が吹き出ています。

言語を絶する苦痛で、息も絶え絶えですが、しかし主イエスさまは、このお苦しみの中でも、かつて町や村をめぐり歩いて労しておられた時と同じように、人への愛のお言葉、救いのお言葉、赦しのお言葉を語っておられます。

主は、人にとって最も大切な、最も価値のある魂の救いを優先されましたが、しかし同時に主は、人がこの地上で生きてゆくための、必要な助け、守り、支えもお心に留めておられ、人の現状に十分にご配慮くださる恵み深いお方です。特に私たちが、苦しいときや、悲しみの時には、すぐに愛のみ手を差し伸べてくださいます。

母マリヤを気遣った主は、私たち一人一人をも、いつも親身になって気遣ってくださり、助けてくださいます。



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小さな事でも


人間が辛い思いをするのは、大きな問題だけではなく、小さな事柄によることも多いと思います。
自分の不注意や不用意によるちょっとした失敗、相手が何気なく発した言葉、冷たい視線や些細な誤解、話しているのに通じないなあ、と感じてしまう時、かなり努力したのに結果が思うようでなかった時、その他、どうも気になる、また、気に障るような周りの様々な事柄、などなど、それらは、気にしなければ、それで済んでしまいそうな事なのですが、ひどく気になってしまって、思い悩んだり、苦痛を覚えるような事がよくあります。

人とは、なんとマイナスに対して敏感な者なのだろうと思わされます。いつまでも気になって過ぎた事に振り回され、小さな事が大きな心の重荷になったりします。

自分でもそれはつまらない、愚かなことだと分かっているのに、気にしてしまうことも多いので厄介です。

聖書に「思い煩うな」という言葉が何度か出て来ますが、それは、何か大きな問題の事だけでなく、些細なことで気持ちが参ってしまうような時にも必要な事なのだと教えられます。
神さまを見上げて、祈って助けていただいて、落ち着けない心を鎮めることが大切だと思います。

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自然の呻き


実に被造物全体が,今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている。ローマ8;22

アダムとイブが神の命令に背いて、罪を犯した時、人間は神との愛の関係が損なわれて、生きるための苦しみが始まったのですが、それだけでなく、自然界もその影響を受けて、それまでの好ましさと、豊かさを失ったことが聖書に記されています。(創世記3;17、18 )

神が創られたものは、すべて良いものだったのに、(創世記1章)良くないものにもなってしまいました。
それでも、神さまのあわれみは大きいので、被造物全体が呪われてしまったわけだはなく、自然の美しさ、素晴らしさ、恵み深さ、慈しみと偉大さも失われてはいません。けれどもやはりそこには、脅威も、危険も、腐敗や衰退、醜い戦いの部分も見られます。今日に至るまでの現状です。

命に満ちた、平和と美一色の園、エデンの園とは違っています。

エゼキエル6章で、神さまが、山にも川にも丘にも谷にも語っておられますが、
この時代、イスラエルの民が、神に逆らって山や川や丘や谷を汚したために、これらも罰を受けたことが書いてあります。
物言わぬ自然が、人間の罪のとばっちりを受けています。
その呻きは人には聞こえないのですが、でも、時としてそれが伝わってくるような気配を感じる事があります。

万物の創造者であられる、主イエスさまの再臨と、それに伴う、主の新しいみ業がなされる、その時には、すべての被造物が、その贖いの恵みと力に預かって、快復されるのですが、その時を、信仰者は祈りつつ待ち望んでいます。


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聞いた話(忍耐して祈り続ける事の力)


先日、こんな話を聞きました。
昔、ビル ブライトという人がいて、その人は、旧ソビエト(今のロシア)に福音が伝えられる門戸が、開かれるようにと、40年間も祈り続けたそうです。
どんなに、鉄のカーテンは開きそうにもない状態を見聞きしても、諦めないで祈り続け、ついに40年の後、共産主義は崩れて、彼はモスクワで、多くの群集を前に福音を語ったそうです。

ビル ブライトは、彼のひざによって、共産主義に勝利したと言われています。

祈りの答えが、長引いていて、もう祈ってもダメかなと、思えるような状況の中でも、この人のように、忍耐して祈り続ければ、必ず祈りが聞かれる時が来る、その事を信じて祈り続けなくてはと、教えられました。

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贖いの恵み



幸いな事よ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いな事よ。
主が、咎をお認めにならない人
心に欺きのないそのい人は。
    
      詩篇32;1、2

このみことばのように、聖い神さまに罪赦されて、自分の心が咎めのない状態になった時の深い平安、天の光が見える魂の喜びは、何にも勝るものだと思います。

人間は、原罪を持っていますから、生まれてこのかた、罪を犯しています。

そのことは、子供でも知っている事です。
そんなに特に悪い子でもないのに、時々悪い事をしてしまうからです。

そうして年を重ねていくうちに、人の罪の嵩は増していきます。周りにに知られることもあり、誰にも知られないまま、という事もあるのですが、自分の心は十分それを知っています。「罪の記憶は鋼鉄の針のように人の心に突き刺さっている」という言葉を聞きましたが、事実だと思います。

ですから、どんなに気にしないようにしていても、罪の負い目は、私たちの心を追い続けるのです。そうして人の心は光を失った暗い、重いものになっていきます。自分をごまかせない真っ直ぐな人ほど、その事に人知れず悩み、心が疼き、その解決を求めていると思います。

でもこの世には、罪に対する解決の道はどこにもありません。
いろいろな良い教え、教訓、奨励、修業、宗教、などはこの世にもありますが、本当の罪の解決は、そこにはないのです。ですから人は、多くの場合、
罪の問題を他のものと擦り替えて、人生にはそれよりもっと大事な問題があって、それに取り組むことが必要なのだと言います。
でも、本当は違います。罪の問題の解決がなければ、生きる目的も力も希望も平安も光も得られませんから、大海を絶えず漂う船のように、不安定な心で歩むことになり、外からは見えなくても、心は空虚で惨めです。

幸い、世にただ一つの罪からの救いの道が、神によって人類に与えられました。それが、人となられた、神のみ子、イエス キリストの十字架による贖いです。


神に罪を赦された、罪の責めのない心の平安と力、確信と喜び、それがどんなに大きな幸かは、経験した者が知っています。その幸いが人に、どんなこの世の嵐をも乗り越えて生きる力を、どんなことにも押しつぶされない希望を現実に与えるのです。









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カレブの信仰


旧約聖書に出てくるカレブという人は、85歳までも、それ以上も、全き心、全き情熱をもってで神に従った人だった。
これは、簡単な事ではないと思う。
人は月日がたつと、初めの情熱や真剣さを失うことが多い。信仰の面でも、初めは熱心に教会に通い、忠実に主に仕える歩みをしていたのに、いつの間にか教会生活も、自分の責任である奉仕も怠りがちになったりする。

また外側は変わりなく見えても、信仰者としての内面の成長や、霊的、人格的にさらに高められ、聖められる事を求める姿勢などは薄れていくことも、みかけられるようだ。

カレブのように、初めの信仰と神への従順を、長年変わることなく持ちつづけるのは、容易な事ではないと言える。
絶えずみことばに親しみ、祈りに励み、自らの内外をよく点検して、悔い改めるべき点はちゃんと悔い改めて、へりくだって、主の前で真っ直ぐに歩まないと、初めの確かな信仰の姿勢が崩れてしまう。

私たちの信仰の歩みを崩してしまうものは、まわりに多々あるし、自分の内側にもそれらがあるのに気づかされる。

いつも、主の十字架の福音に立ち返る事を忘れなければ、初めの忠実さは取り戻せるから感謝なのだが。恵み深い主は、十字架のもとに伏す者をいつでも顧みて助けてくださる。真理の光の中で育んでくださり、絶えず新しい恵みを豊に注いで、喜んで主に従う者にしてくださる。感謝!

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どうして、、、


「どうして私だけ、こんな辛い目に会わなくてはならないの、どうして、、、」と叫ぶ声を、私はいろんな人の口から、何度も聞きました。
そう叫びたくなるような、痛みを抱えているからだと解りますが、でも、誰と比べて「私だけ」と言っているのだろうかと考えさせられた事があります。

目が見え、耳が聞こえ、手足が動き、食べる物も、着る物も、住まう所もあって、生活も守られていても、何か一つ、あるいは二つ、辛いことを抱えて忍耐を強いられる日々が続くと、そういう気持ちになるのは、弱い人間にはよくあることなのですが。でも、悩みも苦しみも、痛いところも弱いところも、何一つない、と言える人はまずいないと思います。人にはみな、何らかの痛みも悩みも欠けも弱さも、普通にあるのです。

でも、自分が今持っているものを、持っていない人と比べて(そういう人は世に大勢いるのです)
「どうして私は、五体満足で、健康も守られ、食べ物、着物、住む所、必要なお金や品々、自分を心配してくれる人々 などなどのこんなに多くの恵みを得ているんだろうか」と言う声は、あまり聞いたことがないので、それこそどうして?と思わされます。
それって、公平じゃないということになりますが。

物事に対する人の受け取り方、捉え方、判断、対処の問題、ということなのでしょうか。多くの場合、人は与えられている恵みを感謝するよりも、困難や苦痛の面を見る目を大きく開け、口も多く開けてしまう、と言う面が見られるようです。恵みの面には視野が狭くて、近視眼的でもあるような感じです。

そうして実際に辛い現実以上に、自分を惨めにしてしまう、ということがあるようです。人間の悲しい性(さが)かもしれませんが、神さまを信じる者は、主にすがって、自分ではなかなかできない、「すべての事に感謝する」ように励む事ができたら、幸だと思います。幸いな生き方はやはり人の心の有り様が決める場合が多いようです。



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残念な事


神からのギフトを、正しく的確に行使できないと、その教えは人を救わない。
人を生かさない。
昔ユダヤの指導者たちが、神の律法を、正しく民に伝えなかったために、その教えは、民を縛り付け、苦しめるものになってしまっていた。

現代、神からの最大の賜物である、十字架の福音についてはどうだろうか。
ある宗派では、会堂に主の十字架が飾られ、十字架の恵みを思う儀式がさかんに行われているのに、それが本当に罪人を救う主の恵み、罪人への神の深い愛として正しく教えられ、人々に恵みとして届いているかどうか、疑問を呈する人たちもいる。かえって人々にこうだから、こうしろ、 こうすべきだ、そうしい者はまちがっていると、何か命のない一つのパターンのようになってしまっているとも、聞いた。

またある宗派では、イエスさまの十字架で罪赦された者は、神に受け入れられ、自由にされているから、神の子とされている者の言動は、すべて神に容認されているのだから、自分の好きなように振る舞ってもいい、といった誤った自己義認が見られるようだ。そうして人を真に罪からの救いに、罪に汚れた古い自我からの自由に導かない。

あるグループは、主の十字架を人の心に重くのしかかる戒律のようにして、またあるグループは、主の十字架を、神の戒めを守るなどの戒律的な事は要らなくなったからと、勝手気ままな生き方の土台にしてしまっているようだ。

主の十字架による救い、その真の中味を、より正しく、より詳しく語っている所がどれだけあるだろうか、と考えさせられる。
いつの時代、どこにおいても、人間は、神を知っている、信じているている、と言いながら、神からの真理をないがしろにし、自分の考え、自分の解釈、主張を是として、そんな自分の歩みを振り返ることもせず、それと気づかず、反省も悔い改めもないまま、表面をきれいに見せてしまう。それは、お命までも捨てて人を贖ってくださった主の福音に対して、とても申し訳ない事だと思う。残念なことだと思う。悲しいことだと思う。天の目は真っ直ぐでごまかせないから、福音を正しく握っていないと天の光は見えなくなると思う。











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知恵ある生き方


「主を恐れることは知恵のはじめ」と(箴言9;10他)聖書にあるように、主を恐れる人は知恵ある生き方をします。
知恵ある生き方とは、いつも「結果を考えて行動する」ことだと言われますが、「これを言ったら、、、これをしたら結果はどうなるか」と考えてからの言動には思慮深さが伴います。

もちろん人間は完全ではありませんから、まちがってしまうこともありますが、でも、主を恐れて生きる人は、まちがってしまったらすぐに反省し、心から悔い改めて、過ちを繰り返さないように努めると思います。そうしてそういう思慮深い生き方が、次第に意識しなくても自然に出きるようになり、知恵ある賢い歩みを続けていけるようになるのだと思います。

神を恐れる人は、神を敬い、神を愛する人です。そして、自分を救ってくださった、イエスさまの十字架の贖いのみ業を片時も忘れず、それを握り締めて生きる人です。

神を恐れるとは、神さまを愛する故に神さまに喜ばれることに努めることです。神さまの聖い光の前で、その光に悖ることがないように真摯に励むのです。
人々を大切に思い、自己の利を図るのでなく、他の人の存在と心を尊び、人を傷つけたり、躓かせたりしないように、と愛の注意をするのです。そしていつも他の人を生かすことを考えて努力をするのです。

ですから、知恵ある生き方とは、一言で言うと、真心から神さまを敬い、その神さまの愛に生きること、と言えると思います。その中で人は自他共に幸いを味わう賢い生き方ができるのだと思います。知恵は、知恵に満ちた全能者から与えられる、香り高い恵みのギフトです。

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続・人間関係について


*続・人間関係について(1)

人生相談等に寄せられる質問の中で、一番多いのが、「人間関係」に関することだと言われています。誰もが「難しい」と口をそろえる、この古くて新しい問題は、人の世が続く限り、なくなることはないと思います。

私は以前、「相談に答える」仕事をしていたのですが、その時も相談ごとの大半がやはり「人間関係」でした。これは答える方も難しくて、困ってしまうことがしばしばでした。

「人間関係」の問題は世界共通だと思いますが、特に日本人のように、人と人との間に適当な距離を置くことが、うまくいかないような社会では、この問題はお互いに大きな重荷になってしまうようです。家庭の、職場の、地域の、各種グループの人間関係に悩み、傷つき、疲れ果てている人の何と多いことでしょうか。

また、昔と違って、子どもの頃から「人間関係のあり方」を肌で覚える機会がめっきり減っている現代ではなおのこと、この問題は深刻になって来ています。「人間関係の崩壊」ということも叫ばれています。「病める社会」と言われる要因の一つは「病める人間関係」ということかもしれません。

教会も人の集まりですから、「人間関係」の問題は避けて通れないのですが、しかし、これは何も特別なことではなく、自然なことなのです。自由な人の集まりである教会には種々な人がいて、種々な意見や好みの違いもあり、誤解や行き違いも生じますし、またいろいろな面における人間の弱さや不完全さも包含しているわけですから、ときどき問題が生じるのは当然のことと言えると思います。(聖書もそれをありのままに記しています。)

リーダーや組織への盲従を強いられるカルトのような宗教や思想のグループでは、人間関係の軋轢(あつれき)は、抹殺されるので、表面には現われませんが、それこそ異常なグループの特徴と言えると思います。

それなら、教会のように自由な人の集まりの中には問題が生じるのは当然だから、「そのままで構わない」というのでしょうか。決してそうではなく、聖書には「人間関係をよりよくする」ための知恵や勧告、戒めがたくさん記されていて、それがとても分かりやすく具体的に教えられています。

「人間関係をよりよくする」ための鍵はもちろん「愛」ですが、聖書は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と教えています。これは、人が神を愛するという最高の生き方に次ぐ、大切な教えですが、誰もが持っている自己愛---自分を大事に思う---それと同じ気持ちで他を愛し、大切に思う心で関わりなさいということです。

実行は難しいことが多いのですが、しかし、人間は自分も他人も神の前に尊い存在だということを心に留めて励むなら、自分をも他人をも生かす幸いな、人との関わりへと少しずつ進んでゆけると思います。

自他共に幸いにする、愛の生き方の何であるかを聖書を開いて見出してくださいますように。

2004年9月「恵みのメッセージ」に掲載

*続・人間関係について(2)

「受けるよりは与える方が幸いである」との聖書の教えは、物のやりとりということだけでなく、人間関係全般において大切なことを教えていると思います。

人に「ああして欲しい、こうして欲しい」と求めるよりも自分が人にしてあげることを先に考えたら、もっと満ち足りた生き方ができるのではないでしょうか。

また相手に「変えてほしい」と求める前に「まず自分が変わることを求めて励む」と「相手も変わる」とよく言われることですが、これは親子関係でも夫婦関係でも同僚や友人関係でも事実のようです。経験済みの人も多いかと思いますが、人は相手に求めてばかりいる間は決して満足は得られないということだと思います。

自分には他に与えるような、役立つようなものは「何もない」と言われる方もありますが、そんなことはないと思います。あなたには「いい笑顔」があるのではないでしょうか。

人はあまりに辛いことがあって、落ち込んでいたり、種々な重荷を抱えてそれに潰れそうになっている時もありますから「絶えず笑顔」ということはできません。時には「何でも笑顔でごまかす」というような偽りの笑顔で、かえって大切なものを「濁す」ような場合もあるかもしれませんが、普通はやはり笑顔には人を生かす力があると思います。

やさしい笑顔で元気にあいさつされただけで疲れが癒され、心が温まって生きる力や希望を得る人だって少なくないのではないでしょうか。

だいぶ前のことですが、私たち家族が当時住んでいた街の近くで一人暮しの老人が同じアパートに住む小学生数人を撃ち殺して自殺するという痛ましい事件が起きました。老人が犯行に及んだ理由が「その子供たちから毎日悪態をつかれ、バカにされていたから…」というのでしたが、私はこの事件が忘れられませんでした。

その一人暮しの淋しい老人に誰か一人でも優しい笑顔で声をかけてあげる人がいたら、あんなことにはならなかったのではないか、誰もいなかったからではないだろうかとひどく心が痛みました。心が寒い時、やりきれないほど辛い思いを抱えている時、生きることに疲れ果てているような時、誰かの優しい笑顔に会いたい、一言の温かい言葉が欲しい、と心ひそかに願っている人は案外多いのではないかと思います。

日本でのことですが、ある時、駅の公衆トイレの洗面所にそこの掃除婦と思われる中年の婦人が入って来ました。その人はプリプリと怒ったような態度で「暑い、暑い」と声を張り上げて、水道の蛇口を乱暴にひねり、水をじゃんじゃん出しました。水しぶきをかけられた人々はみな顔をしかめていましたが、私はふと「今日は本当に暑いですね。お仕事大変ですね」と声をかけてみました。すると、その婦人は急に柔らかい表情になて「いえ、あら、どうも」と急いで蛇口をしめて、「私ら、仕事ですから。どうも、どうも、ね」と嬉しそうに頭を下げて、入ってきた時とは違う、静かな態度で去って行かれました。

行きずりの人がかけた一言のいたわりの言葉が、辺りかまわず怒りをあらわにしたいほどやり切れないものを胸に抱えていた一人の人を暖め、その怒りを静める効果があるとすれば、まして近しい関係の人々からのそれは、どんなに大きく人の心を生かし、人間関係に美しいものを産み出すことでしょうか。

心の灯が消えてしまっている人に灯を貸してあげることが、ひょっとしてその人の、悪の方向へ進んで行こうとする足を食い止める力になるかもしれないのです。私はそう思って、励むようにしています。

聖書にあるように世の終りが近いからでしょうか。人の愛が冷えて来ている現実を目の当たりに見ることが多くなりました。自分のことしか考えないで、他人を大切にしない人が増えています。「人と人との心が通じない」「互いに心を通わすように励む人も少なくなっている」と感じるのは、私だけではないのではないかと思います。

積極志向が叫ばれる現代の社会ですが、人に優しい笑顔、ちょっとした温かい言葉を与えるということは、人間関係における誰にでもできる積極的な生き方の大切な部分ではないかと思います。

笑顔には人を生かす力があります。温かい言葉は人の心を輝かせます。それを受けることよりも与える人になりたいものだと願わさせられています。

2004年10月「恵みのメッセージ」に掲載

*続・人間関係について(3)

「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」(ヤコブ1:19)

人間関係に関する聖書の教えは具体的で明確なものが多いですから、解説を聞くよりも、守り行うことが大切なのですが、人間にはみんな欠けがあるので、聖書の大切な教えも十分には守り行えないのが現実だと思います。しかし、神は、聖書の言を守り行なおうと励む者を助けて下さいますので、そのように生きる人は、自分の人生を豊かなものにし、人間関係をも、より良いものにすることができるようになると思います。

ただ、人間関係には相手があるわけですから、どんなに努力しても、自分の努力だけではどうしようもないことがあるのも事実です。それが、単に連絡不足、ミス・コミュニケーション、考え方、意見のちがい、勘違いといった外側の問題なら、その対応や解決も単純に済むと思いますが(それを改善すればいいので)、時には、相手の「人格の問題」といった難題に直面することもあるわけです。

最近、と言っても、もうだいぶ前からですが、本屋に行くと「困った人に困らせられない法」、「すぐに解決!困った人々」、「平気でうそをつく人々」、「困った隣人」等々、思わず苦笑したくなるような、おもしろいタイトルの本が売られているのを見ます。こういう本は、やはり相手の「人格の問題」に関する人間関係に悩む時にどうするか、その対応の知恵や方法に示唆を与えるもののようです。おそらく著者のにがい体験や見聞から書かれたものだと思いますが、結構、そういうことに悩まされている人は多いのかも知れないと考えさせられました。

特に相手を信頼して、ひたすら注いだ「誠意や善意が踏みにじられ」、人を大切にして来たことが「利用されただけだった…」と思うような事態に直面した時の、人間のショックと悲痛は大変深刻なものになるのではないかと思います。実際、そのために心の病気になったり、死を選んでしまうようなケースもあるのです。

人間関係のことでひどく悩む時、一つの躓きが人生すべての失敗であるかのような絶望感にみまわれることがあります。他人のことを気遣い、人間関係を良いものにしようと真剣に努力するような良心的な(誠実な)人ほど、「うまく行かなかった」結果に苦しんで、人間不信に陥ったり、ひどく否定的な態度をとってしまったりして、人との関わりを避けようとするのではないかと思います。

しかし、人生のすべての事柄と同様に、人間関係の問題も、避けること、逃げることによっては何一つ、解決しないのです。たとえ現実に人との関わりを避けて生きていたとしても、自分の心に生じた「人間関係」のつまずきそのものは、解決のないまま、自分の内側に残ってしまうのですから、それに全く悩まされないでいるということはできないと、私は自分の体験からも知りました。

「逃げること」に解決を求めてしまうと,一生、ただ「逃げ道を探す」だけの、実のない人生を歩むことになってしまいます。人生には逃げ出したくなるような事柄がいやというほどあるのですから---人生は、そういうこととの闘いなのかもしれません--。

人間関係の躓きや傷は、また「人間関係の中で癒される」と言われていますが、それは事実です。人との関わりで受けた傷は、人の心の、人の声の、人の手の助けを借りて、次第に癒されていくのですから、悩んでいる時は、やはり誰かに話すことが必要だと思います。

世には他人の心や痛みなど「気にもかけない」心無い人々もいますが、しかし、みんながそんな人ばかりではないので、これはとても幸いなことです。親身になって、あなたの苦悩や悲痛に耳を傾け、心を砕いてくれる、心優しい人々も世に居るのです。

神の愛をいただいている人々の集まる教会には、あなたを生かし、温めてくれる良い交わりがきっと見つかると思いますから、どうぞ、その交わりに加わって下さいますようにお勧めします。

どんな場所、どんな場合においても、人間関係の問題は小さくはないので、人はそれに深く悩むのですが、しかし、それはまた、私たちの人格を成長させてくれる貴重な訓練にもなるのです。

患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。(ローマ5:3-4)

共に忍耐しながら、この希望を自分のものできるように励んでいきたいと願っています。

2005年2月「恵みのメッセージ」に掲載

*続・人間関係について(4)

だいぶ前、日本にいた時のことですが、「近所の犬の鳴き声がうるさくて…」といった話を聞くと、「それはイーヌのモンダイではない」などと言い、「あそこのラーメンはまずい」とか「あそこの寿司はおいしい」とか同僚が食べ物の話をするのを聞くと「それは、クチのナーカのモンダイです」と得意顔で言ったりする、日本語がかなりできる婦人宣教師(アメリカ人)がいました。

この方が人間関係の問題を耳にすると「それはゴマン(傲慢)のモンダイです」と真剣な顔で言っていたのを思い出します。そして、しょっちゅうモンダイを起こす同僚の一人を「ミス・モンダイ」と呼んでいました。

この宣教師は人間関係のトラブルの多くが、人の高ぶりに起因していることを聖書のみことばを思い浮かべながら、考えていたのではないかと思います。

聖書には「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」(ローマ12:10より)とありますが、現実は逆の場合が多いようです。「人より自分の方が善い。自分の方が勝っている」という自負心は、人の思いの、奥の方まで流れていて、何かある度にそれが言動に表れてくるのではないかと思います。(人より勝りたいためにあくせくし、平安や休息を失い、人間関係をもとげとげしいものにしている有様を私たちはあちこちで見ています。)

人には神によって与えられた、それぞれの分があり、それぞれ違った能力や立場があって、それには基本的に優劣の差などない筈ですが、人はわずかでも、人より自分が勝っているように見える部分があると誇り高ぶって、他を見下げたり、他人を押し退けてまで、自分の分を増やそうと卑しい手を使ったりするのです。その姿は醜いですし、相手を傷つけ、秩序を乱し、人間関係の混乱をも招くのですが、高ぶった心のままだと、そのことに気づかないのです。

「高慢の臭いがする」と言われますが、周りの人は気づいていて、密かに鼻をつまんでいるのに本人は平気でいることがあります。「口臭は自分には臭わない」わけですが、人の高ぶりも自分には臭わないので厄介なのかもしれません。

しかし、「わざとらしい謙遜」ということもありますし、「謙遜に見える傲慢」などと言われたりするように、時に傲慢の正体は複雑で変装したりもするのですが、でもこれは、そのうち必ず人間関係の中に悪い実を生じさせますので、分かって来るのです。お互い繰り返しへりくだることを勧告している聖書のみことばに自分を照らしながら、「へりくだる恵み」を求めて励んでいきたいものだと願わされます。

こんな話があります。ある家族の一人が、うっかり水を入れたやかんを床に置いたためそれに気づかなかった他の一人が、それに躓いて水をこぼしてしまったそうです。そこで、やかんを置いた方が「すみません。そんな所にやかんを置いた私の不注意でした」とすぐに謝りました。するとやかんに躓いた方が「いや、足元に気をつけなかった私の方が悪いんだ」と言い、「いや、私の方が」「いや、私の方が」とお詫びの競争(?)をしあって、最後には明るい笑い声が家中に響いたそうです。これは、それまでいがみ合い、咎めあってばかりいた嫁と姑がクリスチャンになってから生まれた美しい実話だということです。

お互いにへりくだることで避けられる人間関係のトラブルがいっぱいあると思いますし、へりくだる心と態度は、あらゆる場合、あらゆる場所で人間関係を心地よいものにすると思います。

人に注意されたり、忠告されたときも、「何をうるさい」「自分は間違っていない」と高ぶって、心をかたくなにしてしまうとその人の人格(品性)の成長は、そこでストップされてしまいますし、大切なものを自分のものにするチャンスを自分でフイにしてしまうのです。

誠意をもって忠告してくれる人の言葉は、たとえその時は痛くても謙虚に聞き入れることで、多くの貴重なものを獲得できるのです。そうして忠告した人と、された人の関係はとてもうるわしい幸いなものになることでしょう。

あの人には「言っても無駄だ」「人の言うことに耳を貸そうとしない」愚かで困った人と思われてしまうよりも、あの人は「話せばわかる人」「聞いてくれるので話しやすい人」と周りから評価される方が、どれだけ幸いなことでしょうか。謙虚さがないとできないことだと思いますので、心して励んでいきたいと思わされます。

高ぶった心はまた、愛のない、冷たい態度で人に接することにつながっていくと思います。へりくだる思いがないために、心に温かさの欠如している人は他人のささいな間違いや欠点に対して、実に矢のような早さ、矢のような鋭さで非難を飛ばします。そういう人間関係が見られる所は実に冷え冷えとしていて、安らぎのない居心地の悪い所になります。「すぐに人をとがめる」というのは人間の悲しい習性だと思いますが、やめることができたら、きっと幸いな人間関係が生まれることでしょう。(もちろん、ミステークはできるだけ無いように励むのは当然ですが。)

高ぶることは、何の努力も修練もなくても誰にでも簡単にできますが、いつもへりくだることは大変難しいと思います。健全な思考も必要ですし、何よりも神の恵みと助けが必要だと思います。まず神の前にへりくだって、卑しい罪人の私たちを愛して、命まで投げ出してくださったイエス様の愛のお姿、低くなって、人の僕(しもべ)となられたイエス様の謙遜を見ることから、真の謙遜を学ぶことに励んでいきたいと思います。

あの婦人宣教師ではありませんが、「ミス・モンダイ」だけでなく、「ミスター・モンダイ」、「ミセス・モンダイ」も結構居るような、難儀な人の世にあっても、神の愛をいただいて、お互いを大切にしあう人間関係の育成に励んでいけたらと願わされています。

「神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを与える」(ぺテロ第一5:5)

2005年4月「恵みのメッセージ」に掲載

*続・人間関係について(5)

「人間関係は難しい」とこのシリーズの初めに申しましたが、「本当にそうだなぁ」と自分自身、痛感させられています。

「ああしたらいい、こうあったらいい」などと口で言うのは簡単ですが、実際に問題に直面してみると本当にどうしていいか分からないことがたくさんあります。ですから「人間関係について」述べてみても「仕方がないか」と思ったりします。それでも少しは何かのお役に立つだろうか、、、と考えて書いてきました。

何度か申しましたように「自分を愛するように隣人を愛せよ」という聖書の教えをお互いに守ることができたら、人間関係はきっと素晴らしいものになるだろうと思います。

人間は誰でも自分を愛しているはずですが、しかし、現代は本当の意味で自分を愛せない、自分を粗末にしている人が増えているように思います。だから他人をも愛せないで、他人を粗末にしてしまうのかもしれません。

「自分を愛する」というと「自己中心、わがまま、自分のことしか考えない」と受け取られがちですが、実はそうではないのです。聖書の言う意味での「自分を愛する」というのは、神によって生かされている自分の存在を尊ぶ、自分の心と人生を価値あるものとして大切にする、ということなのです。

人間の価値は存在そのものにあって、外側のものでは計れないのですが、しかし、現代は外側のものが最重要視されています。ですから外側のものを得るのが不得手な者は軽んじられ、粗末にされてしまいます。そうしてみんながいわゆる「強者」になろうと躍起になっています。科学や医学までもが、その本来の役目を越えて、そんなことに手を貸してしまっています。(そういうことに不安や疑問を感じている人は少なくないと思いますが。)そういう社会では真に「自分を愛する」ことも、「他人を愛する」こともできなくなってしまうのかもしれない、と思わされます。

ある人が、社会に弱い人やハンディキャップを持っている人がいなくなって、みんなが強くて優秀な人だけになったら、この世は果てしなく奪い合い、傷つけ合うだけの、恐ろしい社会になるのだろうと警告していますが、本当にそうだろうなぁと思いました。人間が弱さや欠けを持っていることはむしろ大切なことで、人は自分の弱さを知ることで、他人を思いやる優しさを持てるようになるのだと思います。

私は時々「何故この世には病弱な人やハンディキャップを持った人々がいるのか?」と考えるのですが、実はこういう人々が社会に潤いを与え、ギクシャクしがちな人間関係の中和剤になっているのをよく目にします。

神はいわゆる「健常者」と呼ばれる人々にはできない、特別な使命を「弱者」の人々に与えておられるのかも知れません。それは人間社会にとって非常に大切な使命ではないかと思います。

互いに弱さや欠点のある者同士がより良く共存していくためには、互いのそれを受け容れ合うことが必要になってきます。これは大事なことですが、しかし、注意しなくてはならないのは、「人を受け容れる」ということが何でも彼(か)でも「そのまま許容する」というのではないということです。

聖路加国際病院の元院長で、本なども多く出しておられる日野原博士は、「人を生かす拒否もあり、人を殺す許容もある」と言っておられますが、確かにそうだと思いました。しかし、私たちはそういう点で「間違ってしまう」ことが多いのではないでしょうか。それが上手くいくような人間関係の中には本物の愛が息づく…と思うのですが。

悲しいことに、人は互いの違いや弱さや罪深さなどの故に、誤解したり、嫌ったり、傷つけあったりしてしまうのですが、それをそのままにしておくと、人間関係は壊れたままになってしまいますので、やはり互いにゆるし合うことが必要になってきます。

もちろん「ゆるし」もまた難題であり、安易に考えてはならないのですが、しかしこれは人間に不可欠なことです。もし、人をゆるすことができないとしたら、人はその「ゆるせない」枷(かせ)のなかで絶えず、苦痛にさいなまれながら日を過ごすことになります。また、人の世には「ゆるしてもらう」しかないような事柄も生じてきます。「ゆるすこと以外」「ゆるされること以外」どんなにしても解決のない問題が多くあるのです。大小さまざまに、…。

誰もがそういう問題には直面したくないし、そんな事柄は避けたいと願っていますが、避けられないのが人の世です。全く予期もしなかったような問題に悩まされることも多々ある世に私たちは生きています。そんな事柄の中で人は、人生の悲しみや辛さを経験するのですが、しかし、その悲しみや痛みを味わう中で、人は内側に何か泉のようなものを持つことができるのではないかと思います。(うまく言えませんが。)

そういう時に私たちは、人をゆるすために「悲しみの人」(イザヤ53章)となってくださったイエスさまの愛が身に染みてわかるような気がします。実は、私たちは神の恵みの中でこそ「ゆるし、ゆるされる」幸いに生きる者となれるのですが、、、。

人間はそれぞれに好みも価値観も生活習慣も違っていますから、それがお互いにぶつかり合ったり、噛み合わなかったりするのは当然と言えると思います。家族や友人のような親しい間柄でも、相手の「あの点は好きではない、受け容れられない」と思えることの一つや二つはあると思います。(十や二十の人も…?)もちろんそれは相手にも、こっちに対してあるわけです。しかし、ある人たちは年中、相手ばかり咎めていますから、その関係はいつまでたっても建設的にはならないのです。向こうもこっちの欠点や嫌な面を忍んでくれているのだから、こっちも相手のそれを忍んであげる必要があると思います。つまりは「お互いさま」ということです。

ある婦人が、ある雑誌の中で、「私は歯磨きのチューブを真ん中からしぼるが、夫は下からしぼるべきだと言って、いつも意見が合わない」と言っていました。これなどは、どこにでもよくある女性と男性の違いのようです。

どんなことにおいても人間にはいろいろ考え方、やり方の違いがありますが、その中には案外、どうでもいいようなささいな事も多いようです。しかし、そのささいな事が、大きな問題に発展してしまうことも少なくないのです。その原因は、お互いに「自分のやり方が一番で、間違っていない」と主張してゆずらなかったり、それを相手に押し付けたり、一方的な態度だったりするところにあると思います。

そういえば、以前、日本でラーメンの銘柄のことで争った夫婦の殺人事件がありました。「なんでそんな事で?」とみんなが首を傾げたのですが、争いや問題の火種は、最初は何でもないような小さなことが多いようです。小さいうちに消すように気をつけることが肝心だと教えられますが、ささいなことの中でもお互いに譲り合い、忍び合い、理解し合って、歩み寄るように努めていけば良い関係が持続できるのではないかと思います。誠実さや善意、謙遜などは、人間関係をよりよくするために不可欠のことなのですが、しかしこちらがどんなに、そのような態度で励んでも、応えてくれない相手がいるというのも事実です。そんな時、口にだせない、うまく表現できないような苦悩を覚えるのですが、そのような時も、やはり神の助け、神の理解を仰ぐことで励まされると思います。

そうして、過ぎたことにはなるべくこだわらないようにして、前向きに進んでいけたら、いろんな失敗もプラスになると思います。「互いに愛し合いなさい」と聖書は繰り返し教えています。いつの時代にもどんな所でも、愛は美しいものであり、力あるものであり、生産的なものなのですが、しかし、しばしば愛の誤用や乱用がみられるのは残念なことです。やはり、聖書を開いて、真実な愛の何であるかを学びながら本当に心から「互いに愛し合う」人間関係を築いてゆけるよう努力していきたいものだと思います。

人間関係の良否を大きく左右する、言葉の遣い方のこととか、人間の内側に潜んでいる自我の処理の問題とか、複雑な現代社会に増え続ける人の心の病とどう関わっていくか等々、人間関係の問題、課題はまだまだ、数限りなくあると思いますし、とりあげたらきりがないと思います。

人間関係はいつも難しいし、それは自動的に良くなることは決してないのだということを心に留めて、絶えず努力し、励んでいかなくてはならないと思います。それを覚えて頂けますなら、私の書いたことも何かの役に立ったかもしれないと思っています。

人はみな神に造られ、神に愛されている尊い存在なのですから、自分をも、他人をも大切にしながら、与えられた人生を感謝し、喜ぶことができたらと、願わさせられています。ありがとうございました。

私たちの助けは天地を造られた主の御名にある。(詩篇124:8)

2005年6月「恵みのメッセージ」に掲載

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