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目 次



サムソン 士師記14章~16章


人が誘惑に負ける時、事の良し悪しをわきまえる力を失うのだ。
神さまの力、神さまの守りなしに、人はこの罪の世で正しく生きることは、決してできない。神さまを恐れ尊び、主に従うことなしに、悪に打ち勝つ力も得られない。

サムソンは、神さまに特別に選ばれた人だったのに、神さまからの偉大な賜物を軽んじ、それを粗末に扱ってしまった。女の誘惑に負けて、、、とはいえ、その態度は実に無防備で、不遜で不謹慎だ。それが間もなくサムソンの自滅を招いた。ペリシテ人に捕らえられ、両眼を抉り取られ、嬲り者にさえて、、、実に屈辱的な姿に。

しかしそれでも神さまのあわれみは大きかった。
最後にサムソンの祈りに答えて、力を与えて、サムソンが自分の死をもって、残酷な敵を滅ぼす事をゆるされた。

どんな罪深い者をも、愚かな者をも、悔い改め、祈るなら、赦してくださり、助けてくださるあわれみに満ちた神さま。

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ちょっと面白い話 (目に狂い?)


先日、あるご婦人が集会所で、ハンドバッグが見つからないというので、あちこち探してみたが見つからなかった。そこで、もしかして車に置き忘れたかもしれないと思って、見に行ってみたら、車の中にあったと言う。でもそのバッグの中に車の鍵も入っているので、車が開けられないから、ご主人に電話して来てもらうことになった。ご主人は10分後に家を出て来てくれると返事したという。

「そしたらまずはよかったね。」とみんなで安堵した。とそれで終われば、この話は、面白くも何ともないのだが、数分後、このご婦人は「でもほんとに車にあるかしらと]、と心配になってもう一度見に行った。そしたら今度はなかったという。それでまた、部屋の中をよくよく探したら、バッグは部屋の中に、最初に何度も探した、その場所にあったのだ。あわててご主人に電話して、謝って、まだご主人が家を出ていなくて良かったのだが。

車の中にないものが見えて、部屋の中にあるものが見えなかった。これはまあ、なんとも奇妙なことだと大笑いして一件落着したが,考えてみると、こういう珍現象的なことが、他の事でもいろいろあるかもしれない、と思った。
社会の事でも、人間についても、事実と違う目視があるかもしれない。それに気づかずに、錯覚や、思い違い、偏見などなどの自分の思いが先に立って、事実を事実をとして、まちがいなく認識できていない事も多いかもしれない。誰も「自分の目に狂いはない」など、そう簡単に言えないのではないか。

地上の、実際に見える事柄に対してさえ、そうなら、まして目には見えない
神に関する真理、永遠の事柄では、信仰者でさえ正確に見ていない、受け止めていない場合が少なくないのではないか。聖書を読んで、それはよく知っていると、自負している人でも、、、そんなことを思わされ、常に謙虚に自戒し、注意が必要なのだと思った。





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ちょっといい話(いじめ?)


アメリカのある学校での、ちょっとした出来事

知り合いの家の、8才になる男の子A君が、サマースクールに参加中に友達からいじめられて、ちょっと怪我したという。又おべんとうにもゴミが入って食べられなくなったので、男の子は泣いたそうだ。でも担当の先生がよく対応してくださって、いじめっ子は謝ったという。
それだけでなく、いじめたその子が、A君に自分の弁当を半分わけてくれて、一緒に食べたそうだ。まあいい話ではないかと思った。爽やかでさえある。

A君をいじめた子は、いじめをしたというより、乱暴を働いて、相手を怪我させてしまった、わんぱく小僧ではなかったかと思うが、日本のいじめのような陰湿なものは全くないし、先生の指導もすぐれていたのだと思った。

今の、日本社会のいじめは、実に陰湿なものが多く、心身に危険を及ぼすようなものまであると聞く。酷いことだ。
教師の対応も間違っている場合があるようだ。子供が小学生の時、私が経験したことだが、毎日のようにももの所にあざを作って学校から帰ってくるので、
よくよく聞いてみたら、隣の席に座っている子が机の下から手を伸ばしてつねるのだという。(小学校一年生の子にしては、たいした知能犯だ。)このことが何日も続くので、担任の先生に話したところ、先生の答弁は「あの子は、大会社の上司のお子さんですから、問題ありませんよ。」だった。
つねられた傷跡は、「子供はあちこちぶつかったりもしますから」で片付けられてしまった。教師のこんな対応で、学校からいじめがなくなるはずがないと思った。

いわゆるPTAの会合でも「いじめられるほうにも、問題があるんじゃない」
「うちでは、いじめられたら、いじめ返せばいいと教えています。」という意見に賛成が多かったことに唖然とさせられたのだった。

「いじめによって自殺した子供たち」が何人も出ていて、「いじめをなくさなくては」という声は大だが、いっこうにいじめがなくならない原因は、社会全体の中にうごめいているようだ。
「日本はいじめの社会だ」と言った人がいたが、事実かもしれないと思わされるのは、大変悲しいことだ。
そうじゃない社会になるのに、何が必要だろうか。



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信じない者にならないで

            ヨハネ20;27

イエスさまは、死を打ち破って復活されてから、弟子たちに現れたのですが、弟子の一人のトマスは、その時そこに居なかったので、
他の弟子たちから「主にお会いした」と聞いても信じられませんでした。

「イエスさまは十字架の刑を受けて実際に死なれたのに、どうして今、主に会ったというのだ、ありえないことではないか」と疑いました。こんな事は、前代未聞のことですから、無理もないことです。
それでも他の弟子たちがあんまり「それは事実だ。事実だ」と言うのでトマスは、「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」と言い張りました。
十字架で死んだ主が、今生きているというのなら、「証拠を見せてくれよ」というわけです。

そこにイエスさまが現れて、トマスに「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に入れてみなさい」と言われ、
さらに主は、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とトマスを諭されました。それでトマスは、「私の主よ、私の神よ」と言って、自分の目の前におられるイエスさまを信じました。

さらに主はトマスに、「あなたは見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いである」と言われ、信じる心が重要であることを教えられました。
信仰とは目に見えないものを確信させる」へブル11;1と、聖書にありますから「見えるところによらず、信仰によって歩む」ことの大切さを教えられます。

この聖書の場面は説明など要らない、そのままでよく分かりますが
現代の私たち信仰者もトマスのように「信じない者」になってしまう誘惑はいっぱいあると思います。

目の前の困難があまりに大きく、祈っても祈っても解決の灯が見えないような状況が続いたりすると、疑いの心が頭をもたげて来るので、それに負けてしまうと不信仰に陥ってしまいます。信仰も希望もなくしてしまうと、物事の解決ができないばかりか生きる力を失ってしまいます。
人は、どんな状況の中でも、信仰と希望をなくさない限りは生きて行けるのですから、いつも信仰の足りない者ですが、私たちの信仰がなくならないように祈っていてくださる、イエスさまに頼って「私の信仰を増してください」と祈り、どんな時も「主を信じる者」として歩んで生きたいと思います。



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ペテロと同じ


するとイエスが言われた
「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言うだろう」。ルカ22;34

ペテロは、捕らわれているイエスさまの様子を見ようとして、大祭司の中庭に入って行ったのですが、そこに集まっていた人々から、「あなたもイエスの弟子でしょう」と言われて、「違う違う、イエスなんて、そんな人は知らない」と三度も答えてしまいました。

ペテロは、イエスさまのためなら、「獄も死もいといません」。と胸を張って断言したのでしたが、実際は、保身のために三度までも主を否定したしまったのです。イエスさまが言われたとうりでした。

その時まさに、鶏が鳴きました。これも主のおことばのとうりに、でした。
それでペテロは我に返って、自分の大罪に気づき、外へ出て激しく泣きました。深い自責と後悔とにつぶれそうになって、、、

私ももし、ペテロと同じ状況に遭遇したら、ペテロと同じようにしたかもしれないと思いました。自分を守るために、「主なんて知らない」と言ってしまったかもしれないのです。その弱さと愚かさは、私にも十分あるからです。

しかし、そんな弱くてふつつかな者に対して、イエスさまの愛のご配慮、いたわりのおことばは、何と温かいことでしょう。
私たち人間の弱さと、脆さのすべてをご存じの上で、まるごと受け止め、赦し、あわれんでくださるイエスさま。弱く罪深い者たちの救い主よ、その深い愛に感謝します。

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主の掟を守る大切さと幸い


旧約聖書の時代、神さまはその民に、様々な細かい掟を定めておられ、神さまの掟を民が守れば、あらゆる面での繁栄と安全と幸いが約束されていました。

新約の時代に生きる信仰者には、旧約聖書にあるような細かな掟などは求められていませんが、しかしその精神、真髄は大切にすよう求められていると思います。

神が主であると告白し、神の僕として主に従う。
神が聖であると告白し、その聖さを覚えて神を怖れる。
神は真実であると告白し 真実な歩みができるように励む。

これは、旧約時代の信仰者にも、初代教会の信仰者にも、そして現代の信仰者にも、同じように大切な事です。
神を知っているということは、決して知識や、口先だけの事ではなく、
神を知っている者として生きること、実際の生活において、神を怖れつつ歩む事です。
そうでなければ、この素晴らしい、聖なる、真実なる、力と愛に満ちた神さまとの親しい交わりをもって、光の中を歩むことはできませんし、世に神さまを証することもできないと思います。

人間に与えられている、もっとも素晴らしい特権である、自由意志をもって、神を信じ、クリスチャンになった者は、その自由の中に生きることができますが、しかし、その自由は、神のご栄光や、他への影響を考慮して慎むことも要らない、自分の言動に気をつけることもしなくていい、なんでも自分の好きにしてかまわない、というような自由ではないはずです。

むしろ、主のご栄光を思って、また他へのつまずきを与えないようにとの愛の配慮から、自分のあらゆる言動を厳しく点検しながら、気をつけて歩む生き方が求められていると思います。そのためには、自分の好む言動に制限が必要な場合もあると思います。
それは窮屈な生き方ではなく、自ら進んで、愛の価値ある生き方を選ぶ幸いな人生だと言えると思います。



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光のつまずき 闇のつまずき


罪の事や、主の十字架や、悔い改め、聖めなどの事を語ったら、人はつまずいてもう、教会に来なくなるから、、、という言葉を時々聞くのですが、本当にそうでしょうか。確かにそういう場合があるのは事実だと思います。
多くの人は、耳に心地よい言葉を好み、人の自尊心を満足させるような事を聞きたいと考えているでしょう。

でも、実は人間の問題の最も大きな原因である、罪の解決がなければ、人はたとえこの世の多くの幸いを得ていても、決して真の希望も平安も満足も得られませんから、人を罪から救うために、十字架で死なれた神のみ子イエスさまの贖いが必要なのです。これこそが福音であり、神の愛です。
これを語らなければ、人は救われませんから、教会は、先に救われた者はどうしても福音は語らなくてはならないのです。
私たちも、そうして、人に受け入れられそうにもない、語りにくい福音を勇気と愛をもって語ってくれた人がいたから、この尊い神の救いに預かることができたのではないでしょうか。

この福音によって救われた人の多くも、かつてそうであったように、福音に対して、最初は、たいてい反発やつまずきがあると思います。でも、神の恵みはそんな人間を顧みて、なおも導いて、信仰に至らせてくださったので私たちは救われたのです。福音を聞かなければ救われませんでした。

十字架の福音は、誰にでも何の疑問も抵抗も葛藤もなく、すんなり受け入れられるような、インパクトのないものではありません。
むしろ、生まれながらの人間に真っ向から戦いを挑むような要素を持っています。それは、聖書を読んでも、歴史を見ても、信仰者個人の経験を見ても分かります。そして、だからこそ人を根深い罪から、闇の力から、永遠の滅びから救う力、真価を持っているのです。

ですから、福音へのつまずきは、光のつまずきです。そこを通って光を見い出すのです。

でも、信仰者の不誠実や、よくない言動、教会の本質に悖るような状態につまずくのは、人として当然ですが、救いを受けて神の子にされた者は、そのような闇のつまずきを人に与える事のないように、よくよく注意し、間違ってしまったら心から悔い改めて、主の光を消さないようにしなくてはならないと思います。人々に主の救いと光と真実と愛を伝えるように励みたいものです。

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十字架の七つの言葉から


(母マリヤと弟子のヨハネに)

イエスは母と、そばに立っている弟子とを見て、母に[女の方。そこにあなたの息子がいます。」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
                ヨハネ19;26、27

神は、人がその罪のために滅びることがないように、人を救うために、み子を世に送られました。それが乙女マリヤより生まれたイエスさまです。
イエスさまは、地上において、大工ヨセフの子として、人と同じように育ち、生活され、人が舐めるあらゆる労苦、悲痛を経験されました。

そして、人を救うために、人の罪の身代わりに、十字架の刑罰を受けられ、死なれました。これが聖書が告げる十字架の福音、贖いのみ業です。

神は、人の魂を罪から、死から、滅びから救う事を何よりも願っておられますので、自分の罪のために霊的に死んでいる人を救って、再び生かし、本来人が持っていた神との交わりを、回復できる道を備えられたのです。

ヨハネ19章のこの場面でもわかるように、イエスさまは人の魂を救うために、
今まさに残忍な死を迎えようとしています。茨の冠をかぶった頭からは血が滴り落ち、十字架に太い釘で打たれた両手、両足からも、血が吹き出ています。

言語を絶する苦痛で、息も絶え絶えですが、しかし主イエスさまは、このお苦しみの中でも、かつて町や村をめぐり歩いて労しておられた時と同じように、人への愛のお言葉、救いのお言葉、赦しのお言葉を語っておられます。

主は、人にとって最も大切な、最も価値のある魂の救いを優先されましたが、しかし同時に主は、人がこの地上で生きてゆくための、必要な助け、守り、支えもお心に留めておられ、人の現状に十分にご配慮くださる恵み深いお方です。特に私たちが、苦しいときや、悲しみの時には、すぐに愛のみ手を差し伸べてくださいます。

母マリヤを気遣った主は、私たち一人一人をも、いつも親身になって気遣ってくださり、助けてくださいます。



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小さな事でも


人間が辛い思いをするのは、大きな問題だけではなく、小さな事柄によることも多いと思います。
自分の不注意や不用意によるちょっとした失敗、相手が何気なく発した言葉、冷たい視線や些細な誤解、話しているのに通じないなあ、と感じてしまう時、かなり努力したのに結果が思うようでなかった時、その他、どうも気になる、また、気に障るような周りの様々な事柄、などなど、それらは、気にしなければ、それで済んでしまいそうな事なのですが、ひどく気になってしまって、思い悩んだり、苦痛を覚えるような事がよくあります。

人とは、なんとマイナスに対して敏感な者なのだろうと思わされます。いつまでも気になって過ぎた事に振り回され、小さな事が大きな心の重荷になったりします。

自分でもそれはつまらない、愚かなことだと分かっているのに、気にしてしまうことも多いので厄介です。

聖書に「思い煩うな」という言葉が何度か出て来ますが、それは、何か大きな問題の事だけでなく、些細なことで気持ちが参ってしまうような時にも必要な事なのだと教えられます。
神さまを見上げて、祈って助けていただいて、落ち着けない心を鎮めることが大切だと思います。

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自然の呻き


実に被造物全体が,今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、私たちは知っている。ローマ8;22

アダムとイブが神の命令に背いて、罪を犯した時、人間は神との愛の関係が損なわれて、生きるための苦しみが始まったのですが、それだけでなく、自然界もその影響を受けて、それまでの好ましさと、豊かさを失ったことが聖書に記されています。(創世記3;17、18 )

神が創られたものは、すべて良いものだったのに、(創世記1章)良くないものにもなってしまいました。
それでも、神さまのあわれみは大きいので、被造物全体が呪われてしまったわけだはなく、自然の美しさ、素晴らしさ、恵み深さ、慈しみと偉大さも失われてはいません。けれどもやはりそこには、脅威も、危険も、腐敗や衰退、醜い戦いの部分も見られます。今日に至るまでの現状です。

命に満ちた、平和と美一色の園、エデンの園とは違っています。

エゼキエル6章で、神さまが、山にも川にも丘にも谷にも語っておられますが、
この時代、イスラエルの民が、神に逆らって山や川や丘や谷を汚したために、これらも罰を受けたことが書いてあります。
物言わぬ自然が、人間の罪のとばっちりを受けています。
その呻きは人には聞こえないのですが、でも、時としてそれが伝わってくるような気配を感じる事があります。

万物の創造者であられる、主イエスさまの再臨と、それに伴う、主の新しいみ業がなされる、その時には、すべての被造物が、その贖いの恵みと力に預かって、快復されるのですが、その時を、信仰者は祈りつつ待ち望んでいます。


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聞いた話(忍耐して祈り続ける事の力)


先日、こんな話を聞きました。
昔、ビル ブライトという人がいて、その人は、旧ソビエト(今のロシア)に福音が伝えられる門戸が、開かれるようにと、40年間も祈り続けたそうです。
どんなに、鉄のカーテンは開きそうにもない状態を見聞きしても、諦めないで祈り続け、ついに40年の後、共産主義は崩れて、彼はモスクワで、多くの群集を前に福音を語ったそうです。

ビル ブライトは、彼のひざによって、共産主義に勝利したと言われています。

祈りの答えが、長引いていて、もう祈ってもダメかなと、思えるような状況の中でも、この人のように、忍耐して祈り続ければ、必ず祈りが聞かれる時が来る、その事を信じて祈り続けなくてはと、教えられました。

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贖いの恵み



幸いな事よ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

幸いな事よ。
主が、咎をお認めにならない人
心に欺きのないそのい人は。
    
      詩篇32;1、2

このみことばのように、聖い神さまに罪赦されて、自分の心が咎めのない状態になった時の深い平安、天の光が見える魂の喜びは、何にも勝るものだと思います。

人間は、原罪を持っていますから、生まれてこのかた、罪を犯しています。

そのことは、子供でも知っている事です。
そんなに特に悪い子でもないのに、時々悪い事をしてしまうからです。

そうして年を重ねていくうちに、人の罪の嵩は増していきます。周りにに知られることもあり、誰にも知られないまま、という事もあるのですが、自分の心は十分それを知っています。「罪の記憶は鋼鉄の針のように人の心に突き刺さっている」という言葉を聞きましたが、事実だと思います。

ですから、どんなに気にしないようにしていても、罪の負い目は、私たちの心を追い続けるのです。そうして人の心は光を失った暗い、重いものになっていきます。自分をごまかせない真っ直ぐな人ほど、その事に人知れず悩み、心が疼き、その解決を求めていると思います。

でもこの世には、罪に対する解決の道はどこにもありません。
いろいろな良い教え、教訓、奨励、修業、宗教、などはこの世にもありますが、本当の罪の解決は、そこにはないのです。ですから人は、多くの場合、
罪の問題を他のものと擦り替えて、人生にはそれよりもっと大事な問題があって、それに取り組むことが必要なのだと言います。
でも、本当は違います。罪の問題の解決がなければ、生きる目的も力も希望も平安も光も得られませんから、大海を絶えず漂う船のように、不安定な心で歩むことになり、外からは見えなくても、心は空虚で惨めです。

幸い、世にただ一つの罪からの救いの道が、神によって人類に与えられました。それが、人となられた、神のみ子、イエス キリストの十字架による贖いです。


神に罪を赦された、罪の責めのない心の平安と力、確信と喜び、それがどんなに大きな幸かは、経験した者が知っています。その幸いが人に、どんなこの世の嵐をも乗り越えて生きる力を、どんなことにも押しつぶされない希望を現実に与えるのです。









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カレブの信仰


旧約聖書に出てくるカレブという人は、85歳までも、それ以上も、全き心、全き情熱をもってで神に従った人だった。
これは、簡単な事ではないと思う。
人は月日がたつと、初めの情熱や真剣さを失うことが多い。信仰の面でも、初めは熱心に教会に通い、忠実に主に仕える歩みをしていたのに、いつの間にか教会生活も、自分の責任である奉仕も怠りがちになったりする。

また外側は変わりなく見えても、信仰者としての内面の成長や、霊的、人格的にさらに高められ、聖められる事を求める姿勢などは薄れていくことも、みかけられるようだ。

カレブのように、初めの信仰と神への従順を、長年変わることなく持ちつづけるのは、容易な事ではないと言える。
絶えずみことばに親しみ、祈りに励み、自らの内外をよく点検して、悔い改めるべき点はちゃんと悔い改めて、へりくだって、主の前で真っ直ぐに歩まないと、初めの確かな信仰の姿勢が崩れてしまう。

私たちの信仰の歩みを崩してしまうものは、まわりに多々あるし、自分の内側にもそれらがあるのに気づかされる。

いつも、主の十字架の福音に立ち返る事を忘れなければ、初めの忠実さは取り戻せるから感謝なのだが。恵み深い主は、十字架のもとに伏す者をいつでも顧みて助けてくださる。真理の光の中で育んでくださり、絶えず新しい恵みを豊に注いで、喜んで主に従う者にしてくださる。感謝!

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どうして、、、


「どうして私だけ、こんな辛い目に会わなくてはならないの、どうして、、、」と叫ぶ声を、私はいろんな人の口から、何度も聞きました。
そう叫びたくなるような、痛みを抱えているからだと解りますが、でも、誰と比べて「私だけ」と言っているのだろうかと考えさせられた事があります。

目が見え、耳が聞こえ、手足が動き、食べる物も、着る物も、住まう所もあって、生活も守られていても、何か一つ、あるいは二つ、辛いことを抱えて忍耐を強いられる日々が続くと、そういう気持ちになるのは、弱い人間にはよくあることなのですが。でも、悩みも苦しみも、痛いところも弱いところも、何一つない、と言える人はまずいないと思います。人にはみな、何らかの痛みも悩みも欠けも弱さも、普通にあるのです。

でも、自分が今持っているものを、持っていない人と比べて(そういう人は世に大勢いるのです)
「どうして私は、五体満足で、健康も守られ、食べ物、着物、住む所、必要なお金や品々、自分を心配してくれる人々 などなどのこんなに多くの恵みを得ているんだろうか」と言う声は、あまり聞いたことがないので、それこそどうして?と思わされます。
それって、公平じゃないということになりますが。

物事に対する人の受け取り方、捉え方、判断、対処の問題、ということなのでしょうか。多くの場合、人は与えられている恵みを感謝するよりも、困難や苦痛の面を見る目を大きく開け、口も多く開けてしまう、と言う面が見られるようです。恵みの面には視野が狭くて、近視眼的でもあるような感じです。

そうして実際に辛い現実以上に、自分を惨めにしてしまう、ということがあるようです。人間の悲しい性(さが)かもしれませんが、神さまを信じる者は、主にすがって、自分ではなかなかできない、「すべての事に感謝する」ように励む事ができたら、幸だと思います。幸いな生き方はやはり人の心の有り様が決める場合が多いようです。



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残念な事


神からのギフトを、正しく的確に行使できないと、その教えは人を救わない。
人を生かさない。
昔ユダヤの指導者たちが、神の律法を、正しく民に伝えなかったために、その教えは、民を縛り付け、苦しめるものになってしまっていた。

現代、神からの最大の賜物である、十字架の福音についてはどうだろうか。
ある宗派では、会堂に主の十字架が飾られ、十字架の恵みを思う儀式がさかんに行われているのに、それが本当に罪人を救う主の恵み、罪人への神の深い愛として正しく教えられ、人々に恵みとして届いているかどうか、疑問を呈する人たちもいる。かえって人々にこうだから、こうしろ、 こうすべきだ、そうしい者はまちがっていると、何か命のない一つのパターンのようになってしまっているとも、聞いた。

またある宗派では、イエスさまの十字架で罪赦された者は、神に受け入れられ、自由にされているから、神の子とされている者の言動は、すべて神に容認されているのだから、自分の好きなように振る舞ってもいい、といった誤った自己義認が見られるようだ。そうして人を真に罪からの救いに、罪に汚れた古い自我からの自由に導かない。

あるグループは、主の十字架を人の心に重くのしかかる戒律のようにして、またあるグループは、主の十字架を、神の戒めを守るなどの戒律的な事は要らなくなったからと、勝手気ままな生き方の土台にしてしまっているようだ。

主の十字架による救い、その真の中味を、より正しく、より詳しく語っている所がどれだけあるだろうか、と考えさせられる。
いつの時代、どこにおいても、人間は、神を知っている、信じているている、と言いながら、神からの真理をないがしろにし、自分の考え、自分の解釈、主張を是として、そんな自分の歩みを振り返ることもせず、それと気づかず、反省も悔い改めもないまま、表面をきれいに見せてしまう。それは、お命までも捨てて人を贖ってくださった主の福音に対して、とても申し訳ない事だと思う。残念なことだと思う。悲しいことだと思う。天の目は真っ直ぐでごまかせないから、福音を正しく握っていないと天の光は見えなくなると思う。











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知恵ある生き方


「主を恐れることは知恵のはじめ」と(箴言9;10他)聖書にあるように、主を恐れる人は知恵ある生き方をします。
知恵ある生き方とは、いつも「結果を考えて行動する」ことだと言われますが、「これを言ったら、、、これをしたら結果はどうなるか」と考えてからの言動には思慮深さが伴います。

もちろん人間は完全ではありませんから、まちがってしまうこともありますが、でも、主を恐れて生きる人は、まちがってしまったらすぐに反省し、心から悔い改めて、過ちを繰り返さないように努めると思います。そうしてそういう思慮深い生き方が、次第に意識しなくても自然に出きるようになり、知恵ある賢い歩みを続けていけるようになるのだと思います。

神を恐れる人は、神を敬い、神を愛する人です。そして、自分を救ってくださった、イエスさまの十字架の贖いのみ業を片時も忘れず、それを握り締めて生きる人です。

神を恐れるとは、神さまを愛する故に神さまに喜ばれることに努めることです。神さまの聖い光の前で、その光に悖ることがないように真摯に励むのです。
人々を大切に思い、自己の利を図るのでなく、他の人の存在と心を尊び、人を傷つけたり、躓かせたりしないように、と愛の注意をするのです。そしていつも他の人を生かすことを考えて努力をするのです。

ですから、知恵ある生き方とは、一言で言うと、真心から神さまを敬い、その神さまの愛に生きること、と言えると思います。その中で人は自他共に幸いを味わう賢い生き方ができるのだと思います。知恵は、知恵に満ちた全能者から与えられる、香り高い恵みのギフトです。

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ヨセフの物語


創世記に書かれているヨセフの物語は、まさに非常に興味深い人間ドラマ、人生ドラマだ。文学という面でみても、十分に中身がある小説のような、感動的なドラマだが、しかし、一般の小説と根本的に違うのは、「主がヨセフと共におられたので、、、」という事が主題の、「神のみ業、神のみ手の働きである」という点だ。

神は、全知 全能で、万物の主権者でもあられて、人の生き方(特に信仰者の)を奇しい力のみ手で導いておられる。
ヨセフの生涯は、まさにこの神のご摂理を顕している。

神は、神の僕として選んだヨセフの歩みを、ご自身のご計画に基づいて導いておられる。父ヤコブの寵愛を受けて、幸せだった青少年期、兄たちの妬みによってエジプトに奴隷として売られた時から、誤報による投獄までの苦難、獄屋でのある出来事から、エジプトの王の夢を解き明かすという、神がヨセフに与えた特別な賜物を用いての、思いも寄らない大出世 


エジプトの総裁になったヨセフと、ヨセフの兄たちとの再会と、それに関わる感動的な話の展開、エジプトに行くヤコブの一族、、、
ヨセフは苦難によって、人格的にも、実際的にも成長して、主の僕としても、一国の総裁としても十分にやり遂げる手腕が備わったものと思われる。

このようなヨセフの生涯の過程には、どんな時も主に信頼し、主を恐れる敬虔な心を持って生きていたヨセフを「主がヨセフと共におられて」万事が益になるように導いてくださった。

私たちの人生は、ヨセフのように特別でも、ドラムチックでもないが、しかし、どの信仰者の人生にも、主を尊び、主に信頼して従っていくなら、「主が共におられて」万事が益になるように導いていただけるのだ。感謝!



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ルツ記から学んだこと


 ルツ記は、信仰と愛の美しい記録です。嫁と姑の美しい愛の記録です。神の民と異邦の民が、神を尊んで愛し合い、助け合った美しい人間愛の記録です。そこに神さまの愛と、すばらしいご計画が見える事実物語です。

 しかし、この美しい物語の舞台背景は、大きな苦難と人間の深い悲しみであることがわかります。昔も今も、本当に美しい愛の物語は、悲しみや苦しみの中で生まれるのではないかと思いました。

 ルツ記1章1節〜18節を見ますと、ナオミの家族が、母国がひどい飢饉になったので、生き延びるために異国の地モアブに行ったことがわかります。人は時に、生きてゆくために自分が望んでいない、やむを得ない選択をしなくてはならないことが、あるのかも知れません。昔、日本人も国内では生きていくのが難しい状況だったので、アメリカや南米など、海外に出て行って苦労したと聞きます。

 ナオミの一家は、モアブの地でずいぶん苦労した事が読み取れますが、「モアブの野」とありますから、開拓ではなかったかと思われます。開拓の野良仕事は、男性により多くの負担がかかるわけですが、ナオミの夫は家長として苛酷な労働に耐えに耐えていたのではないかと思われます。「ナオミの夫は死んだ」とありますが、今でいうと「過労死」であったか、毒虫か毒草にやられたのかも知れません。それから二人の息子も早死していますが、同じような原因が考えられると思います。中年の男性ならいざ知らず、活力溢れる若者が相継いで死ぬ、という環境はどれほど苛酷だったことでしょうか。

 ナオミも当然、野での仕事も手伝いながら、主婦として、男性に劣らず苦労したであろうと思われます。後で、自分の事をマラ(苦しみ)と呼んでいますから。ナオミは、夫と二人の息子に先立たれて、苦しみや悲しみを打ち明けられる友人もなく、助けててくれる親戚もない、心細さと孤独の辛さにもじっと耐えていたと思います。

 夫や息子たちとの死別の悲しみに加え、男手がなくなったための生活の困難は、想像を絶するものだったのではないかと思われます。しかし、それでもナオミは信仰と愛を失いませんでした。人は、あまりに辛いことがあると、不平不満ばかりを口にするようになってしまったり、周囲に辺り散らしたり、心がかたくなになって、人を愛せなくなったりするのですが、ナオミは信仰があったから、苦難や悲しみの中でも、愛を失わずにいられたのだと思います。人間の力だけでは、酷い悲しみや苦しみに押し潰されてしまう事でしょう。

 神さまは本当に恵み深いおかたです。このナオミに、またとないようなすばらしい二人の嫁、オルパとルツを与えてくださっています。ナオミと嫁たちは深く愛し合っていました。嫁と姑の、こんなに美しい愛の関係は、他に類を見ないのではないかと思います。

 イスラエルの飢饉が終わったと聞いてナオミは、望郷への思いが募ったのでしょうか。故郷へ帰ろうと決心して旅立ちます。オルパとルツは、なんの躊躇もなく、ナオミについて行きます。この二人は、ナオミの生き方の中に、苦難の中にいっそう輝く、イスラエルの神への信仰の力と、その生き方の価値と幸いを見たのではないかと思います。

 オルパとルツは、ナオミと一緒に行こうとしましたが、ナオミのほうが二人の行く末を案じて、自分の国へ帰るようにと二人に勧めました。ナオミは二人を愛していたので、離れたくはなかったと思いますが、しかし、ナオミは、まだ若い二人の女性を異国に連れていって、幸福にしてあげられるだろうか。はたしてイスラエルの地で、モアブの未亡人の女性を娶ってくれる、良い男性に巡りあわせてあげられるだろうかと考えて、ナオミは二人に自分の国に帰って、幸せな再婚をするようにと強く勧めました。(このナオミから、愛とは人の幸せを願う事だと教えられます。)

 ナオミは、二人を実の娘のように愛していましたが、しかし、どんなに愛していても、それだけでは、人を幸福にしてあげることが出来ない、という厳しい現実があります。愛する者に、その人が幸福になるために必要なものをあげる力が、自分にないという場合があるのです。人はその厳しい現実の中でもだえ苦しみ、涙するのかも知れません。

 オルパは、ナオミの言葉に促されて泣く泣く帰って行きました。この時のオルパの行動は当然と思いますし、責められませんが、しかし、ルツの決意は特別でした。

 ルツは、ナオミの言葉に逆らってでも自分の決意を貫こうとします。おそらく、ルツが姑の言葉に逆らったのはこの時が、初めてではなかったかと思われますが。人は時に、もっともな人の言葉に逆らってでも、自分の信じる道を選びとる事が大切な場合がある、ということを教えられます。

 ルツが帰らなかった理由がふたつあると思います。

 一つは、老齢の姑を、一人で旅をさせるわけにはいかないと考えたこと、ナオミ一人だと、ナオミは途中で倒れてしまうかも知らない。とルツは案じられてならなかったと思います。

 もうひとつは、ナオミが信じているイスラエルの神への強い信仰です。ルツは、ナオミの神は、私の神、私の主です。と確かな信仰告白をしています。このような信仰を持つ者が、どんな状況の中でも、自分の事はさておいて、他への愛を貫き通せるのだと思います。

 それにしても、異邦人の嫁をして、ここまで言わせたナオミの生きた信仰と愛の証は、大きな苦難の中で、どれだけ光っていたことでしょうか。深く教えられます。このようなナオミを、神は苦難の中でも見捨てず、助けと慰めを与えてくださっています。

 故郷ベツレヘムにたどり着いたナオミは、そこの人々に、自分が苦しみに合ってきたことを話しました。ひどい苦しみに合ったと告げています。やはり異境の地で、気を張って生きていたのでしょうか。故郷に帰って本音をぶちまけています。(1章20、21節)

このナオミの態度から、私たちも、未信者の間では気を引き締めて歩む必要があっても、信仰の友人、知人には自分の辛さを、弱音も含めて、ありのまま話してもいいのだと教えられ、慰めを得ます。

 2章から、ベツレヘムに着いたナオミとルツは、生活の糧を考えなくてはならなくなりました。ナオミの夫エリメレクはかなりの資産家だったようですが、モアブの地で全てを失ったとナオミが言っています。

 若いルツは、何とか自分が働いて生活を立てたいと願いました。ルツは、落ち穂を拾う仕事をしたいから、畑に行かせてくださいとナオミに頼みました。当時の社会で、身寄りのない若い女性の働き口は落ち穂拾いぐらいだったようです。ナオミ以外は知る人もいない異境の地で、ルツは心細かったかも知れませんが、しかし、ルツが『私の神』と信じた真の神は、ルツを見捨てませんでした。ルツを幸いな出会いの場所へと導かれました。

 ルツが行って落ち穂を拾い始めたのは、はからずも、ナオミの近い親戚で、後にルツの夫となるボアズの畑でした。これは決して偶然ではなく、神の愛の摂理だったのです。

 ナオミが自慢の嫁の事を、事細かに周りの人々に話したのだと思いますが、ルツの良い評判は、ボアズの畑で働く人々にも聞こえていたのでした。その畑でルツは、ボアズをはじめみんなからよくしてもらいました。この時代にも、(イスラエルにも)いじめはあったようですが、(2章22節)ボアズの畑ではそれがありませんでした。雇用主も、使用人もお互いを大切にしあっていたからだと思います。

 (少し余談になりますが、いじめは、どの時代、どこの国の、どんな場所にでもあるもののようですけど、人が人をいじめるのは、相手を粗末に考えるからだと思います。いじめは、相手ばかりでなく、実はいじめをする本人も自分を粗末にしているのです。いじめをする人間は、非常に人格の卑しい、人としての価値の低い者なのですが、どうして人は、自分自身をそんなものにしてしまうのでしょう。現代の、特に日本のあちこちに見られる、子供を自殺に追いやるほどのひどいいじめは、人間の尊厳を忘れてしまった社会のありかたのせいでしょうか。卑しく悲しい、不幸な社会になってしまいました。そんな国を、たとえ物質的に繁栄していても、誰が尊べるでしょう。)

 ボアズは、裕福な人だったようですが、それ以上に、人格的にも、信仰的にも優れた人であったことがわかります。ボアズは公儀を重んじる、誠実で謙虚で勤勉な心の温かい紳士でした。

 ルツが、どのような経路でこのボアズとの幸いな結婚へと導かれたか、そして、イエスさまの系図に数えられたのかは、3章、4章に具体的に書いてありますが、ルツは、その翼の下に避け所を求めてきたイスラエルの神、主から大きな恵みをいただきました。自分の身のことなど顧みず、神への真摯な信仰と、他への愛に生きようとしたルツを、主は豊かに豊かに祝福されたのでした。ルツが信じたこの神さまは、今も信じて従う者を決して見捨てず、恵みをもって顧みてくださいます。

 ルツの幸いな結婚と出産は、姑のナオミにも大きな喜びとなりました。ナオミの苦しみは、主の恵みによって十分報われたのです。ナオミは、実生活では苦難や悲哀を多く味わった人ですが、しかし、人間関係では恵まれた人でした。亡くなった夫も息子たちも、心優しい真面目な人柄だったと思われますし、特別に良い嫁たちにも恵まれました。もしかしたら、人間の心の優しさや、美しさに触れることが少なくて、その逆のものばかりを見せつけられる人生のほうが、人にとって実生活の困難よりも、もっと辛く苦しいのかも知れない。と私は自分が今、体験していることとも重ねながら、ナオミの事を通して、人間の幸、不幸の側面に想いを馳せています。

 ルツ記は、聖書の他の書には見られない、人間の欲望や、罪の醜さが記されていない書巻です。人間が皆、このルツ記に登場する人々のようだったら、ああ、どんなにいいだろうか。と思ったのは私だけでしょうか。笑顔で挨拶される時にも、その人の、その笑顔にはマッチしないと思える冷酷な、醜い問題言動があることを見聞きしてしまうと、「ああ、そのいい笑顔が、その人の心のままであるのだったら…」と、思って涙が滲んでくることがあります。それは、人間の罪なんだとわかっていますが。

 ともあれ、私はルツ記を読んで、ほのぼのと心温かくなり、神さまの愛と、ご真実を改めて深く教えられ、感謝しました。

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